雨やどり


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わたしにとって特に大事なことを書いた日記を集めた。目印(本の栞)、手引き(旅のしおり)、どちらの意味もある

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2024/01/26 失恋
2022/10/08 考
2022/01/11 雨を眺める
2021/05/30 つらいときはひとり
2020/11/01 人のことを想う
2020/01/27 見えない天井
2019/09/02 散歩道の選びかた
2019/04/19 覚えといてやる

2024/01/26 失恋

わたしたちはふたりともよくなりたかった。同じことが好きで、同じほうを見ていたと思う。だけど、そこにたどり着くために、その人は足りないものを探していた。わたしは持っているものを磨こうとした。それで、同じ場所にはいられなくなっちゃったんだと思う。ふたたび似たようなことがあるとしても、まだしばらくはわたしはわたしの歩き方をしていくつもり。いつのときも、わたしといた時間が遠くを歩いている人の味方になっていたらいいな、なんてのはうぬぼれが過ぎるかしら。そのくらいその人といた時間をわたしは愛していた。でも、あの日に思ったように、これでようやく自由に会えるってことなんだと思う。そうであってほしいと願っている。

2022/10/08 考

もうやりつくしたと思ってから、突きつめていくのって本当に難しい。そもそも、やりつくしたと思えるところまでたどり着くことすら難しい。うちのこたちはすごい。わたしも一緒にあきらめずに考えつづけようと思う。
初めて会うひとにも、出会って何年もたつひとにも、その気持ちは変わらないけれど、言葉は基本的にだんだん少なくなっていく。飾りが少なくなっていく。だけど、ものすごくしっかり喋り合う時もある。

2022/01/11 雨を眺める

今日もどこかで雨が降っている。人々は雨が降ることに対しては何もできない。けれど、降った雨に打たれたり降った雨をよけたりすることはできる。降る雨を憎んだり悲しんだり喜んだりすることもできる。わたしは、雨をただ眺めることを選んだのよ。そして、雨が降っていることとはまったく関係なく歩き続けることにしたの。ある時は傘をさして、ある時は何も持たずに。
たくさんの人が歩みを止めている雨の道を、わたしと、わたしの信じている人が歩き続けていて、いつのまにかみんな(全員とは望まない)が歩いている。そういう世界を想像する。雨のなかを歩き続ける人とはまた会えるはずだと思う。雨の記憶を傷つけようとする人はたくさんいるけれど、それが変わらないと分かっているわたしたちならば、記憶のなかでもまた会えるかもしれないね。

2021/05/30 つらいときはひとり

ひとつ前の日記に部活のことを書いたでしょう?そうしたらあのあといろいろ思い出してしまって、つらかったことや混乱したことも思い出した。でもこれは、わたしがちゃんと思い出して覚えていなくちゃいけないことだと思う。たまに頭がおかしくなって消してしまう記憶がある。それらの記憶は、きっとその時には忘れたほうがいいことなのだろうけれど、それでもいつか必ず思い出すという呪いがかかっている。

高校を卒業したあと、おなじ部活だった友達が亡くなったとき、再び部活のみんなが集まったのだった。みんないたけれど、死んだ友達だけが死んでいた。よく晴れた、夏のような6月。ぎこちなく葬儀場をあとにし、駅近くのごはん屋さんに入った。そこでわたしたちはようやく本音で話し合ったのだった。本当、いつもタイミングの悪い人ですよ。この悪口を、彼が生きている間も死んでからも同じように言い続けている。
訃報を受けたのは、5月も終わる雨の水曜日だった。病気だった。それからしばらく、何回寝て起きても事務的なラインが続いた。香典がどうのとか。どうしてもついていけなくて、ただ黙って流されていた。みんなはちゃんとおとなになってこういうことができるのに、わたしだけがずっとこどものままだ、とも思った。家族は、病気ならしょうがないね、と言った。ある日、全く関係ない会話でお父さんがわたしに「それはおかしいよ」と言った言葉に過剰に反応し「そうだよ!おかしいじゃん!」となぜか泣き叫んだのを覚えている。それまでだれも「おかしい」と言わなかったのだ。思っていたのかもしれないけれど、だれも言わなかった。わたしも言わなかったし、わたしはたぶん思いもしていなかった。そのときその場に居合わせた弟の驚いた顔を思い出す。しばらく家族にとても気を遣われているのが分かり居心地が悪かった…。
夢だと思って過ごした。日々仕事をし、夢から覚めるのをずっと待っていた。お葬式の日、みんなが集まったとき、これは夢ではない、と強く思った。それまでも夢ではなかった。みんなも無情ではなかった。つらいときはひとりぼっちなのだ。楽しい、悲しい、嬉しい、怒る、寂しい、…さまざまな感情はだれかと共有できるけれど、つらい時だけはぜったいにひとりぼっちだ、とわかった。みんなもつらい気持ちをそれぞれひとりぼっちで抱えてこの日までやって来たのだ。この日までどうにか歩いてきたわたしたちは、だから、ようやく本音で話し合えた。悲しみを、寂しさを、楽しかったことを、共有した。しかも、つらいときは「つらい」と思えないのである。わたしもあのときつらかったのだろうし、みんなもつらかったのだろう。そのつらさは本人にしかわからない。誰も覚えておいてはくれない。自分のつらさは自分で覚えておかなくちゃいけないのだ。

ふと、そういえば5月ももう終わるな、と思う。あぁそうか、今日という日に、思い出すべくして思い出したのだなと気づく。

関連日記:2019/04/19 覚えといてやる

2020/11/01 人のことを想う

未来のあなたたちと仲良くしたいと思っているのよ。それは今仲良くしないということでもこれまで仲が良くなかったということでも決してなく、私たちの未来を「新しい過去」だと思っているということ。これからさきあなたたちが私のことを忘れたとしても、私と一緒にいた時間、わずかに重なっていた空間があなたの味方になったらいいなと思う。そうであるために、私はずっと同じままではいけないのでしょうね。

これまで、変わることをあまりに恐れていた。変わることは無くなってしまうことだと思っていた。だから好きなものを好きでいつづけた。でもそれは、一見だれかのためのようで私自身のためでしかなかった。そういう自覚もなかった。邪悪だね。
この時世、みながいろいろなことに気づきそれぞれに道を選んだ。選びはしたが、何も変わらなかった。まだ変われなかったのだと思う。その様子を黙って眺めて、私ならば変わることができるのだと気づいた。私と、目の前にいるあなたたちなら。ここまで考えてようやく、最初に書いた未来のあなたたちを想うことができた。

誰かや何かのためではなく、私たちの新しい過去を想っていたい。それが私なりの「人のことを想う」ということ。少し補足。新しい過去というのは、本当にいい本は何度読んでも楽しいと思えることに似ている。余計に分かりにくくなったかしら?
人のことを想うのはすてきで幸せなことのはずだけれど、上手にできない時がある。そういう時は何にもしなくていいし、黙っていようね。少し待って元気が出たらまた散歩のつづきをすればいいよ。待つことは、濃い、と思う。

2020/01/27 見えない天井

救いが、無い。そう思ってぼんやりと見えない天井(部屋が暗い)を見つめていた。いつの間にか、無いのは救いではなく天井ではないか、と思考がすりかわってゆく。考えていたのは、この天井、見えないけれど本当は在るのだろうか、それとも見えないのだからやっぱり無いのだろうか、ということだった。それだけで3時間が過ぎていた。

天井が無ければ、星が見えるはずだ。しかしそもそも空に星がなければ見えるはずもない。私が見ているときに在る星は、見ていないときにも本当に在るのだろうか。天井は無く、星も無いのかもしれない。
天井が無ければ、今とても寒いはずだ。こんなふうにぼんやりしている場合ではない。寝たら間違いなく死ぬ。しかしあまりに寒いときには、寝ることもできない。この温い空気。だからやっぱり、天井は在るのだろう。
そもそも、無ければという仮説が、もう、在るという思い込みの証拠ではないか。天井が在れば、それはこんな闇を作るだろうか。そんなに遠くないところにある天井がこんなにも深い紺色をしている。宇宙の色はたしか、こんなふうではなかっただろうか。そうならば、天井は無いということになる。
(といったふうに続いていくが、3時間分を思い出すことも書きだすこともシンドイので、ここまでにしておく。)

想像力…というのは、在るか無いかを考えることではない。無いもの“を”在ると思うことでもない。無いもの“が”在ると分かっていることなのである。たぶん。私は、私が傷つくことを想像できない。想像力が足りないせいだ。

2019/09/02 散歩道の選びかた

「ない」と言うということは多分、「ある」ということなのである。

帰省中の友達から21時過ぎに「いま近くをサイクリングしているから出てこない?」と連絡が入った。仕事を終え、ご飯を済ませ、お風呂に入る前に“ひとだらけ”している時だった。もちろん「出ていく」と答え、そのまま彼と30分くらいだろうか、散歩した。散歩をするときの道の選びかたで、その人がいい人かどうかは分かる。いい人、というのは好きかどうかという主観的なことでしかないのだけど。
彼はとっても素敵ないい人で、散歩の術をきちんと心得ている。私たちはどこかに向かって歩いているのではなく、この道の先には何も「ない」のである。何もないのに私たちは歩いていくし、けれどそこには確かに何かが「ある」。だから散歩は楽しい。

歩くのと同じように「待つ」こともできたらいい。あの子が来るまででもなく、あなたが何かを言ってくれるまででもなく、何も待たずに、しかし待っていたい。これからに何もなくとも、待っていたい。つまり、そういう気持ちでいたい、ということである。
意味や理由や、名前だってなくていいと思う。あるものはきちんとあるし、「ない」と言っているものはそうであってほしくとも大抵あったりする。それでも、なくていいものや自分が「ない」と思っているものがあることは、信じてあげたい。

この地に(帰って)来るときや訪れようとするときに、ここに私がいることを思い出してもらえるのは幸福なことだなぁ。そのうちふと消えるかもしれないけど。その時は誰にも言わずにね。

2019/04/19 覚えといてやる

そろそろこの話ができるかなと思う。もうすぐ友達が死んで一年になる。「人が死ぬこと」は「雨が降ること」と似ている。私がよくこう言うのは、ちょうどあの日も雨が降っていたからだ。
死んだと聞かされ、私はそれからしばらくの間、よく分からない、という気持ちにしかなれなかった。信じられないと言う人は、もう信じている。分からないという感覚は、ずっと夢の中にいるのにそのことに気付かないでいるようなものだった。葬式の連絡だとか、みんなでお金を出し合って花を用意するだとか、そんなメッセージのやりとりを事務的にこなした。そのあとで、しばらく文字を見るのをやめた。
葬式でお坊さんが、優しい人だったと言った。私は、気が弱かっただけだろうと思った。Canonは観音からとったネーミングだというありがたいお話にも、彼のカメラはOLYMPUSだとかいうようなことばかり考えていた。生き残った人間が悲しさを乗り越えるため(なのかは分からないが)に、死んだだけの人間を変えてしまうことがとても嫌だ。(たいていは美化される。死んだ人間は偉いらしい。)
「覚えといてやる」。その言葉は今の私にあまりにも響いた。忘れないでいようねなんてあたたかい気持ちはないし、忘れられないという自分勝手もない。会える人には会っておこうなんてセンチメンタルもない。葬式で、友達思いの優しい人でしたね、なんてふわふわの情報を共有してしまったからには、死んだ友達が永遠に、ほんとうは気が弱くてお人好しでタイミングが悪くて優柔不断ででもやるときは意外とやるタイプでいられるように、私が覚えといてやろう。正しく悪口を言っていきたい。ずっとしてきたみたいに、これからだってからかってやりたい。
友達が死んだと分かってから、友達が死んだことを考えない日はなかった。と思う。やっぱり雨が降るくらい自然なことだと思う。それでもあの日、私は悲しくて悲しくて戸惑ってどうしようもなくて息ができないくらい泣いた。

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