雨やどり


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2022/06/12 岡田淳原画展@福井 …もぐらのほんだなさん企画・岡田淳原画展
2021/06/19 岡田淳さんトークイベント …「こそあどの森の物語」シリーズ番外編について
2019/11/14 おすすめできない! …岡田淳『図書館からの冒険』初読
2019/08/26 『二分間の冒険』観劇 …KAAT キッズ・プログラム2019『二分間の冒険』

2022/06/12 岡田淳原画展@福井

少し前に星の形をした願いのピノに当たってから、天気運がすこぶるいい。この日もまさに梅雨の晴れ間で、久しぶりにすっきりと青い空を見た。12:20まで仕事で、12:30に家を出て、もぐらのほんだなさん企画の岡田淳原画展へ向かう。福井県鯖江市というところ。福井県はなんと初めてだった。海あるじゃんとうれしい気持ちで向かう。途中ちらっと見えた水が海だと気づくのに時間がかかったせいで、杉津PAに入り損ねた。敦賀湾か。あと2秒早く気づいていたら……! 行きは渋滞もなく、ナビは4時間半予想だったが、4時間で着いた。
16:30頃着いたとき、『星モグラ サンジの伝説』を手にした子どもがちょうど建物から出てきて、うれしかった。ドキドキしながら階段を上る。とてもよかった! この物語が、あの世界が、たしかにあるのだとわかった。そして、その物語や世界を好きでいる人たちが、たしかにいるのだとわかった。岡田淳さんの作品(絵もお話も)がこんなにすてきなのは、物語や世界を好きでいる人たちの中に、ご本人も含まれているからだと思う。岡田淳さんも、岡田淳さんの描く物語や世界をとても好きでいらっしゃるのだと思う。どの絵もすてきで、にやにやしながら、いや、にこにこしながら見入ってしまった。こういうときは、マスクの時代でよかったと思う。5~6周してまだまだ見ていたいくらいだったが、終わりの時間も迫ってきた。
今回、福井までやってきたのは、もちろん大好きな岡田淳さんの原画を拝見するためでもあったけれど、この展示を企画されたもぐらさん(呼び方あっているでしょうか……?)にも、ぜひお会いしてみたいなと思ったからだった。少し前にツイッター(しばらく冬眠していた彩のアカウント)で存在を知り、興味とすてきな予感を持ったので、お会いできてよかった。わたしは、愛読者として読み続けることしかできない。原画展というものを企画して開催することは、とてつもない勇気がいると思う。その勇気もすごい! と思ったし、こうしてこんなにすてきにやり遂げていて格好よかった。予感どおりとてもすてきな方で、機会があればぜひまたいろいろお話をしてみたいです。
来てよかったと心の底から思った。興奮冷めやらぬまま、海のある方へ向かう。と思ったら、山! と思ったら、海! という感じで海に出た。途中で車を止めて、20~30分、付近を散歩。そのまま窓を開けて海沿いの道を敦賀のあたりまで走った。潮の匂い。私の青い車が海の匂いになった。ようやく高速に乗る。途中、名神で渋滞に遭いつつ、ゆっくり7時間くらいかかって午前1時半ころ家に着いた。まだうれしい気分が続いていて、まったく疲れを感じず、がんばって寝た。

2021/06/19 岡田淳さんトークイベント

『岡田淳「こそあどの森の物語」トークイベント──すぐそばにあるかもしれない不思議な世界──』を拝聴しました。岡田淳さんが、こそあどの森やそこに住む人たち、そこを訪れる人たちのことが大好きだと伝わってきて、ほんとうに嬉しい時間でした。
まず、「こそあどの森の物語」シリーズについてのお話。スケッチブックを開きながら「ウニマル」と仰った言葉を聞いて、そういう発音なのか!と思った。小学生のころ友達と話す時は私自身も友達もミレドドと発音していたけれど、岡田淳さんはドミミミと仰っていた。本だとこういうことがありますね。おもしろい。みなさんはどう発音しますか。「こそあどの森」のイメージについて、妖精のような小さな人たちをイメージだったのが、だんだん等身大になっていったというお話をされた時、「ぼくがこの物語に入り込んでしまっているなと思った。どこかでやめなきゃなと思った」というようなことを仰っていたのが印象的だった。「この森でおこったことは、あの森でも…」という肯定の言葉でシリーズが終わり、でもどこかで物語は続いているんだろうなと思えるのは、読者ひとりひとりがこそあどの森をそれぞれに心に持っているからだと思う。それは、岡田淳さんの描く物語の力だ。「どこかでやめなきゃ」と思える岡田淳さんだからこそ、岡田淳さんの描く物語はそういう力を持つのかもしれない。
次に、新刊の短編集のお話。ひゃぁ~~~~~~。大人たちのアルバムがとっっってもすてきでしたね。トワイエさんはシリーズの中でも物語に傾斜していく姿が描かれている。そんなトワイエさんの少年時代がかわいらしい。二文字しりとり、おもしろい。あとで、カタツムリの吹き出しについて質問をされた時の岡田淳さんがとても楽しそうで、いたずらっ子のような目で「バレましたか?」と仰ったのがとてもよかった。トマトさんの子ども時代は、だれにでも、なんにでもついていってしまう子。好奇心旺盛で歩き回るトマトさんは、『森のなかの海賊船』で主張するシーンや魔女の面と繋がっている気がする。トウガラシとニンニクの絵を描いた時、おもしろいなぁと思ったと仰っていた。自分でおもしろいなぁとかすてきとかいいなぁとか思えるものを描いているところが、岡田淳さんのすてきさのひとつだと思う。ギーコさんのことは、みんな、だんだん好きになっていったと思う。岡田淳さん自身もそう仰っていたし、私もそう。『ミュージカルスパイス』で歌ったときとか、とても好き。木を椅子にするシーンが、『森のなかの海賊船』とつながっていること、とても納得しながら聞いた。ポットさんの「船はあるんだ」の言葉も『森のなかの海賊船』のギーコさんの言葉のオマージュとのこと。『森のなかの海賊船』の話がたくさん出てくるので、好きなんだろうなぁと思っていると、あとで、はじめはウニマルこそが森のなかの海賊船というイメージだったという話をされていた。人が生きているということは、海賊のようなものなんじゃないか。だんだんそういうイメージはなくなっていったらしいけれど。スミレさんもまた、シリーズを通してどんどん親しい人になっていった。岡田淳さんも、好きだなぁと思うような面を出してくれる、と仰っていた。「ブラックコーヒーをちょうだい」のオマージュのエピソード、おもしろかった。「いちばん年長だけれど、いちばん子どもに近い」と仰っていたのは、物語を読んでいてもその通りだなと思う。今回の短編でも、話のあとに「いたずらっぽい目」をするのも、シリーズ全12巻を経たスミレさんらしくてとても好き。
そして、「いまがこれまでとつながって、いまがこれからともつながっていく」ことについてのお話。ご自身が子どものころの話をするとき「いまというぼくの節穴から過去をみて語るだろう。」だから、「いまとは無関係に思われる何かがいっぱいあって、それが関係のあった何かを支えて、いまの自分につながってきているのが、本当なんじゃないか」と仰っていた。シリーズで同じ人を描くことについてのお話でも、「そのつどその人物の何かを発見するという体験だった」と仰っていて、きっとその度に、いまのその人と同時にその人のこれまでのことも生まれていたのだろうなと思う。岡田淳さんが物語を書くたびに登場人物たちに新しい発見をしたように、読者もまた新しい発見をしながら読んできた。おなじ発見かもしれないし、もしかしたら少し違う発見かもしれない。それが今回、この短編集やアルバムという形になったことは、読者にとっても嬉しい。
ここからは質問に答えてくださるコーナーでした。登場人物が意思をもって動き出すことはあるかというような質問で、「話をする」ことにどういうスタンスで向かうかということは考えた、という答えがとてもいいなと思った。スミレさんはふたごの(思いつきの)言葉に心を打たれ、話をすることにする。「話を聞くことが、その人をわかり、その人を好きになれることだと気づいたのですね」という読者の方からのお手紙に、なるほど!と思ったとのこと。岡田淳さんらしい。この短編集では「話を聞くこと」が大きな柱だったという。どういう意味を持つのか。ふたごとスキッパーはおとなたちの話を聞いて、知らなかった面を知って、たぶんもっと好きになった(明確に「好き」という形でなくても親しみを感じたりした)のだろう。私がいいなと思ったのは、ふたごとスキッパーは、おとなたちのことを知るのと同時に、自分たちにもいまからつながるこれからがあるということを知って、自分たちのこれからを肯定的に思えただろうことだ。「話を聞く」ということは、相手のことだけでなく自分のことを知ることでもあるのだろうなぁ。そして、知ることで、もっと好きになれたり肯定的に思えたりするのは、すてきなことだと思う。
さて、永遠の謎、バーバさんについて。子どもにとって一番すてきな状況とは?と考えたものがスキッパーだという。それでもやはり食べ物、寝るところなど、世話をしてくれる人は必要。でも、指図や手出しをしない。バーバさんという人の存在はまさにご本人が仰ったように「大きな保護」で、いなくては困るし、いることですごく支えてくれているけれど、スキッパーを自由にもしてくれている。このバランスがすごい。自由だけでもダメだったし、世話ばかりでもダメだった。この難しいバランスを、「どうしたらすてきだろうか」と考えて導き出した岡田淳さんは、やはりすてきな人だ。そして、そのバーバさんを描きすぎなかったのは、「あの人は自分にとってのバーバさんだ、と思える存在」をだれもが持てるように、というようなことを仰っていた。描かれていないバーバさんの顔を読者ひとりひとりが想像しているのだろうし、そのどれもがバーバさんなのだと思うだけで、とても心強く嬉しい気持ちになる。「本当らしさ」ということも岡田淳さんはたびたび仰っていて、ふたごはどうやって食べ物を得ているのか?なども考えたらしい。そういう現実的な疑問は尽きない。ふたごを世話してくれる存在。ヨットを教えた人。お父さんやお母さん(ミス・クラゲ。水クラゲ。のところで大いに笑いました)。「描かないでおこうと思った」と岡田淳さんは仰っていたけれど、描かれていないそういう人たちも、いるのだろうな、と読者はちゃんと思わされている。そして、そういう想像はとても楽しい。ポットさんのいとこが住んでいたケトルの家についても「いまもあるんでしょうね」と仰っていて、その後のことはどこにも書かれていないけれど、確かにある、と岡田淳さん自身も私たち読者も思えていることが嬉しい。
関連して、こそあどの森に学校はあるのかという質問の話。「ぼくが子どもだったらどういう世界が楽しいだろうか、と考えた時、学校は頭になかった」という答えだった。というのも、教員時代、家族と学校を否定した(はっきりそう言ったわけではないけれど)子がいたという。たしかに「親子」という関係や「学校」という場所は、私達が思っている以上に決めつけられているなと思う。関係のことで言うと、「おじいちゃんと孫」とか「近所に住む大人と子ども」とかいうことならもっといろんな形の関係を見るけれど、「親子」という形は、ほんとうに、意外に決められてしまっている。こそあどの森では、決まりきった関係が存在せずに、おとなたちが必要な役割を果たしている。こそあどの森はそういう意味でファンタジーだし、こそあどの森を通して現実の世界を見るときに、型通りでない関わり方もあるのだと思えたら、現実の世界もよりいいものになっていくのかもしれない。だけど大抵、子どもにとって、関係がうまくいっていてもいかなくても親が親であるという思いに変わりはない。親に指図を受けてもそういうものだと思う。世の中でも一般的にはそれが当たり前ということになっている。だからこそ、「大人」の岡田淳さんが「子ども」の目で見た世界に、私達は憧れを抱くのだと思う。子どもの頃ももちろん憧れたけれど、大きくなった今でもずっと憧れている。「学校」という場所がないことについても同じで、学ぶことは学校でなくてもできる。それはスキッパーが証明してくれている。森に来る人と出会って、たくさんの本を読んで、いろいろな経験をする。そういう「学び」は、こそあどの森では日々の生活にある。学ぶ場所と決めつけられた「学校」がないことで、自由に学んでいくふたごやスキッパーの姿は、とても自然だと思う。もちろん、現実の世界に学校はいらないということではなく、ひとつの理想としてふたごやスキッパーのような子どもがいることが、こそあどの森というすてきなファンタジーになって表れたのだろう。岡田淳さんの描くファンタジー(こそあどの森の物語に限らず)がいつもとても「本当らしい」のは、そういうわけなのではないだろうか。
あとは、登場人物の名前の由来や、物語に出てくる歌のメロディーについて(「みなさんが自分で考えて歌ってくれればいい」と仰っていたけれど、岡田淳さんならどんなメロディーをつけているだろうかと想像するのも楽しいかもしれない)、食べものについて、すらすら書けたお話について、ミュージカル化について、などの質問があった。ここにはこれ以上詳しくは書かないけれど忘れずに覚えているだろうな。どのお話もおもしろくてすてきだった。岡田淳さんは、こそあどの森の物語に登場する人たちのことをとてもよく知っていて(作者だから当然といえば当然)、彼らの話をこんなに生き生きとされているのがとてもすてきだ。物語の中で「話を聞く」ことはその人のことをわかり好きになるという意味を持っていたけれど、いままさに私たちも、お話を聞いて岡田淳さんや岡田淳さんの作品をより一層好きになっている。

2019/11/14 おすすめできない!

紅茶がすっかり冷めている。途中から紅茶のことはすっかり忘れていた。ついに、むかしから大好きな作家さん、岡田淳さんの新刊が手元にやって来た。地元の本屋では「取り寄せもできるけど、時間かかっちゃうから、ネットのほうがはやい」って言われるに決まっている(いつもそう)から、もう発売前から予約購入していた。で、今日の仕事が始まる5分前に届いたってわけ。
「今夜、読む!」と思って、大事にしまっておく。とうとうその今夜がやってきてしまった。読み始めるのも読み終えるのももったいなくて、22時過ぎから時間をかけてゆっくり読んだ。

ハァーー、よかった!おもしろかった!この作家さんには「ハァー」っていつも思わされるのだけど、これが伝わったことはあんまりない。言葉でいろいろ言うより「ハァー」って感じなのだ。それでも、言葉にして誰かと喋ってみたい。だからやっぱり、言葉にしていこうと思う。だけど、言葉にするのは明日以降、いちど寝て起きて、またあらためて読みながら書くことにする。とにかく今は、高揚した気分を残しておく(そんなわけだから文章がめちゃくちゃなのは許してほしい)。
明日からもまたこの世界で生きていかれそうな心地がする。いまいろんなところに散らばっている同窓生たちを思う。みんなもう、読んだかなぁ?いろんなこと、話しに行かなくちゃ。

岡田淳さんさんの本は、どれをすすめていいか分からない。どれも私は好きで、批判したり否定的な気持ちで読んだりすることがないのははもちろん、批評しようなどとも一切思わない。楽しくて読んでいることだけはぜったいに言える。それがさっき書いた「ハァー」ってやつなんだけど、私は私なりのこういう読み方を気に入っている。この気持ちを分かってもらえる作品があるとしたらこれだろう…とかは思うのだけど、別に分かってもらえなくてもいい。だから、この作家さんが好きだと表明することがあっても、おすすめするのは難しいなと思う。自分で出会ってみてほしいな。
子どもの頃に出会って読み続けてきた私と、大人になってから出会った誰かと、私が既刊を読んだものを新刊で読んだ誰かと、みんなそれぞれの読み方をしているはずだと思う。私なりの読み方といったのは、こういうことを思い浮かべて、だ。どれがいいとかではなく、違う読み方をしていても同じように読者であり続ける人たちがいる(ちなみにさっき、そういう人たちを「同窓生」と呼んだ)。それがとてもうれしく、心づよい。

まだまだあと数時間は喋り続けられそうな心地だけど、これ以上喋ると、新刊の内容についてまでべらべら喋りそう。いったん終わりにします。

2019/08/26 『二分間の冒険』観劇

岡田淳さん原作の『二分間の冒険』を観劇した。原作と演劇とは、もう、違う物語だった。ということを前提に、演劇を否定するわけではなく、原作の素晴らしさをしみじみと感じる。

岡田淳さんの作品といえば、仲間がだんだん増えていくものが多い。仲間が増えることは、ただ賑やかになることとは違う。同じように振る舞うようになることでもない。それは、何かを知って、それについてそれぞれが違うことを思ったり考えたりするようになることだと思う。そのあたりの描き方が、岡田淳さんの作品はどれもとてもいいなと思う。この作品も然り。
演劇では、たしかに躍動的で面白みがあったけれど、ずっと何かに怒っているような悟や、それを爆発させた時にようやくみんなに情報が共有される感じが、惜しい。「みんな」はあくまで「みんな」だった。これについては後でまた書く。

演劇では、ちい、という名の、竜に老人にされても記憶が残った女の子が、悟を導いていく。というか、悟にいろんなことを教えてしまう。原作ではそんな子はおらず、悟が悟自身を見つけていく。悟は、お調子者なだけでなくて、もっともっとかしこくて勇気がある子のはずだ。かしこいというのは、自分の頭でおちついて考えること。勇気があるというのは、試しに自分の足で歩いてみたりするということ。だと思うけど、どうでしょう。

竜の館に着いてからの物語の雰囲気が、原作とは全く違った。ロボちゃんとかいう、うるさくて変なノリのお世話ロボットが登場。カラフルな色の服を着たハイテンションの館長は、はじめから明らかに竜サイドの人間だとわかる。
原作で、館に着いて2日目、悟が太郎に言うセリフが、前の日に悟自身が宏一に言われたことと同じだったのがすごく印象的で、悟が何も特別な男の子ではないことをちゃんと描いてくれている場面だと思う。けれど、それ(その場面ということだけではなく、その雰囲気)がなかった。悟は、違う世界から来た者らしく、いつも特別に「みんな」とは違う。「みんな」が当然のように思っていることに対する憤りや不満を、悟だけが感じている。そんな役。
そう、全体的に「気づく」が足りないのだと思う。思い込んでいたことが実はそうではなくて、驚いたり疑問が生まれたりする瞬間がなかった。機会もなかった。その瞬間があるからこそ、「みんな」が「ひとりたち」になる場面が生まれる(原作では、順々に自分の名前を名乗るところ、かな)。「みんな」と括ることで、あまりにスムーズにシンプルに進んでいった。これが演劇というライブのテンポ感なのかしら。

かおりは、悟にもとの世界に戻って欲しくはないのだけど、それでもあなたは戻るべきだと言う。そのどちらの気持ちも伝えられるかおりは強い。特に、戻って欲しくない、のほう。(ここまで、原作の感想。)演劇のかおりは、ちょっと可愛らしすぎたかもね。

原作で、館長は悪役のまま終わる。そして、竜は死ぬ。演劇では、最後には実はいいヤツで、竜も死ななかった。原作で館長が竜を殺すシーンはけっこう残酷で、しかしベストなラストだと私は思う。ベストなラスト。
物語は、すべてがただ優しく終わらないところに、新しい道がある。だからまた戻って来たいと思うのだし、戻って来るためにはまず離れていく必要がある。離れていくことは、本当はもっと単純なはずなんだけど、これは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう。

戻って行ってもいい場所があることは心強い。しかし、物語の中ではこうである。あまりにたしかなものになった世界から帰った悟が「あの世界は、どうなったんだ。」と尋ねたとき、ダレカはこう答える。「もう、ないよ。」物語のクライマックスはほかのどの場面でもなく、私にとってはここだ。演劇でそれがなかったのは少し寂しかったなぁ。
私はいつでもこの物語に戻ってくることができるけど、物語の中で悟は、もうないけれどたしかにあった世界を持っている。別れが惜しくて泣くのは大人(年齢とは関係なく)だけなんだということも思い出すシーンだ。悟がぼんやりつったっている姿が、あまりに自然に目に浮かぶ。

私の原作に対する解釈はわたし自身のそれでしかない。他の人が作ったものを観るということは、他の人はそういう解釈をしていると気づくことだ。正しいも間違っているも無いけれど、今回は私の考えとはかなり違うふうに作られていたので、違和感もあったが、そのぶん新鮮でもあったし、何よりもわたし自身がまた考えてみるきっかけになって良かった。
この演劇はたぶん「みんな違って、みんながそれぞれたしかなものなんだ」ということをテーマにしていた。ように私は感じた。原作に対する私の解釈は、「自分が自分自身であること」がいくつもあって、それが誰かときちんと繋がっていく。世の中には「ひとり」がたくさんいるだけなんだということを、改めてきちんと思い出した。

帰り際、「おもしろかった」「すごかった」と言っている人がたくさんいた。うん、たしかにおもしろく、すごかった。アニメーションや、打楽器が生かされた音楽の感じ。ライブでしか味わえない迫力やテンポ感。すごかった。前の席の大人は泣いていたし、子どもはロボちゃんに笑っていた。これをきっかけに、原作を読んでみてほしい。何を思うのかなぁ。

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