雨やどり


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2023/11/16 遠いはずの、憧れの場所 …高楼方子『十一月の扉』
2023/04/14 ケニーのまど …モーリス・センダック『ケニーのまど』
2022/09/07 ねずみとくじら …ウィリアム・スタイグ『ねずみとくじら』
2022/02/18 真実の気配 …M.B.ゴフスタン『ゴフスタイン つつましく美しい絵本の世界』
2022/02/03 ツバメ号、アマゾン号ばんざい! …アーサー・ランサム『ツバメ号とアマゾン号』
2022/01/24 子どもの感覚・待つ …児童文学雑誌「飛ぶ教室」14号
2021/09/00 9月0日大冒険 …さとうまきこ『9月0日大冒険』
2020/07/20 読書「海」ほか …井上荒野『あたしたち、海へ』・ロバート・ウェストール『海辺の王国』他
2020/07/03 738歩 …小川洋子『海』
2019/11/14 おすすめできない! …岡田淳『図書館からの冒険』
2019/07/29 わたしの秘密の花園 …さとうまきこ『わたしの秘密の花園』
2019/05/05 思い出にならないように重ねていく …西加奈子『きいろいゾウ』
2019/03/12 川の話と、坂の話 …ヒュー・ロフティング『ドリトル先生のサーカス』
2018/11/22 オリーブの森で語りあう …M.エンデ、E.エプラー、H.テヒル『オリーブの森で語りあう』

2023/11/16 遠いはずの、憧れの場所

 高楼方子さんの『十一月の扉』を読み終えた。はぁ~~、読み終えるのがもったいなくて、最後のほうはゆっくりゆっくり読んだ。高楼方子さんというと、「のはらクラブ」シリーズ、『お皿のボタン』、『わたし、パリにいったの』のような、素直でかわいい絵本のイメージがあった。登場人物のみずみずしさはそのままに、332ページ分の深みのある一冊で、読み終えて思わずため息が出た。
 引っ越すことになった中学生の爽子。2学期が終わるまでの2か月限定で、偶然見つけた「十一月荘」で暮らすことになる。物語の始まりで、この建物が登場した瞬間から、そこがぜったいにすてきな場所であると思える。そして、やっぱりすてきなところだった。読みながら、そこで暮らす自分自身を想像してうっとりしちゃう。そういう力のある物語だった。遠いはずの憧れは、現実味があるほど、近くなる。たとえば、岡田淳さんの「こそあどの森」シリーズで、スキッパーがウニマルで暮らしているように! A.ランサムの『ツバメ号とアマゾン号』で、子どもたちの無人島での暮らしの近くに大人たちの存在があるように! どちらも、そこに自分自身が入り込んだとしても、ちゃんと暮らせると思える。十一月荘もまた、わたしにとってのそういう場所になった。
 物語の中にもうひとつの物語(爽子が書く「ドードー森の物語」)があるのもいい。現実と「ドードー森の物語」が互いに影響を与え合っている。一方がもう一方に飲み込まれることなく、どちらもちゃんと存在しているのがわかる。そして、それがすてきな秘密であることに、きゅんとする。
 それから、11月からクリスマスまでの、特別な季節感が好き。11月の美しい秋の日は宝物のような感じがする。冬へと季節が変わっていくのは、心の変化と似て、さりげないのにいつのまにか姿も色も変わっている。そして、クリスマスの光。この季節感が物語にぎゅっと詰まっていて、同じ季節に読めば深まるし、違う季節にもきっと思い出せる。
 児童書ということになっているけれど、子どもだけの本じゃないと思う。高学年以上なら自分で読めますというだけで、何かのジャンルに分類してしまうのはもったいない。だけど、すべての人に薦めたい本というよりは、この世界や登場人物の気持ちを大切に思える人が読んでいたらいいなぁ、と勝手に思う。

2023/04/14 ケニーのまど

おととい、図書館に行けて、絵本と児童書をかりてきた。読んだ本のページも更新しています。
その中の一冊、モーリス・センダック作『ケニーのまど』がとてもよかったので、買おうか迷って、買わないことにした。わたしはたぶんこの本を折に触れてまた読み返していくけれど、いつでも手に取れるようにしておく必要はないと思った。しかし、何度でもまた図書館で借りたりどこかで見つけて手に取ったりすると思う。もしかしたら、そのうち買うかもしれない。それでも今は、そばにある必要がない気がする。なるべくたくさんの人がこの本を手に取ったらいいなと思う。そして、この本を必要な人が、この本が必要だということに気づいてくれたらいいなと思う。そういう本だった。(読んでみたくなった?)
ところで、大人が読むような本を最近あまり読んでいない。高校生や大学生の頃は読んでいたのに。いいのかなこんなで。でも、だって、子どもの本のほうが楽しいんだもの。

2022/09/07 ねずみとくじら

絵本、ウィリアム・スタイグ『ねずみとくじら』(せたていじ訳)がすばらしすぎる。
まず、瀬田貞二さんの訳が、すごい。本当にすごい。言い回しがむずかしいところもある。むずかしいというか、昔風というか、詩的というか。でもそれが、すごくいい。漢字が一切使われていないところも、言葉のよさを増幅させている気がする。小さい人が読んではっきりと意味が分からなくても、こういう言葉の味わいを経験できるのは、すてきなことだと思う。だからぜひ小さい人達には読んでほしいし、もちろん大きい人たちも読んだほうがいい。
物語もすてき。ねずみが船出したのが、9(く)がつ6(むい)か。昨日だ……! いい時に読んだ。そして、ラストでなかよしのふたりがかけあった言葉、せつないとかあたたかいとかよりもっと、心にじわっと広がるものを感じた。ものすごい強さも感じる。物語の始まりのねずみのようにまだ海に憧れているだけのわたしは、いつかこんなふうに言えるかしら。

2022/02/18 真実の気配

『ゴフスタイン つつましく美しい絵本の世界』を読んで、ゴフスタインさんはとてもまっすぐなひとなのだろうと思った。インタビューの中で、自身のかく絵本の文章を暗誦するという話がある。暗誦している時に言葉がすんなり出てこないものは、正しくない言葉だと判断するのだそうだ。すんなり出てくるのは、正しい言葉。そうして、正しい言葉を「見つけ」ていく。この話の中で、「選ぶ」のではなく「見つける」のだとおっしゃっている。ほかの場面でも、「つくる」というより「引き出す」。最期のことばでも、こんなことを残している。
真実があって
わたしはその気配を感じるの。
だから私はその真実を
明らかにしなくちゃいけないの。
彼女のかく文章や絵はわたしたちにも「真実の気配」を感じさせてくれる。彼女の思う「真実」とは何なのか。明確にはわからないけれど、きっといいものだと思える。彼女は、人生をかけて「真実」を「見つける」作業をしたのだろう。その姿勢がとてもまっすぐだと思ったのだ。だから、作風が変わっていくことも自然なのだ。今までやったことのないことをする時、変わらないまっすぐさがあるから、わたしたちはそこでもまた違う「真実」を見る。
この本にはいろんな作品が少しずつ載っていて、どれもとても気になり、図書館でいくつか予約した。というわけで、ゴフスタイン月間になります。
並行してランサム全集も読み進める。図書館で借りてもどうせ買うことにしそうだから、少しずつ買って読んでいくことにした。ほとんど児童書ばかり読んでいる。みんながやめちゃっても、わたしはずっと、今より小さいときに読んでいたような本を読みつづけるし、公園で遊びつづけるぞ。わたしはわたしなりに「真実」を見つけてみたい。本と公園には「真実」がたくさんあると思うの。たとえ見つからなくても、見つけようとしていたい。

2022/02/03 ツバメ号、アマゾン号ばんざい!

なぜもっと早く読まなかったのだろう……! アーサー・ランサム『ツバメ号とアマゾン号』を読んだ。ランサム・サーガ(ランサム全集)第1巻。とてもよかった。ウォーカー家の4人きょうだいは、夏休みに訪れる湖で、小さな帆船ツバメ号をあやつり、子どもたちだけで無人島ですごす。こんなにも、自分もそこにいて一緒に冒険しているように感じる物語は、なかなかない。この物語がいつの時代にもどの世代にも読み続けられていることに、納得。
読んでいない人は、すぐ読んでください。読んだことのある人も、時を超えてふたたびどうぞ。以下ネタバレもあるので、まっさらな気持ちで読みたいひとは、読んだ後に戻ってきてください。

まず、子どもたちがみんないいやつだ。
ウォーカー家のジョン、スーザン、ティティ、ロジャの4人は、それぞれにいいところがたくさんあって、それが冒険の中で存分に発揮され活躍している。その生き生きとした姿に、読者は彼らととても親しい気持ちになる。船長ジョンが、うそつきと言われて傷ついた時に考えたこと、とった行動。ああやって乗り越えていくしかないのよね。航海士スーザンの、しっかりしたところ。アマゾン海賊との戦争に向かう夜、ロジャがたくさん着込んできたときにひとり冷静だったところが好き。いちばんの空想家、AB船員ティティ。彼女は、だれよりも、この冒険の場所を自分のものにした。そして、愛すべきボーイ、ロジャ。4人の中でいちばん年下の彼も、一人前に仕事をこなす。最初のシーンですぐに好きになった。「アイ・アイ・サー」と従順な姿もかわいい。
アマゾン海賊のブラケット姉妹も、劣らずいい。アマゾン号の船長ナンシイは、ファンも多いことだろう。颯爽と何でもこなす姿はかっこいい。あらしの夜もさすがだった。航海士のペギイは、憎めないキャラクターだ。いつもしゃべりすぎてナンシイにとがめられている。その話しぶりに親しみと愛嬌がある。

彼らはすっかり探検家と海賊になりきっているのだけれど、これが実はごっこ遊びなのである。そのことを子どもたち自身ももちろんわかっている。彼らのあこがれは、そのまま私たちのあこがれでもある。だから、この物語は、目の前に湖や島があって、一緒に船をあやつり無人島で生活しているように感じるのだと思う。そしてそれが、めいっぱい楽しい時間なのだ。

そして、彼らがめいっぱいこの冒険を楽しめるのに欠かせないのが、大人の存在だ。この物語のいいところは、すてきな大人たちがたくさんいるところだ。
なんと言っても、ウォーカー家のおかあさんがいちばんすてき。格別にすてきな大きい少女なのである。どの子どももきっと、このおかあさんが大好きだと思う。こんなおかあさんがいたらすてきだと思うに違いない。そして、子どもだったことのある大人(あるいは大人になった子ども)はみんな、このおかあさんのようでありたいと思うだろう。
子どもたちは毎朝ディクソンさんの農場へ牛乳をもらいに行くことになっている。大人たちが、子どもたちの冒険を邪魔することなく、彼らの安全を確認する目的もある。彼らが子どもたちだけで無人島で生活することは、こうしてすてきな大人たちによって守られているのである。そのことをもちろん子どもたち自身もわかっている。だからこそ、こんなにのびのびとしていられるのだ。大人は、読むたびに、このようにすてきでなくてはいけないと思うだろう。
船長フリントの書いた本『雑多なこけ』は、ぜひとも読んでみたいものである。海賊だった(という設定の)この男は、海の掟をわきまえていて、仲間になったら最高に楽しい。子どもたちとの決戦は、ほんものの海賊と探検家を見ているようだった。

冒険の終わり、つまり夏休みの終わりは、彼らとともにさみしかった。ナンシイは「永久に学校へ行ってるわけじゃない」と言う。続けてこう言う。大人になったら、「一年じゅうこの島に住める」。なんと頼もしい! ジョンも、「いつかは海へ行く」「でも休暇には、かならずここに帰ってくる」と言う。

図書館でかりて読んだのだけれど、第1章を読み終えたときにはもう、家の本棚に追加することを決意した。今日さっそく、ランサム・サーガ第2巻『ツバメの谷』を図書館でかりてきたので、読みます。重ね重ねになりますが……、みんな絶対に読んで! すぐ!

2022/01/24 子どもの感覚・待つ

「子どもと大人の関係において、待つことはすごく大切」だと、雑誌「飛ぶ教室」14(2008夏)号の斎藤惇夫さんと小寺啓章さんの対談の中で、斎藤さんがおっしゃっている。斎藤惇夫さんと言えば『冒険者たち』などで知られる方で、小寺啓章さんは35年のあいだ図書館員として子どもたちにたくさんの本をすすめていた方。この対談を読んで、子どもについて、子どもと大人について、再びよく考える機会になった。

テーマは「冒険」。それ以外の打ち合わせはしていない状態でこの対談は始まったようだ。どんな話が出てくるほうが分からないほう面白いじゃない、と斎藤さん。まず、今の子どもたちはどんな本を読んでいるのか、という話になる。「冒険」という言葉が死語に近くなってきているのかも、という話が面白い。斎藤さんの著書には「冒険」とつくものがたくさんある。「新作を出すときは、タイトルを小寺さんにご相談します」と笑いつつ、それしかつけようがなかったともおっしゃっている。斎藤さんは子どもの頃から本を読んできた理由を「主人公と一緒に旅に出て、思いがけないことに出会って、はらはら、どきどきしながら家に帰ってくる。その喜びだけを求めていた」と語る。旅に出ることはもちろん、「家に帰ってくる」という一言があるのがとてもいい。

これまでに読んだ冒険の物語についてしばらく語ったお二人の話題は、小寺さんが図書館員を務められた「山の図書館」についてへと移っていく。会話が進むなかで、小寺さんの大人になってからの児童書の読み方について、斎藤さんがある確信をしていくのが分かる。
小寺さんが物語を読むときについて、「山奥で遊んでいたころの感覚に近いんじゃないですか」と斎藤さんは問う。というのも、10年ほど前、一緒にイギリスへ行かれたときに、「あそこにロビン・フッドがいる!」と小寺さんがバスの中から叫んだらしい。そのエピソードを「実におかしかったです」と笑ってされている。それに対して小寺さんが「あのときは物語が蘇ってきて⦅中略⦆新しい自分を発見したようで」と答える。「それは新しい自分ではなく、作品を読んで夢中になっていたご自分と再会されたんじゃないでしょうか」と斎藤さん。その時の小寺さんの姿に、「子どもの感覚」の存在を、ご自分の目で見た(そしてそれを10年たっても話すほどによく覚えていた)のだろうなと思う。
二十代を過ぎてから出会った作品が多いという小寺さんに対し、斎藤さんは「二十代の小寺さんは、子どもと同じ感覚で読んでいらっしゃった」と、何度も言う。何度か言葉のやり取りをしていくうちに、最初は「かな」という語尾だったのが、次におっしゃったときは「やっぱり~なんだ」というふうに変わっていった。斎藤さんは、ご自身の場合は「ランサムの翻訳が出たのは、僕が高校生のとき」で、「しまった、ちょっと遅れちゃった!」と悔しかったそうだ。それまでの話の中でも「子どもの感覚」というワードは出てきており、斎藤さんは、書くことでそれを取り戻そうとしたのかもしれない、というようなことをおっしゃっている。そんなご自身のことや小寺さんとの思い出をふまえて、小寺さんの本の読み方について「子どもと同じ感覚」という確信をされたのだと思う。

ここで、ふと思う。「子どもの感覚」というのは、つまり、どういうものなのだろう。物語にわくわくするとか?物語に出てくる食事をおいしそうだと思うとか?子どもたちは、私たちが思うよりはるかに多くの時間を持っているのかもしれない。大人の生活に憧れてみたり、反対にそんなものはずっと遠くだと思ってみたり、大人になってみたり、子どもであることに自覚的でそれを言い訳にしたりする。私が関わっている子たちがそういうことを口にしたり表情に出したりするとき、あっ、この子は今ちがう時間にいる! と感じることがある。子どもたちはいっぱい持っている時間を自由に行き来する。時間だけじゃないかも、場所もかな。当たり前にどこにでも行こうとする。
大人としてそういう人たちを相手にするときに、同じ感覚を持たずに知識とか建前だけを押しつけると、簡単に子どもたちを守ってしまう。守られた子どもたちは、それはそれで楽(ラク)なのかもしれないけれど、あとになって、楽しかった、とは思わないだろう。ましてや、その大人の存在が「自分の子ども時代を楽しくしてくれた」とは絶対に思わないはずだ。本当にいいなと思える物語について考えるとき、大人について考えたのと同じことが言える気がする。

話をお二人の対談に戻す。斎藤さんの確信に対し、小寺さんご本人はいまいちピンと来ていなそうである。けれど、小寺さんのされた図書館に来る子どもたちとの話を聞いて、きっと斎藤さんのおっしゃる通りなのだろうなと、私も思った。「子どもが本を返しにきたときを大事にするようにはしていた」という。「物語を楽しんだ子どもは、体を見れば分かるんです。破裂しそうなくらいぱんぱんに膨らんでいる」らしい。「その気持ちを誰かが受け取ってやらなくちゃいけない」と続く。だれでもいい、とおっしゃるけれど、なかなか簡単にできることではないと思う。できるだけの力があっても、小寺さんほどその役をやりきれる人は、さらに限られるのではないか。斎藤さんは「寄り添っている大人」「一緒に体験してくれる大人」というふうに言い換えている。
本をすすめることについてにも話が及ぶ。小寺さんは「待つのが仕事と言ってもいい」とおっしゃっている。この場面で、この文章の冒頭に書いた斎藤さんの「子どもと大人の関係において、待つことはすごく大切」という言葉も発せられるのである。小寺さんも「人間関係を継続していく中でさまざまな本に出会うことで、子どもは成長していく」と続ける。いつか出会うのにいいタイミングを早まらないこと。ちょうどいいタイミングの出会いは、小寺さんのような大人によってもたらされるかもしれないし、子どもが自分で見つけることになるかもしれない。「今」ではない「いつか」を待つ、そしていつかその日が来たときにその気持ちを受け取ること。難しいことだけれど、私自身もそんなふうにいられたらすてきだなぁと思う。

おまけの話。こういうことを考えるとき、目の前にいる子たちのことを思い浮かべられるというのはいいなと思う。大きい人として小さい人と関わることは、大きくなってからしかできない。私なんかはようやく大きくなったところで、ようやく大きい人として小さい人と関わっている。大きくなっても、当たり前にどこにでも行ける感覚は持ち続けている(つもり)。私の子ども時代を大幅に楽しくしてくれた物語や大人は、まだ私の中にも、この世界にも、はっきりと存在している。
おまけの話2。誤解をおそれるあまり、説明が長くなってしまう。この対談をだれかと読んで、思いつくことをお互いに喋ってみたら、もっとシンプルで分かりやすい答えにたどりつけたかもしれないなと思う。こんなに長々とした説明もいらなかった。読み合わせるだけでもちがうことを考えるかもしれない。大事なのは、だれかがいること。

2021/09/00 9月0日大冒険

さとうまきこさんの『9月0日大冒険』を久々に読み返したら、人間の残酷さを見た気がした。同著『わたしの秘密の花園』を2年前に読んだとき、思いがけず残酷で驚いた記憶がある。私のさとうまきこさんの本に対する印象は『9月0日大冒険』のわくわくとした展開だったからだ。しかし今日『9月0日大冒険』を読み返して思った。大冒険をする10歳の3人もまた、残酷である。残酷などという言葉を使うと大仰かもしれないが、そう思った。残酷さを持っているがゆえに彼らはお互いのことを見て、自分のことを考える。その姿はけっこうリアルに描かれている。信じられないような冒険、その中のリアルに、読者は3人に近しい気持ちになる。一緒に冒険をしているような臨場感もそこから生まれる。
冒険を終えて彼らが手にしたものは、日焼けした肌と「わすれない」一日である。友情とか仲間とかそんなものはたぶん通り越している。3人は、9月0日の大冒険を「わすれない」と誓った。そして、きっと今も忘れていない。かたい握手をするシーンから、そのことは確信できる。彼らに10歳の子どもがいたら、話してやっているかもしれない。だから、この本を読んだ人たちもまた、8月31日になるとこの本のことを思い出すのである。そして、自分自身にもまた忘れない日々があることを思い出す。

2020/07/20 読書「海」ほか

井上荒野『あたしたち、海へ』: 海って名前いいな~。しんどいね。目を逸らせないだろう問題(ありうること)への嫌悪を強く感じる。しんどい。しんどいけど、こういうのを読んでひたすらにしんどくなるのが、読書というもの。それがいいのか悪いのかはわからないけれど、いまはいいことだと思う。

ロバート・ウェストール『海辺の王国』: 児童文学。この情景、戦争のなかではなくもっとファンタジーな世界観のなかにあってもいいんじゃない?と思って読みすすめていたけれど、最終章で覆された。この最終章、トラウマになりそうなほど苦い。すごいな。こういうラストを書けることは、ものすごい勇気だと思う。読むのにもかなりエネルギーが要る。

コマツシンヤ『午后のあくび2』: 漫画。5月に予約購入していたのが、7月に入って届き、とても嬉しい気持ちで読んだ。あわこさんはたくさん本を読む(途中でよく居眠りをしている)し、よく歩く、いいひと。床に座ってローデスクの下で脚に毛布かけるやつ、わたしもよくやるなと思ってニコニコしちゃった。あと、借手さんの(ほんとうの)猫かぶりがかわいい。わたしもときどきぬいぐるみを頭にのせて本を読む(頭の上にものを乗せると集中力が増すらしい)けれど、それとフォルムが似ているなと思った。わたしは仕事と仕事じゃない時間の境目がないような生活だから、仕事帰りに、とかいうのにちょっと憧れる。「働く」という意識が薄いのかもしれない。それでも、していることに対してお金をいただいているのだから、それはそれで、しかし割り切るようなこともせずにいたい。作品の内容とはあまり関係がない話になってしまった。

畑野智美『海の見える街』: リアルすぎてきつかった。とはいえ、体験したこともないし身近な話にも聞かないような出来事ばかりだ。そもそも海が身近でない。だけどやっぱり現実的だった。この人のことあんまり好きじゃないな、などと感じるあたりがリアルだったのかなぁ。

小手鞠るい『愛を海に還して』: 先が気になって一気に読んだ。読み終えてから「恋愛小説」だったのかと気づいた。

2020/07/03 738歩

今: とても、とても、かなしい夢。目が覚めてぽろぽろ泣いた。涙がぽろぽろしていた。起きだして、ツルヤ(スーパー)のたまごパンを食べる。親指と人差し指でまるをつくったくらいのサイズの、カステラみたいなやつ。トースターでかるく焼いて食べたら、大きいたまごボーロを食べているみたいだった。味と形ととろけ具合が、たまごボーロ。このあと10時に調律師さんが来る。狂ったピアノを弾きおさめておこう。

小川洋子『海』: 七つの短編。なんとなく異国ふうだけれど、日本的だなと思う。遠くなく、むしろ身近。必要以上に考えさせられたり、わからされたり(あるいはわかることを強要されたり)しないのが、心地よかった。わたしの海への憧れがそのまま物語になったよう(表題作「海」以外も)。海へのおもいが募る…!

昨日の花見: ホソバウンラン、ソバナ、ハナショウブ(…738歩)

たの幼: 8月号付録のすみっコぐらしのガチャガチャ、つくった。かわいい~~~。カプセルがゆるいのもあり、試行錯誤して補完。本体をつくるところより、こういうところのほうが楽しかったりする。

2019/11/14 おすすめできない!

紅茶がすっかり冷めている。途中から紅茶のことはすっかり忘れていた。ついに、むかしから大好きな作家さん、岡田淳さんの新刊が手元にやって来た。地元の本屋では「取り寄せもできるけど、時間かかっちゃうから、ネットのほうがはやい」って言われるに決まっている(いつもそう)から、もう発売前から予約購入していた。で、今日の仕事が始まる5分前に届いたってわけ。
「今夜、読む!」と思って、大事にしまっておく。とうとうその今夜がやってきてしまった。読み始めるのも読み終えるのももったいなくて、22時過ぎから時間をかけてゆっくり読んだ。

ハァーー、よかった!おもしろかった!この作家さんには「ハァー」っていつも思わされるのだけど、これが伝わったことはあんまりない。言葉でいろいろ言うより「ハァー」って感じなのだ。それでも、言葉にして誰かと喋ってみたい。だからやっぱり、言葉にしていこうと思う。だけど、言葉にするのは明日以降、いちど寝て起きて、またあらためて読みながら書くことにする。とにかく今は、高揚した気分を残しておく(そんなわけだから文章がめちゃくちゃなのは許してほしい)。
明日からもまたこの世界で生きていかれそうな心地がする。いまいろんなところに散らばっている同窓生たちを思う。みんなもう、読んだかなぁ?いろんなこと、話しに行かなくちゃ。

岡田淳さんさんの本は、どれをすすめていいか分からない。どれも私は好きで、批判したり否定的な気持ちで読んだりすることがないのははもちろん、批評しようなどとも一切思わない。楽しくて読んでいることだけはぜったいに言える。それがさっき書いた「ハァー」ってやつなんだけど、私は私なりのこういう読み方を気に入っている。この気持ちを分かってもらえる作品があるとしたらこれだろう…とかは思うのだけど、別に分かってもらえなくてもいい。だから、この作家さんが好きだと表明することがあっても、おすすめするのは難しいなと思う。自分で出会ってみてほしいな。
子どもの頃に出会って読み続けてきた私と、大人になってから出会った誰かと、私が既刊を読んだものを新刊で読んだ誰かと、みんなそれぞれの読み方をしているはずだと思う。私なりの読み方といったのは、こういうことを思い浮かべて、だ。どれがいいとかではなく、違う読み方をしていても同じように読者であり続ける人たちがいる(ちなみにさっき、そういう人たちを「同窓生」と呼んだ)。それがとてもうれしく、心づよい。

まだまだあと数時間は喋り続けられそうな心地だけど、これ以上喋ると、新刊の内容についてまでべらべら喋りそう。いったん終わりにします。

2019/07/29 わたしの秘密の花園

さとうまきこさんの『わたしの秘密の花園』を読んだ。思いがけず残酷な描写が多く、驚いてしまった。さとうまきこさんと言えば、私にとっては『9月0日大冒険』である。幾つかの他の著書も読んだ。『わたしの秘密の花園』のアキコは、ほかの登場人物とは少し違った。そういう意味での「思いがけず」だ。 アキコはなんとなく冷たくて、意外に単純。これは子どもらしさなのだろうかと思い、読み進めていくが、しっくりこない。かわいげのある子どもという感じでもない。人間らしさだろうかとも思ったが、それも違う。分からない。分からなくていいのだと思う。結局、これはアキコという人物の話でしかないのだと思うのが一番腑に落ちた。この物語において、分かろうとするほうが不自然なのかもしれない。いや、この物語において、だけではきっとないね。
これを読む前に、バーネットの『秘密の花園』を読んだ。名まえがなくともそこに「何か」があることを信じ、考え続けようとする子どもたちを、私はとても逞しく感じた。名まえがないことを分かっていながら「魔法」と呼んだことも嬉しかった。アキコはそれを「自然」という一言で片づけてしまう。私とはまるで考え方が違うけれど、アキコは賢いなぁと思う。ここを読んだときにようやく、これはアキコの物語だと強く思うことができた。物語というよりも日記みたいな一冊だったけれど。
それにしても残酷さやアキコのキャラクターは、少しぎょっとするようなものだった。さとうまきこさんの本の読者の皆さんはどんな気持ちでこの作品を読むのか、聞いてみたい気持ちになった。

2019/05/05 思い出にならないように重ねていく

西加奈子さんの『きいろいゾウ』を読んだ。昨日読み始めて、一気に読んでしまった。最近はゆっくり読むことが多いから、私にしては一気読み。
とてもよかった。基本的に恋愛小説は苦手なのだが、これは愛とか恋とか言いながら、それよりももっと「生活」を描いているのがいい。そもそも恋愛小説というくくりではないのだろう。
「生活」とは何かと言えば、思い出にならないように重ねていくことだと思う。それは忘れていくということではなく、過去を振り返らないということでもなく、美しすぎない世界であってほしいということだ。死んだ人間を「いい人だった」と言うのをよく聞くが、死んで思い出になった人間は美化されていく。そいういうのが私にはとてもとても辛い。この本は、これからにつながっていくはずの過去が肥大化せず、きちんと収まるように収まっていてくれて、とても心地が良かった。
登場人物のムコさんは日記をつけていた。日記はやはり、ラブレターなのだなぁと思う。多分読み返すことはないし、書きたくて書いた日の日記はよく覚えているものだ。誰かに言えなかったことを吐き出す方法として、しかも言いたかったこととは別のことを残していくんだと思う。言葉にしなければ伝わらない、と言うのは絶対的に嘘だと思っていて、私は告白なんてしたくないしされたくないと、いつも思ってしまう。そして気が向いた時に感情の日記を書く。日記がラブレターでなくなったら、私はもう書くのをやめたい。
田舎は都会よりもずっと賑やかだという描写があって、そうかもしれないと思う。田舎の親しみのある音(カエルの声だとか、近所の家の灯りだとか)はたしかに安心を与えてくれる。だけど、よく親しんだ場所の居心地の良さを、もっと忘れていきたいなと思う。それがうまくできないから旅に出たり本を読んだり音楽を聴いたりするのだろう。

最近、小学生のころどうやって読む本を選んでいたのかを思い出せないでいた。気に入った作家さんの作品は片っ端から読んだりした。新しく手に取る本たちはどうだっただろう。そのころ本棚の本は、今と違うように見えていたと思う。もっと本たちに信頼されていて、本たちと親しかった。しかしその時はその時で、今は今。年齢とかはあまり関係がないのだろう。それに、こうして読んでよかったと思える本を読んでいるのだから、そんなに変わってもいないのかもしれない。

2019/03/12 川の話と、坂の話

数週間前、図書館で「サーカス」とタイトルに入る本ばかり選んで借りてきた。結局、返却期限までに全て読めず、借りなおした。いつもそうなる。

それらの本のひとつにヒュー・ロフティング『ドリトル先生のサーカス』があった。十数年ぶりの再読になるのだと思う。ドリトル先生物語は小学生の頃かなり読んだ記憶はあるが、内容はほとんど覚えていない。ただ楽しかったことだけを覚えている。いま読み返すと、私の思考の礎のようなものになっていることが分かり、数年ぶりに再会した友達とまるでつい昨日も会っていた感覚がするときのような嬉しさがあった。
ドリトル先生が言う。「あそこに、たぶん、川があるだろう。」なんでもないふとした場面なのだけど、ここが一番好きな場面だ。川を見つけられる人は、たいてい正しい。正しいなんて言葉はあまり言いたくないが、この場面では実際に小川も確かにあった。
以前タモリさんはブラタモリで「川はよく動く」と当然のことのように言った。川はよく動く。私はこれが気に入って、最近よく使う。時空を超えて川を見つける。川にはどうしてこんなにロマンがあるのだろうか。

さて、話はまたドリトル先生に戻る。本の中でかしこい馬は「坂は変化がある」と言った。これは私がずっと考えている坂についての仮説の、ひとつの道しるべとなった。
以前、上り坂と下り坂はどちらが多いか、と問われたことがある。その人の正解は、「登れば上り坂、進行方向を変えれば下り坂なのだから、数は同じ。坂は上り坂でも下り坂でもある。」というものだった。私はどうしても納得できず、「上り坂でも下り坂でもない坂はきっとある。」ということにし、それについてずっと考えている。物理的な話をしたいのでも、詩的な話をしたいのでもなかった。ただ坂について話をしたい。できればあなたと。
本の中のこの場面には坂だけでなく平地も存在している。だから、平地に比べて坂には変化があるという意味でもあるだろう。それにしたって、坂には変化があるという言葉はいい。馬が言ったのもいい。

最近こういう話ばかりするようになって、すっかり独走状態だ。こういう話は、カッコつけているときにしかできない。(カッコつけることの話は、また別の時に。)しかしゆくゆくは、道端でこういう話ができるようになりたい。実際に、ドリトル先生もタモリさんもかしこい馬も、道端で言ったのだから。

2018/11/22 オリーブの森で語りあう

『オリーブの森で語りあう ファンタジー・文化・政治』。M.エンデ、E.エプラー、H.テヒルによる鼎談を読んだ。会話はエンデを中心に進んだ。(中心に、というのはつまり一番多く喋っていたというだけで、会話はかなり平等であった。)かなり流動的だが、それぞれの意見に一貫性があり、他の人の話を聞くという姿勢もあった。その場に居合わせたらさぞかし楽しかったろうな。

いつかも書いたし常々思っていることに、政治に対してあんなに熱くなれる人たちはすごいというのがある。本当に嫌味ではなく心の底から尊敬する。だけどそれは、ほんの短いロウソクの火なのだろうなと思う。いまの世の中は政治にすべてを託しすぎている。私が政治に興味がないかと言えばそういうわけでは全くないのだが、政策がどうとか安倍政権がどうとかっていうのは、物理的な話でしかないと思う。もっと夢見たっていいじゃないか。私の思い描くユートピアには私自身はきっといないし、ぜひそうであってほしいと願う。
ポジティヴなユートピアの実現は、無理じゃないと思う。可能だと信じていたい。対立がなくてはそれはできないと思うのだけど。しかし与党と野党にしても、喧嘩中のカップルにしても、同じ方向を向いて叫んでいるだけじゃないかと思う。そんなものを誇らしげに見せつけられても困ってしまう。無気力しか生まれない。いがみ合うときは、いつもポジティヴなユートピアを胸に(これは忘れちゃいけない)、向かい合ってしなければいけない。そして私たちは仲間よねみたいな思い込みはやめたい。私が慕う多数の彼や彼女はこれからも「ひとり」であってほしい(独身でいろという意味ではない)し、社会は「ひとり」たちの集団であってほしい。ひとりは素敵だ。

ある物語を思い出した。というよりこの物語はいつもずっと心の本棚の一番取り出しやすいところにある。児童文学作家であり私が最も好きな作家である岡田淳さんの「〈夢みる力〉」というお話だ。ストーリーについてはここでは書かないが、あのお話での夢とは果たして何だったのだろうか。私が今言った「夢」というのは眠る時に見る夢と、想像力とかいう意味での夢の両方ともである。たぶん夢は、体験なのだろうなと思い至った。
夢はかなり現実に近いということを最近考えたのだけど、それは夢が体験だからじゃないだろうかと思う。しかし同時に夢はファンタジーでもあるはずで、なおかつそこには何の矛盾もない。まさに夢のようだ…!

結局、ファンタジー(想像)と現実とは、そんなに離れたところにはないんだろう。それぞれが独立(自立の方が表現として相応しいかもしれない)していても分離はしていない。
私はよく「いつか」とか「どこか」とか曖昧なことを言う。だけどこれらの言葉を言った瞬間にいつかどこかに私のファンタージエン(エンデ『はてしない物語』より)が生まれているはずなのだと思う。それを「いつかっていつ?」とか「どこかってどこ?」とか聞く人は、一般的な概念で言う大人というやつなんだろうな。物理的に科学的に数字にして納得したいんだろう。(しかし「大人になって想像力を失った」みたいなクリシェは打破していかねばならない。)とにかく、いつかはいつかでしかないし、どこかはどこかでしかない。

時間とか場所とかの話をすると、私には帰る場所がないといういつも考えているこのことにたどり着く。(結局はすべて繋がっている。)帰るという概念は不自由しか生まない。
それでも私に帰る場所があるとしたらそれは過去だろうと思う。しかもそれは、未来の先にある過去。つまり、「新しい」という感覚を伴う。(過去って具体的にいつ?とか聞かないでくださいね。)鼎談の中で「限界を超える」ということがたくさん話されていた。それに近いかもしれない。「意識の変化」という言葉も何度も出てきたが、この「変わる」という部分にも通じるかもしれない。過去に帰るということは、簡単に言ってしまうと、近代音楽の作曲家であるフォーレが教会旋法を用いたのに似ている。

ところでエンデの『はてしない物語』、私達が手にしている本はバスチアンと同じ、あかがね色の表紙に二色刷りの文字、というだけでもうどきどきしてしまいますね。

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