雨やどり


管理人室 -- 日記 -- 2021/09
一覧
2021/09/30 習う
2021/09/28 暗い道
2021/09/24 要求
2021/09/14 ステップ
2021/09/08 寒さ・邪悪
2021/09/00 9月0日大冒険

2021/09/30 習う

自分で言うのもなんだけれど、私はある程度のリズム感・音感を持って生まれてきてしまった。だからそういうものを習っていない。習っていないのに教えている。このあいだ久しぶりに「習ってない」という言葉を聞いて、習っていないことは習っていないのだと思い出した。いつからこの子は「習ってない」と言わなくなってしまうだろうか。いつからみんなは習っていないことを当然にこなし始めるのだろうか。習っていなくて且つ分からないことを、いつから私たちは知っているのだろうか。

2021/09/28 暗い道

静かで暗い公園を堂々と歩く私は格好良かっただろうと思う。暗い道をこんなにもまっすぐに歩けるのは、明るい時のこの道を歩いたことがあるからだ。もしこの先、知らない暗い道があったら、どう歩くのが良いだろう。落とし穴があるかもしれない。ワニが口を開けているかもしれない。考えながらずんずん歩く。どんな道であろうと、その道に何が待ち受けていようと、そしてそれらが何も見えない時にも、恐る恐るではなく、こうしてまっすぐに歩いていたいと思った。自分ひとりでは通れるか分からず、誰かが手を引いてくれるのならば必ず通れるような道もあるかもしれない。でも、誰かに手を引いてほしいと求めはしない(心の中で話しかけるくらいは許してね)。まっすぐ歩いてみて、それでも通れなかったのなら、しょうがない。例えば雨が降るのと同じくらいに、この世には私たちには手出しできないことがたくさんある。
いつかこの散歩にも終わりがくる。みんなの散歩もいつか終わる。散歩の終わりについて、みんなはどう思いますか。それとも、終わらない散歩があると言うのなら、教えてほしい。死んだあと、歩く私を覚えている人がいる限り私の散歩は続くかもしれない。でも、その人もいなくなってしまったら?終わらない散歩、もしもあったらそれは素晴らしくいいものだろうなぁ。そんなことを思いながら、私は私の散歩の終わりを想像する。最後に歩く道は、選べなかった道ではなく、本当に歩きたかった道だったらいいなと思う。疲れた足が動きを止めるのではなく、道が私を殺してくれたら本望だと思う。
自分の話はここまでにしておいて、世の中のことを考えなければいけない。最近は、そういう意識がこれまでより少し強くある。なぜ私はこう、散歩の話ばかりするのだろう。いつも散歩のことを考えている。他人の散歩の仕方を決めつけることはできない。何かを要求することもしない。ただ、私が私の散歩について話すことで、みんながみんなの散歩について考えたり考えなかったりする。そうすれば世の中がほんの僅かに健康になるかもしれない。散歩の途中、格好つけてコーヒーを飲む人がいる。その人は何かを話すだろうか、何も話さないだろうか。いつかの私は、美しい景色を眺めている。

タグ: 散歩 

2021/09/24 要求

本当にみんな、要求ばかりである。「正解は無いけれど、これが一番いい方法だと思った」、だから正しいと認めてくれとでも言いたいのだろうか。正しくないことが邪悪な要求によって正しいことへとすり替えられてしまう。でももう私は「正しくない」とは言わない。言わないけれど、私が正しいと信じることは心の中にもっていることにする。何があっても私は正しくいなければならない。そうして、真に正しいことが正しい姿で存在する世界を想像する。その溝を、私が無言でいることによって埋め、いつか平らかになったらそれでいい。

2021/09/14 ステップ

新型ウイルス流行の世は未だ終わらず。都会ではもしかしたら広まっている界隈というものがあるのかもしれないが、地方ではどこにでもあり得る。都会と地方の違いについて考えていたら、「何ステップで(ほぼ)全員と知り合いになれるか」という仮説を思いついた。私の住んでいる地域なら、4ステップ先はほぼ全員知り合いだと思う。友達の母の同僚のいとこ、例えばこのくらいで地域のほぼ全員にたどり着くだろう。4ステップは、それなりに田舎。もっと田舎な小さい村なら1ステップで全員知り合いかもしれない(全員が知り合い同士ということ)。東京はどうかな。例えば、渋谷区とか。100ステップくらい?意外ともっと近かったりして。いや、それとも(ほぼ)全員と知り合いになるにはもっとずっと遠いかしら。たくさんの人がいるものね。想像がつかない。適当な思いつきの仮説なので、あんまり真面目にとらないでくださいネ。
新型ウイルスの話に戻す。つまり、感染が起きているところは、私の場合、最も遠くても4ステップ先には必ずある。東京にいれば、最も遠くて100ステップ先だ。それが4ステップになるまでには、いろんな界隈を通ってくる。都会の人たちは、体感として、どうなのだろう。地方の私たちは、すぐそこまで来ている感じがする。…私たち、ではないのかもしれない。私は、と言うほうが正しい。実際、1~2ステップ先にはもうある。それでも、人々は変わらない。まぁ、私も4ステップ先にあったときから変わらない。同じように気をつけ考えていくしかない。人間とはそういうものなのだろう。そう簡単には変わらない。変わったとしてもそれは一時的で、いつか元に戻っていく。だからこそ元いたところが清くあるよう、未来の私たちのために今をなるべく美しく過ごさなければいけない。
この時世でそんなに仲良くないのにごはんに誘ってくる人や顔を近づけて話してくる人。私が神経質になっているだけなのだろうか。私とそういう人たちとが考えを同じくすることは一生ないと思う。“普通に”考えれば避けたほうがいいことを、どうして他人に言ったりやったりできるのか。ひとつには、自分の欲求よりも他人への要求が顕著になってきていることがある気がする。どんなに想像力をもって頑張って考えても、そういう人たちの考え方にはやはり寄り添えない。しかし、そういう人たちはきっと思っている以上に多いのですよね、今の世はもう。みんながそうしているから。私の“普通”は多くの人の“普通”とは存外違っているようなのだ。このことには最近ようやく気がついた。
本当に気を遣うなら、対人の仕事を全部休んで、庭の畑(ないですが…)を耕して、誰とも会わなければいいのだろうが、そんなことは現実的には無理。「気をつけながらできることをやっていきましょう」というのがベストな落としどころでしょう。世間でもこういう風潮は広くあるものの、それがみな自分自身のためになっているところは怖いなと思う。仮に何かあったとしても、対策をしていた証明があることを、みな求めている。この世は、げに恐ろしい。私はいつか、こんな世はやめて、だれも知らない国へ行く。それまでは今目の前にいるこの子たちを守りたい。とはいえ、守ると言ってみなさんが想像するようなことはきっと何もできないのだけれど、お互いに何かを要求しあってそれを擦り合わせていくのではない私たちが、話したり笑ったりすることを続けていきたい。この子たちに必要のない苦しみがあったら、それが一番いやだ。

2021/09/08 寒さ・邪悪

今日は寒くて、半袖にカーディガンを羽織った格好で自転車を漕ぎ出して、もう少し厚い服にすればよかったかなと思った。でも結局、せっせと漕いでいるうちに体は温まってきて、ちょうどよかった。普通に生活している間はやっぱり寒くて、しかし何枚重ねて着たところでこの寒さに慣れるまではだめなのだろうと、去年やそれまでの年のことを思い出して思った。夜、湯船につかると、寒さが外に出ていくのが分かった。芯まで入り込んでいた寒さが鳥肌になって一瞬のすきに通り過ぎ、そのあとはじんじんと温まっていく。邪悪さも同じかもしれない。ずっと心の奥に巣くっていた邪悪さが、この悪い目つきになって表れている今は、ほんの一瞬なのかもしれない。邪悪さが出ていった心に、温かいものが残ったらいいなと思う。そんなことをゆっくり考えていたら、のぼせてきて、お風呂から上がった。

2021/09/00 9月0日大冒険

さとうまきこさんの『9月0日大冒険』を久々に読み返したら、人間の残酷さを見た気がした。同著『わたしの秘密の花園』を2年前に読んだとき、思いがけず残酷で驚いた記憶がある。私のさとうまきこさんの本に対する印象は『9月0日大冒険』のわくわくとした展開だったからだ。しかし今日『9月0日大冒険』を読み返して思った。大冒険をする10歳の3人もまた、残酷である。残酷などという言葉を使うと大仰かもしれないが、そう思った。残酷さを持っているがゆえに彼らはお互いのことを見て、自分のことを考える。その姿はけっこうリアルに描かれている。信じられないような冒険、その中のリアルに、読者は3人に近しい気持ちになる。一緒に冒険をしているような臨場感もそこから生まれる。
冒険を終えて彼らが手にしたものは、日焼けした肌と「わすれない」一日である。友情とか仲間とかそんなものはたぶん通り越している。3人は、9月0日の大冒険を「わすれない」と誓った。そして、きっと今も忘れていない。かたい握手をするシーンから、そのことは確信できる。彼らに10歳の子どもがいたら、話してやっているかもしれない。だから、この本を読んだ人たちもまた、8月31日になるとこの本のことを思い出すのである。そして、自分自身にもまた忘れない日々があることを思い出す。

タグ: 読書 

[日記] Page Top