雨やどり


管理人室 -- 日記 -- 2019/04
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2019/04/27 行かなくちゃ
2019/04/19 覚えといてやる
2019/04/06 愛すべきものたち
2019/04/01 リスの気分でドングリを

2019/04/27 行かなくちゃ

じゃあねと言って帰っていくのは、大抵私のほうだ。見えなくなる直前にもう一度振り返ると、まだこちらを見ている。遠くから少し大きく手を振る彼を、小さく手を振り返す私を、周りの人間はどう見ているのだろうか。誰も見ていないのだと、その時は思い込んでいるのだけど、実際その通りだという気もする。
スピッツの「魔女旅に出る」で、ララルララルララ 泣かないで ララルララルララ 行かなくちゃ いつでもここにいるからね と歌う。「行かなくちゃ」は自分で言うことはあっても、人に言ったことはないな、と思う。人に言われたことはあるかもしれない。「あなたはもう行かなくちゃいけない。」それは、「あなたのことを構ってあげられない。」ということだったのかもしれない。それでも、彼は見えなくなるまで私を見ていてくれるのだから、お互いにとって一番良いことに思えた。

桜が咲いた春は明るくて、散っていく花吹雪もきれいで、水仙の絨毯が美しくて、新緑が透き通るような色で、私はこれを彼に見せたいと心から思ったのだけど、押し付けだろうと思う。いま隣に彼がいないことはおかしいのではないか、と一瞬考えて、なんらおかしくないことに気づいて悲しくなる。
彼は彼で、ここよりもっと美しい場所にいるかもしれないし、隣には誰がいるかも知らない。それぞれに事情がある。私が誰かの事情に親しくいられるのは、たとえば児童文学の中とか、そんな時だけだと思う。現実の世界では難しい。思ったよりもみんな成長してしまうから。会わなかった時間のことなんて何も聞かないから、昨日も会ったみたいに、今度もまた会いたいね。そんなことを思うのは、上手に仲良しでいたいよね というwafflesの「春うらら」を聴いたからだと思う。
会わないでいた彼の時間は、私にはなんの関係もないのだから、風邪をひいて死にかけたとしても、そんなことは知らない。いま生きているなら私は嬉しい。いつだって気の抜けた挨拶で再会していきたい。
あとこれは恋愛の話では全くない。彼のことは大好きだけど。たぶんすごく愛してるけど。

2019/04/19 覚えといてやる

そろそろこの話ができるかなと思う。もうすぐ友達が死んで一年になる。「人が死ぬこと」は「雨が降ること」と似ている。私がよくこう言うのは、ちょうどあの日も雨が降っていたからだ。
死んだと聞かされ、私はそれからしばらくの間、よく分からない、という気持ちにしかなれなかった。信じられないと言う人は、もう信じている。分からないという感覚は、ずっと夢の中にいるのにそのことに気付かないでいるようなものだった。葬式の連絡だとか、みんなでお金を出し合って花を用意するだとか、そんなメッセージのやりとりを事務的にこなした。そのあとで、しばらく文字を見るのをやめた。
葬式でお坊さんが、優しい人だったと言った。私は、気が弱かっただけだろうと思った。Canonは観音からとったネーミングだというありがたいお話にも、彼のカメラはOLYMPUSだとかいうようなことばかり考えていた。生き残った人間が悲しさを乗り越えるため(なのかは分からないが)に、死んだだけの人間を変えてしまうことがとても嫌だ。(たいていは美化される。死んだ人間は偉いらしい。)
「覚えといてやる」。その言葉は今の私にあまりにも響いた。忘れないでいようねなんてあたたかい気持ちはないし、忘れられないという自分勝手もない。会える人には会っておこうなんてセンチメンタルもない。葬式で、友達思いの優しい人でしたね、なんてふわふわの情報を共有してしまったからには、死んだ友達が永遠に、ほんとうは気が弱くてお人好しでタイミングが悪くて優柔不断ででもやるときは意外とやるタイプでいられるように、私が覚えといてやろう。正しく悪口を言っていきたい。ずっとしてきたみたいに、これからだってからかってやりたい。
友達が死んだと分かってから、友達が死んだことを考えない日はなかった。と思う。やっぱり雨が降るくらい自然なことだと思う。それでもあの日、私は悲しくて悲しくて戸惑ってどうしようもなくて息ができないくらい泣いた。

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2019/04/06 愛すべきものたち

今日はあたたかい日だった。それなりに広い公園の中で桜の花が、一輪、咲いた。4月に入っても雪が舞ったり、朝は氷点下まで冷え込んだりしていたから、気持ちが揺らいでしまった。

去年の3月末のある日、その頃はまだ東京にいたのだけれど、一日中歩き続けていた。隣には、隣にいてほしい人がいた。鉄棒で逆上がりをしようとしていたことや、それを私がこっそり動画で撮ったこと、信号を待ちながら私を見ていたことや、そっぽを向いたら今度は私が見ていたこと。お互いに空ばかり見て、気づいていることに気づいていないふりをしていた。幸福だった。と思う。
あれから一年が過ぎて、何も変わらないなと思う。その間に私たちは近づいたり離れたりもしたけれど、いまこうして何も変わらずにいる。ずっとあの幸福に包まれているみたい。ときどき悲しくなるのは、この幸福に終わりがないからだろう。永遠が悲しいなんて不思議だね。でもたぶん、そういうものなんだろう。
何も変わらないけれど、あの頃とは絶対に違う。お互いに新しい出会いもして、いろんな人のことを好きになって、知らない場所に行って、ステキだ!とか思ったりして。それで同じでいられるはずはない。しかし変わってはいない。もちろん「成長」なんてものもしていない。それでもあの頃とは同じじゃなく、何かが違う。ちょっと楽しい、とかそんな感じかな。(ここへ来て急に雑)
結局、もうずーっと好きだなぁ。そして私は何もわからないままだ。

このところ寝る前によく聴くのは、waffles。歌詞が最高だなぁと思う。教えたくなる。誰に?でも届いてほしい人には届いて、届いてほしい人が好きそうな詩だなぁ、なんて後からぼんやり思ったりした。(前置きが長くなりました。)
「すきなひと」とその人を呼んだ とてもきれいな響きだと思った 猛烈な寂しさのまえの一瞬!
waffles「ぼくのすきなひと」

笹倉慎介さんの歌も好き。詞がいい。「湖畔の人」という曲から。いま住んでいる家の近くには小さいけれど湖があって、だから何?って感じだけど、なんとなく、これはすごく良い、と感じる。何事に対してもこれくらいの感想でいいと思う。(前置きがなg…)

誰かを想いながら 僕を離れて いつまでもここにある
笹倉慎介「湖畔の人」


あの日の私の日記には、「目黒川沿い、ユチョンとジェジュンが大量発生。桜どころではない。」と書かれている。

2019/04/01 リスの気分でドングリを

いま令和と打ったところ、既に変換できるようになっている。さきほどまでは0羽…などとしか出てこなかったのだが。新元号発表。ずっととても楽しみにしていた。それこそ遠足前夜の小学生の気分である。しかし同時に、知ればもうそんなに興味もなくなってしまうかもしれないと思っていた。それはなんだか寂しくて嫌だ、とも。「令和」。いいと思う。万葉集がなんちゃらとかいろいろあるのだろうが、令和って単純にいいと思う。これから先、「令和の和」と誰かが言って、私もまた誰かにそう言う場面を想像する。新しい時代という感じだ。これから来る時代はかならずいい時代になる。私たち(だれ?)がいる限り。ちゃんとした根拠もないがそんなことを思えた、人生初の元号発表(平成生まれ)だった。
昨夜22時過ぎごろから、少しだけと思い飲みに出た。年度末、なぜか閉まっている店が多く、人通りも少なかった。そんなわけで必然的に、数少ない開いている店に人が集結する。田舎だし、ときどき飲みに出ているから顔見知りが何人かいる(おそろしい…)。私含め知った顔が4人集まった。これがみんなで一緒に来たというのなら話は全く違っていただろうが、4人ともひとりずつやって来た。1軒目の人もいれば3軒目の人もいる。これがひとりで出歩くこととかお店の面白いところだと思う。57歳と45歳と27歳と23歳が、リスの気分でドングリを食べながら、新元号にただワクワクしていた。この夜のことは一生忘れない。こういう幸せはずっと続いていく。
令和は、知ったところで私を悲しくはさせなくて、よかった。このうれしい気分は、幸福な気持ちになってこれからを明るくしてくれるだろう。そうなるといい。

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