雨やどり


管理人室 -- 日記 -- 2019/11
一覧
2019/11/25 知らない道の歩き方
2019/11/19 エビと言えばわたし
2019/11/15 ふたつの動作のあいだの景色
2019/11/14 おすすめできない!
2019/11/12 キリっていう寂しさ
2019/11/06 いつも明け方の夢
2019/11/02 もうない世界がある
2019/11/01 思いつき旅行記

2019/11/25 知らない道の歩き方

大いに流されて生きていけばいいと思うのだ。私も流されまくって生きている。ただそのときに、「あること」を省かずにいたい。その「あること」を無意識にやっているつもりになっているのをよく見かける。「あること」というのは「じぶんの言葉にする」ということだ。

誰かに何か言われる。その誰かが尊敬する人だったりなんかする。「そのとおりだ!」と思って、言われたようにやってみる。これだって、できれば大したものだとは思うけれど、何かが足りないような気がしてならないのだ。それが「じぶんの言葉にする」ということじゃないだろうかと思った。
最近では、ちゃんとした人がよく考えて言った言葉を、そこらへんの人が世間(!)に分かりやすくいいかえた文章がもてはやされる。そういうことを言っているのではなくて、「じぶんの言葉にする」っていうのはもっと、頭を使わなくちゃいけない。「言葉にせずとも分かっている」はありえない。「言葉にせずとも感じる」はあるだろうけれど。(余談。英語脳なるもののように、感情脳があってもいいと思う。あるはずだと思う。言語への変換はいらないもの。)

「言葉にする」ということは、ときに、「喋る」ということでもある。思うだけじゃなく、喋ってみると、それが間違いだと気づくことがある。だから、誰彼かまわず喋るのではなくて、あるていど人や場所は選んでいるつもりだ。いつも、ではなく、ときに、と書いたのは、そういうわけだ。
行動で見せてくれる人が大勢いる。見ている方は「こういう意図があるんだろう」と想像する。している本人はと言えば、「そうしよう」とは思っている。行動する人がいる場合、そこに意味を見つけるのは、見ている側であることが多いような気がするのだ。本人が「こういう意図だ」と思っている場合でも、見ている側の想像の思考に近いことが多い。
そういう客観的視点のほうが、世の中はスムーズにいくから。でも、そうじゃなくて、いちいちエネルギーを多く使って、そのせいで早死にするとしても、「じぶんの言葉にする」を忘れないでいたい。せめて私は。そして、私が大好きなみんな(全員ではない)もそうあり続けてくれたらいいな。ちなみに、客観的視点はとても大切だと思います。大事なのはバランス。

具体的なことはあんまり言いたくなくて、抽象的(?)な話になってしまった。あんまりまとまっていない思考を文章にしていく。知らない道を歩いているみたいだ。太陽が出ていれば、影をみて方角を判断しながら進んでいく。これが私の、知らない道の歩き方だ。

2019/11/19 エビと言えばわたし

なりたい自分自身なんて見つからないけれど、最近はときどき、これは私自身だと思うことがある。1年くらい前、そうは思っていなかったけれど、私はたぶんけっこう疲れていた。精神的にも肉体的にも。日記を読み返してみても、よめよめした文章ばかりだ。いまと少し雰囲気や口調が違う。漢字が多い。そしてそれを、あぁ私自身だと思ったのである。

自分自身というものを考える時、何を思い浮かべるだろう。よくあるのは、好きなものじゃないだろうか。
「エビと言えば〈わたし〉」(「〈わたし〉と言えばエビ」と言われているようではまだまだである。こう言われるくらいでなくてはだめだ)の洗脳はその発想だ。確かに私はエビが好きだけれど、そのことは私自身にはならないような気がする。なぜならば、エビが嫌いな人でも私のことは好きになれるからだ。たぶん。エビが嫌いな人が私のことをその理由で嫌ってくれたのなら、私がエビを好きなことは、私自身になるだろう。
しかし、ある作家さんの作品が好きだということは、まさに私自身だと思う。その作家さんの作品が歯に合わなくても私のことは嫌いにならないのは、エビと同じだ。ただ、それだけではないと思うのだ。「積み重ね」あるいは「歴史」と言ってもいいのかもしれないが、そういうものがここにはある。そもそも、もちろん大好きだが、好きだとは簡単に言い切れないのである。それよりももっと、「あるタイミングで出会ったこと」や「何度も読み返してきたこと」が、いまの私自身になっている。

話はエビに戻る。「私がエビを好きなこと」が私自身ではないとしても、「私がエビを好きなことを私自身だとは思わないこと」は私自身なのである。ほかにも、ずいぶん前のできごとを思い出して、「向かいのホームのあの人に手を振り返せない私自身」を自覚するなどした。手を振り返せたらいいなとは思うけど、手を振り返す私自身になりたいわけではない。手を振り返せない私自身だからこそ、手を振り返せたらいいなと思うのである。「誰かのようになりたい自分自身」よりも「誰かをすてきだと思う自分自身」のほうが、すてきだと思う。

今日の日記に内容を踏まえたタイトルをつけるなら「自分自身について」とか「好きの正体」とかになるのだろうけれど、そうしない私自身がいる。日記なんて思想と言うほどのものでもないし、明日には変わっているかもしれない戯言だ。つまり、詩である。意味は後付けで構わない。だから、いいなって思う響きの言葉をもっと喋ってみればいいじゃないか。

2019/11/15 ふたつの動作のあいだの景色

すっきりとした心地というのがある。おなかがすかない日の紅茶。コーヒー豆を切らした生活。あまり眠れなかった日の妙にしゃきっとする感じ。昨夜は、雨の音を聞きながら、3時半ころようやく眠った。目が覚めると朝だった。晴れている。今日は、すっきりとした心地というやつが、ずっとあった。
いつからか、私にとってごはんは、「おいしいから食べる」ものから「おなかがすくから食べる」ものへ変わっていた。「おなかがすくから食べる」ということは、おなかがすいていなければ食べなくてもいいということだ。そのことにようやく気がついた。暑すぎなかった今年の夏が終わり、久々に体重計にのると高校生の頃くらいになっている。大学で2キロくらい蓄えたぶんが、もうない。まあ2キロくらいではそんなに見た目に変わりはなくて、自分で何となくすっきりした心地になるくらいだ。 
夏の終わりから、すでに始まっていたのかもしれない、このすっきりした心地というやつは。それが今日は、なんともすごい勢いで流れ込んできたような感じだ。「流れ込む」と「すっきり」がなんとなくかみ合わない言葉のように思えて、いい。

この、すっきりした心地のときにしか見えない世界がある。秋をこんなにきれいだと思ったことは、今までになかったと思う。信号待ちで車を止めた。窓の外を見てから、目を閉じて、想像する。目を開けると、想像したのと同じ秋がやはりそこにある。きれいだと思った。窓の外を見て、きれいだと思ったのではない。このふたつの動作のあいだにある景色を、私は見ていた。
実際に見た景色を思い浮かべることを想像とは言わない、などと冷静なツッコミが聞こえてくる。そんなことを言われたら、悲しくなって、そうですね…としか言えない。が、話せば通じると思いなおして、「私が想像したのは、見た景色そのものではなく、見た景色がそこにあるということです」と言ってみることにする。これでどうでしょう?

やっぱり、あんまりいろいろ詰め込み過ぎると、ふたつの動作のあいだにある景色の見方を忘れてしまう。そんなことをしている余裕はなくなる。今年の秋はほんとうにきれいだ。信号が、青になる。

2019/11/14 おすすめできない!

紅茶がすっかり冷めている。途中から紅茶のことはすっかり忘れていた。ついに、むかしから大好きな作家さん、岡田淳さんの新刊が手元にやって来た。地元の本屋では「取り寄せもできるけど、時間かかっちゃうから、ネットのほうがはやい」って言われるに決まっている(いつもそう)から、もう発売前から予約購入していた。で、今日の仕事が始まる5分前に届いたってわけ。
「今夜、読む!」と思って、大事にしまっておく。とうとうその今夜がやってきてしまった。読み始めるのも読み終えるのももったいなくて、22時過ぎから時間をかけてゆっくり読んだ。

ハァーー、よかった!おもしろかった!この作家さんには「ハァー」っていつも思わされるのだけど、これが伝わったことはあんまりない。言葉でいろいろ言うより「ハァー」って感じなのだ。それでも、言葉にして誰かと喋ってみたい。だからやっぱり、言葉にしていこうと思う。だけど、言葉にするのは明日以降、いちど寝て起きて、またあらためて読みながら書くことにする。とにかく今は、高揚した気分を残しておく(そんなわけだから文章がめちゃくちゃなのは許してほしい)。
明日からもまたこの世界で生きていかれそうな心地がする。いまいろんなところに散らばっている同窓生たちを思う。みんなもう、読んだかなぁ?いろんなこと、話しに行かなくちゃ。

岡田淳さんさんの本は、どれをすすめていいか分からない。どれも私は好きで、批判したり否定的な気持ちで読んだりすることがないのははもちろん、批評しようなどとも一切思わない。楽しくて読んでいることだけはぜったいに言える。それがさっき書いた「ハァー」ってやつなんだけど、私は私なりのこういう読み方を気に入っている。この気持ちを分かってもらえる作品があるとしたらこれだろう…とかは思うのだけど、別に分かってもらえなくてもいい。だから、この作家さんが好きだと表明することがあっても、おすすめするのは難しいなと思う。自分で出会ってみてほしいな。
子どもの頃に出会って読み続けてきた私と、大人になってから出会った誰かと、私が既刊を読んだものを新刊で読んだ誰かと、みんなそれぞれの読み方をしているはずだと思う。私なりの読み方といったのは、こういうことを思い浮かべて、だ。どれがいいとかではなく、違う読み方をしていても同じように読者であり続ける人たちがいる(ちなみにさっき、そういう人たちを「同窓生」と呼んだ)。それがとてもうれしく、心づよい。

まだまだあと数時間は喋り続けられそうな心地だけど、これ以上喋ると、新刊の内容についてまでべらべら喋りそう。いったん終わりにします。

タグ: 読書  岡田淳さん 

2019/11/12 キリっていう寂しさ

このところ眠さで何もできなくなってしまう時がある。起き上がれない。歩くとフラフラする。頭痛がする時もある。これ、ほんとうに「眠さ」なのだろうか。そしてついさっきまでそんな状態だったのだが、0時を過ぎて急に復活した。思えば、23時台がもっとも眠い(仮)のだ、ここ数日。

22時過ぎに電話をした。電話というのは私が最も苦手なもののひとつで、画面に通知は出るが、音もバイブもしないように設定してある。気づかなければ、電話に出なくてもいい言い訳になる。しかし、気づいても出ないことがある。だめじゃん。
話が逸れたが、さっき電話をしたのは、好きな人とだった。好きな人だろうと何だろうと電話が苦手なことには変わりないのだが、いくらか気は楽である。ちなみに、好きな人なんて言うと語弊があるが、ただ単に好きな人でしかないので、それ以上でもそれ以下でもないと分かってほしい。
また話が逸れた。その人は電話で「気つかってる?」と聞いた。私は普段からけっこう、気をつかっていると思われがちなのだ。こちらはあなたのことが好きだし、けっこう気を許して話しているつもりなのに、そう思われてしまう。思い返せば、好きな人でない人(嫌いな人とは敢えて言わない)にはそんなふうに言われたことがない。好きだから、そう言われちゃうのかな。
なんか今日は、余計な話ばかりしている。「気つかってる?」と言われ、キリっていう寂しさが胸に湧く。なんかこれ、やみつきになりそうだなぁと思った。こういう一言って、不思議と幸福なのかもしれない。どうしてなのだろうと考えてみると、その言葉のなかには親しみを感じるからだ。たぶん、向こうは私と仲良しでいたいと思ってくれているのだと分かる。

「気をつかう」ってことはけっこう難しいなぁと思う。それをすることがというより、「気をつかう」っていうのがどういうことなのかを考えることが、難しい。私なりの「思いやり」は、気をつかっていると捉えられることが多いような気がする。さっきの電話の場面のように。仲が良ければ良いほどからかったり冗談を言い合ったりも、もちろんする。だけど、そもそも好きだなぁという気持ちがここに深く在るのだ。そんなことは思い出さずに付き合えばいいのかもしれないが、そのことを思うたびに、私の口数は減っていく(これを「思いやり」と呼んでみた)。それで、気をつかっていると思われるのかもしれない。
「喋らない」ってことはとても難しいなぁと思う。それをすることがっていうより、「喋らない」でいることの事情がうまく伝わらないことが、難しい。だからこそ「喋らない」をうまくしていきたいなとは思う。そして喋らない私の、好きの気持ちを、信じてほしい。

しかし、電話で喋らない人ってどうなのかしらね。電話って声しか伝わらない(だから苦手)のに、その声を出さないってのは。それで、うーとかあーとかばっかり言っているの。私のことね。

2019/11/06 いつも明け方の夢

久しぶりに会った。いつも明け方の夢。きっと、同じ夢を見ている。離れている私たちは、夢の中で、同じ時を過ごしてみたりする。そうするしか、理由もなく会えないのだ。そこは学校の教室みたいなところだった。後ろの隅で、ひとつの毛布にくるまった。こっそりふた言くらい交わした後で、私たちはそこを抜け出すことにした。といっても、いなくてはいけなかった訳ではない。ただ出ていったという話だ。そこは神戸の街だった。ほんとうの神戸の街とは違う。だけどそこが神戸だと私にはわかった。道を並んで歩いた。それが私だけの夢ではないと分かったのは、愛しい人が、私のしてほしいようにはしなかったからだ。私には思いもつかないようなことをしてみせる。そういうところがかわいくて大好きなのだけれど。私の頭では想像しきれないことが、世の中にはたくさんある。これこそを私は「想像力」と呼んでみる。この想像力をいつも私に思わせてくれるのが愛しい人だ。明け方に見るのは、愛しい人が、夜中はまだ眠っていないからだろう。ふたりがお互いを思った時に、同じ夢を見るのだと思う。だとしたら私は毎晩、その準備はできているのにな。こういうところが少し寂しい。
ところで、愛しい人って誰だ?

2019/11/02 もうない世界がある

もう少し私の心がきれいだったなら、幸せになれたのかもしれない。考えることが、下手に得意なせいで、これからも幸せにはなれない。いや、ほんとうは心の底から幸せなのである。目の前の人には、私の知らない〈むかし〉や、私の知らない〈これから〉がある。そのことをとても幸せに感じる。幸せすぎるのだ。だから、寂しい。
寂しさがこの心に巣くってから、1年半と少しが過ぎた。この寂しさのおかげで私はなんとか生きてこられたのだと思う。はじめに「幸せになれない」と言ったのには、語弊があるかもしれない。私がこう言ったのは、わかりやすい幸せを手に入れることができない、という意味で、だ。寂しさをほんとうに感じたことがなかった。1年半と少し前に私はそのことに気づいた。それまで「寂しくなるね」なんて言い合っていた気持ちは、ほんとうではなかった。生まれて初めて寂しさを感じてから、そしてそれは「寂しさ」と言うのだと分かってから、すっかり困ってしまった。もちろん今も困っている。
考えることが一層増えた。口にしてみないまでの時間に気を遣うようになった。前よりも私という人間はたぶん少しは良くなっている。それなのに、寂しさは増していくばかりだ。今はただ、寂しさを良くないものだと思いたくない。思いたくない、ということは、思ってしまっているということだろうか。ちょっと考えることができるからと言って、こんなに汚れた心ではどうしようもない。考えるのをやめることは簡単だ。そうしたら、すべてを忘れて、「幸せならば」と言っていられる人生だ。
「もうない世界があること」の心強さがわかった瞬間から、本当の幸せには寂しさがともにあることを考えるようになった。私はこれからどうしたらいい?寂しさっていうのは何?なぜあるの?ああ…、考えるのをやめることが、簡単なはずがなかった。

2019/11/01 思いつき旅行記

一日の労働時間が少ない代わりに、毎日働いている。毎年秋には一週間くらいの休みを作って旅に出ることにしたいのだが、今年はなんやかんやで仕事が入り、せっかくひねり出した秋休みは、2日間にまで減ってしまった。

10月はじめ。死んでもいい、と思った。私が死んでも不幸せになる人はいない。そうであるうちに死ぬのがいいと思った。大好きな作家さんの新刊が11月に発売されると聞いて、それを読めないのは残念だが、まだ私の出会っていない誰かがそこにたしかに存在することを強く思った。死んでもいい、なんて言い方をしたが、そのくらい浮かれていたのだ。このまま目を覚まさない想像は心地よかった。
10月中旬。浮かれていた私は、自分の発した言葉の想像力のなさに急に悲しくなる。このままでは死ねない、と思った。
10月30日。咳が止まらない。20時に仕事を終え、明日から2日間の秋休みだと思い出す。唐突に神戸に行くことを決める。ネットで行きの切符だけ取って、その日は寝た。

というわけで、1年ぶりに神戸に行った。日記などを見ると、去年も10月31日に神戸にいる。新神戸で降り、散歩がてら三宮まで歩く。電車に乗って神戸駅まで行く。
友達がすすめてくれた喫茶Oへ。駅から少し回り道をしながらも無事到着。「迷わなかった?」という問いに、はい、と答えたのは、まちがえて入った路地も行き道に変わりないからだ。楽しかった。ほんとうに楽しかった。かわいらしい人たちだった。「人から聞いて来た」というと、誰だろうねなんて言って、写真(5年くらい前から、来店者の写真を撮ってファイリングしているそうだ)を探してくれた。とうとう見つけたときの私たちは、それはもう、これまでもずっと仲良しの友達みたいだったと思う。そのようにはしゃいだ。幸せだと思った。写真のなかの、遠くにいる人にも会えた。すっかり長居してしまった。私も写真を撮ってもらったけど、何度やってもピントが合わなかった。そのくらいのほうが美人に見えていいや。被写体になることは苦手なのに、このときはとても嬉しかった。
高速神戸駅のほうにあるSという喫茶店に行く。去年、7年以上ぶりに会った友達と一緒に入った。今回は一人だ。「改装したほうが良いかなって思うくらい古いんだけど、そういうの、レトロいうん?ただ年月が経って古くなっただけなのに」と店主が言うとおり、うわべだけでない歴史がある。ただ何となく惜しい感じがするのは、困ったように気を遣いすぎてるからだろうか。いろんな人がいる。それが誰かにとっては良さでもあるから、こうして続いている。
もう17時くらいだった。神社を通り抜けたところのYは「営業中」となっていたから入ったが、「今日はもうしめよう思ってたとこや。すまんな」と憎めない笑顔で言われてしまった。ちょっと残念。言葉が、いいなと思った。
三宮の方面へ、今度は歩いて向かう。路地を少し進んだところに、そのお店はあった。H喫茶店。そろそろ閉店かななんて思いながら、看板はまだOPENとなっていたから、入る。そのおばあさんは「魔女」だった。この世の中には魔女がいて、私はその魔女たちに会うたびに魔法で元気をもらっている。「お食事ですか?」と聞かれたので「飲み物を」と言ってホットコーヒーを頼む。チョコレートを小皿につけてくれた。少しして旦那さんが帰ってきた。ずっとここに座っていたいなと思った。店を出ると看板はCLOSEになっていた。営業時間すぎてたんだ、と思った。どこにも書いてないし、追い出されたりせかされたりもしなかった。「お食事ですか?」と聞かれたことも思い出す。次また通りかかったときもやっているといいなと、心の底から思う。

三宮駅のあたりまで戻ってきた。初めて神戸に来た日に迷いながら連れて行ってもらい、去年は迷いながらひとりで行ったKという店に、今年もまた迷いながら行った。覚えていてくれたみたいだ。そこは何にも変わっていなくて、ああタイムスリップや(もう言葉がうつってきている)なんて思いながら、焼酎を飲む。泊まるところも決めていないと言ったら、また戻ってきてもいいからねと言われ、「行ってきます」と言って店を出る。「ただいま」を言うのはいつになるだろうか。
もう北野の異人館のあたりは真っ暗なのは分かっていたが、風見鶏を見に行く。さらに街灯もない道をスマホの灯りで照らしながら、港みはらし台まで行く。完全に時間を間違えている。鳥目だから何も見えない。初めて来た日も真っ暗だったことを思い出す。思い出すというよりも、ずっと覚えている。写真を送りつける。
不動坂を下り、Yという老舗のバーへ。中も見えず蔦がびっしりのような建物。さっくりネットでみると、ぼったくりのような感じでも怖い店でもなさそうなので入った。マスターが品をわきまえている店だった。店もお酒もマスターも良かったが、客がちょっと残念だった。残念なんて言ってもまあ、普通はそんなもんである。
もう一軒行きたいと思い、Yで紹介してもらったSというバーへ行く。マスターがこれまたしっかりした人のようだった。ここはお客さんが良かった。ほどよい距離感やタイミングでお話をして楽しかった。
神戸が好きで1年に1回は来たいと思ってると言うと、この時期は何もないとよく言われた。何もなくないじゃない…。歩くべき道、行くべき場所、会うべき人がこんなにある。なにがそんなにいいの?と問われ、迷って「言葉、かなぁ」と答えた。この言葉の世界観は、そう、子どもの頃から親しんだ世界そのものだから。

割としっかり酔っぱらってそのあと1時間以上電車に揺られていたのは、我ながらすごいと思う。大阪からさらにもう少し先の兄の家に泊めてもらうことにした。

日が明けて、月も明けて、11月1日。ひとまず大阪城を見る。ほんとうに見ただけなのだが、その大きさに泣きそうになる。大きさと言うのは物理的なものではなく、そこから感じる歴史の話だ。だから私は城が好きだ。しかし、学生の頃、歴史の授業は苦手だったなぁ。そのまま歩いて梅田のほうに向かう。
途中、Mという喫茶店に入った。喫茶店としてはいい店だと思う。おなかがペコペコだったので、モーニングをいただく。おいしい。いい意味で「喫茶店」以上に何かがあるわけではない。
歩き回ったが、ピンとくる店がそのあとは見つからず、すっかり街酔い(?)してしまった。いつかまたもう少し元気な時に来たい。

早めに大阪を切り上げて、名古屋へ向かう。名古屋から伏見のほうへ歩くと、目が回っていたのも落ち着いてきた。Kという喫茶店で、ひとやすみする。そっと扉を開けて入ると誰もいなく、扉にかかったベルが鳴るように入りなおした。ホットコーヒーを頼む。ぱりんことチョコレートをつけてくれた。お手洗いをかりる。閉まっていたはずなのにちゃんとドアが閉まらない。この店よく潰れないな、と思うのだが、そうあるべきだとも思った。また来たい。
せっかく気分も体調も落ち着いたのに、そのあとの特急がめちゃくちゃ揺れて、完全にやられた。たぶんそうなるだろうとは思っていたが、予想以上に応えた。家に帰って1時間くらい起き上がれずにいた。体調はそんなだったが、まあ、病み上がりだし。気分は良かった。

あー、ほんとうによかった。気も滅入っていた(それで文章ばかり狂ったように書きつけていた)し、体調もイマイチで、今年はもう無理かと思っていたが、神戸に行かれてよかった。長々と書いてきたが、いま一番大切な気持ちは、いつか誰かに話すためにとってある。私の中にある世界が広がっていくような心地だ。ブルンブルンと。

タグ: 旅 

[日記] Page Top