雨やどり


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2023/05/31 夜散歩
2021/09/28 暗い道
2021/02/21 散歩癖
2020/07/18 散歩のおもい出
2020/06/21 夏至の花見
2020/06/07 sampist
2020/04/22 甜麺醤
2020/04/19 冷たくて甘い・そのうちに家に着く
2019/09/02 散歩道の選びかた

2023/05/31 夜散歩

夕方、友人Rから連絡が入っていた。夜になって返信し、急に散歩することになった。21時30分に近くの公園で待ち合わせた。相変わらず暗すぎて、神社の明かりが不気味だった。むかし、この公園で地区のおばけ大会があったのを思い出す。6年生がおばけになって下級生たちが公園を一周する。おばけがいなくてもじゅうぶん怖い。
明るいほうへ行こうと言いながら、湖に向かって歩いたが、結局どこもそんなに明るくはない。待ち合わせたのとは違う公園に着いた時、Rが「空が広い」などと言う。「うわ、東京の人だ」と言ったら「今の、なしで」と。「東京には染まってない」と言うから、「でも、田舎の人だとも思ってないら?」と返した。どこにも染まらずにふらふらしてる、とお互いに言い合って笑った。本当かどうか確かめることもせず、そういうような話ばかりした。
またね~と言って解散する。家に戻って時計を見たら23時15分くらいで、びっくりした。思ったより長い散歩になった。

2021/09/28 暗い道

静かで暗い公園を堂々と歩く私は格好良かっただろうと思う。暗い道をこんなにもまっすぐに歩けるのは、明るい時のこの道を歩いたことがあるからだ。もしこの先、知らない暗い道があったら、どう歩くのが良いだろう。落とし穴があるかもしれない。ワニが口を開けているかもしれない。考えながらずんずん歩く。どんな道であろうと、その道に何が待ち受けていようと、そしてそれらが何も見えない時にも、恐る恐るではなく、こうしてまっすぐに歩いていたいと思った。自分ひとりでは通れるか分からず、誰かが手を引いてくれるのならば必ず通れるような道もあるかもしれない。でも、誰かに手を引いてほしいと求めはしない(心の中で話しかけるくらいは許してね)。まっすぐ歩いてみて、それでも通れなかったのなら、しょうがない。例えば雨が降るのと同じくらいに、この世には私たちには手出しできないことがたくさんある。
いつかこの散歩にも終わりがくる。みんなの散歩もいつか終わる。散歩の終わりについて、みんなはどう思いますか。それとも、終わらない散歩があると言うのなら、教えてほしい。死んだあと、歩く私を覚えている人がいる限り私の散歩は続くかもしれない。でも、その人もいなくなってしまったら?終わらない散歩、もしもあったらそれは素晴らしくいいものだろうなぁ。そんなことを思いながら、私は私の散歩の終わりを想像する。最後に歩く道は、選べなかった道ではなく、本当に歩きたかった道だったらいいなと思う。疲れた足が動きを止めるのではなく、道が私を殺してくれたら本望だと思う。
自分の話はここまでにしておいて、世の中のことを考えなければいけない。最近は、そういう意識がこれまでより少し強くある。なぜ私はこう、散歩の話ばかりするのだろう。いつも散歩のことを考えている。他人の散歩の仕方を決めつけることはできない。何かを要求することもしない。ただ、私が私の散歩について話すことで、みんながみんなの散歩について考えたり考えなかったりする。そうすれば世の中がほんの僅かに健康になるかもしれない。散歩の途中、格好つけてコーヒーを飲む人がいる。その人は何かを話すだろうか、何も話さないだろうか。いつかの私は、美しい景色を眺めている。

2021/02/21 散歩癖

すれ違うたくさんの車が、窓を開けていた。私は、真冬でも気分がいいときは窓を開けて走る。窓を開けて車を走らせるのは、それくらい気持ちがいいのだ。冬の終わり、陽ざしが春に近づいてきて気温が10℃前後の日には、半開くらいにしている人がちらほらいる。今日みたいに15℃近くなると、半分くらいの人は窓を開けていて、その中には全開にしている人も少なくない。私はもちろん全開だ。
常々思っているのだけれど、私は車の運転には向いていない。もちろん、車を運転することに集中すれば、ちゃんとできる。教習所ではどちらかというと褒められるほうだった。ならばなぜ向いていないか。それは、散歩癖があるからだ。いつのときも散歩をするように歩く。仲の良い人たちとの会話は、散歩のような心持ちですることが多い。だから車も散歩のように運転する。癖、なのだ。

ところで、散歩のように、とは一体何なのか。私と散歩の関係(?)を思い出してみることにする。
むかしから歩くことが好きだった。ただテクテクしているのが楽しかった。そうして歩き続けているうちに、坂に魅力を感じることに気づいた。Y字路にも。それから川にも。『ドリトル先生のサーカス』で、ドリトル先生は言う。「あそこに、たぶん、川があるだろう。」このシーン、大好き。ただぶらぶらと歩いているシーンでは(たしか)ないのだけれど、ドリトル先生は川を見つけて歩く。
中学や高校の頃、まっすぐ帰れば2kmくらいの道のりを、よく2時間くらいかけて帰った。まっすぐ帰れば、と書いたのは、私たちはまっすぐ歩かなかったということだ。いろんなことを話すのに、道はいくらあってもよかった。話し足りないから道を伸ばすのではなく、道があるから私たちは歩き続けたくさん話をした。
知らない世界を見つけようとするとき、私の場合、まずはキーワードを見つけることが多い。「くじら」がタイトルに入っている本ばかり選んで読むとか。線路や川に沿って歩くとか。線路に沿って歩くと、特に都会は、地形を感じやすい。電車は急坂は苦手だから、地上を走っていた電車が突然地下に入ったり、崖沿いを進んだりする。それを眺めるだけで感動する。駅周辺の知らない街には、知らない店があり、知らない人がいる。私が今日だけここにいて、ここに住む人やここで働く人の生活を眺める。もしかしたら、私が眺めている人も今日だけここにいる人なのかもしれない。ここに住む人は私のことをここに住む人だと思って眺めているのかもしれない。歩くたびに、人間みんな、本当はほとんどのことは分かっていないのだと思う。だから(本来は)考えやめない生き物なのだ。

他にも違った歩き方をしているときもあろうが、ぱっと思い浮かんだのはこのあたりだ。方向音痴のわりに、一度歩いた道はよく覚えていることが多い。ひとりで歩くときは特に、かなりキョロキョロしているはずだ。車の運転も、ついそんなふうにしてしまう。もどかしいのは、止まれない、戻れないことだ。止まって景色をしばらく眺めるのを、過ぎていった道を振り返りたくなるのを、何度こらえていることか…。その度に、やっぱり私に車の運転は向いていないと思うのだ。

2020/07/18 散歩のおもい出

夏に知らない街を散歩していると、山の子には暑すぎて、ときどき疲れてしまう。それでよく、ふらりと公園に立ち寄って(いつもいいタイミングで公園は現れるのである)、ベンチか芝生があると少し眠った。たいてい夕方だったと思う。夏の夕方、太陽はまだ木陰をちゃんとつくってくれる。ベンチのときはリュックを前に抱えて、芝生のときはリュックを枕にしてゴロリとした。そのまま20~30分眠る。いまおもうとあまりに無防備だったなと思う。

大学3年生の夏まで、大学の寮にいた。寮と言っても、ごはんがでるわけでもなく、大学からは4駅(準急・急行なら1駅)のところにある。共用の談話室と台所、お風呂、トイレ、洗濯機、アイロン台があって、おじちゃんとおばちゃんがいる。元気かな。アイロン台は、畳の部屋にあった。わたし以外がそれをつかうのを見たことがない。門限があって、外泊には前日までに届を出す。23時(だっけ)に点呼があるのを、1回だけ寝ていてすっぽかした。それ以外きちんと出ていたのはすごいことだと思う。よく友達と3時くらいまで話していたが、そういう日でも朝は6時に起き、ラジオ体操しておべんとつくって、6時52分には寮を出た。そうすると、通勤ラッシュ前の電車に乗れる。このころのわたし、ほんとうにすごい…。
電車に乗れば4駅、歩けば5km弱。歩くにはいい距離。もともと丘だった地を切り開いたのだろうか、坂が多い。かなり急な坂もあるが、そこが推せるポイントでもある(坂好き)。大学の門を出て右に行くと駅。歩くときは左に曲がってから住宅街のある坂道を登っていくのがいい。あの道順、いまでも覚えているだろうか。(目をつむってみる。)あぁ…。その坂の先の景色、断片的にしかおもい出せない。だけど、歩いてみればきっとおもい出すだろう。そのくらいは親しんだ道だ。

寮がなくなることになり大学の最寄り駅でひとり暮らしになってからも、その駅まではときどき歩いたし、ついでにその先まで歩いた。ほかの道ももっと歩くようになった。もともと乗り物が苦手なのもあるが、歩くのは楽しい。何かを見たりどこかに寄ったりしながら歩くのもいいけど、あの頃はただひたすらテクテクやっていることが楽しかった。ただ、趣味を聞かれて散歩とか歩くこととか答えても、いまいち通じないのがちょっと寂しかった。
研修旅行でウィーンに行った時も散歩好きを発揮してしまったが、20人ほどのなかに思いがけず同じくらい歩く人が2人もいて、とても楽しかった。「歩くの大好き」という3人のグループラインは、動きこそしないが今でも残っている。ぜんぜん歩かない女の子を含め4人でハイリゲンシュタットに行ったときは、その子だけバスで、わたしたち3人は歩き、丘の上で再会した。歩いてみるとしっかり山道(トレッキングシューズをはいた人とすれ違い挨拶した)で、思ったより険しく長い道のりだった。そもそも、出だし5分くらい逆方向に歩いていたのもある。わたしたち3人にとっては感動の再会だったのだが、丘の上でコーヒーを飲みながら待っていた彼女は「遅いよ」としれっと言って、そのギャップに4人で大笑いした。(いま鮮明におもい出してニヤニヤしています。)

脚の長い人はずるいと思っていた。わたしは(特にひとりだと)歩くのがはやいのだけれど、背の高いはや足のサラリーマンなどには簡単に追い越された。「歩くの大好き」の3人も歩くのがはやいほうだったのだが、うち2人(つまりわたし以外)はしゅっとした男子で悠々と歩くのがうらやましかった。途中でふと「あやねちゃん、ぼくが2ホ歩くあいだに3~4ホ歩くから足の動きがめっちゃはやくてすごい」と純粋な目で言われ、間接的にちびまたは脚が短いと言ってるぞと思ったが、そういうところが憎めないのである。
誰かと歩くときは、その人がどんなに脚が長くてもどんなに歩くのがはやくても、合わせたくないし合わせないでほしい。待ちたくないし待たないでほしい。いつも同じはやさで歩いているというわけではないから、そのときにお互いがいちばんいい速度で歩けたらいい。それがそろっていたらちょっと楽しい。ずれるから楽しいときもあるかも…。あのときも、同じくらいのはやさで歩いてはいたが、無理に合わせたのではなかった。あのくらいのはやさで歩きたかったし、歩くことは楽しかった。

ふとおもい出した大学2~3年のころの散歩の話。ほんの一部の散歩のこと。このほかの散歩の話はまたいつかどこかで。ところで、H.Mさんの件。ファンだったというわけではないけれど、モヤっとしたショックを受け、考えることや思うことが山ほどある。それで、これらの散歩の話もおもい出すことになった。うん。わたしの決意は鮮やかになっていきます。

2020/06/21 夏至の花見

夏至ですね。クリスマスのつぎに好き。風がウォンウォンいって、魔女でも現れそうな予感。夕方、草花の図鑑をぱらぱら見ていたら散歩しようという気になって、外に出た。
見かけた花たちの写真を撮りながら歩いた。オダマキ(人の名前みたい)、ヒメジョオン、マツバギク、ケキツネノボタン(青い蝶がとまった!)、ノボロギク、カンパニュラ(おわりかけ)、ツリガネニンジン(たぶん)、アジサイ、リクニス・コロナリア、ツユクサ(つぼみ)、オニユリ(花はまだ。茎にむかごがいっぱい)、フランスギク、タチアオイ、オオキンケイギク、ドクダミ、バラ(オレンジ色)、サツキ、ガーベラ(野花として咲くの?どこかから飛んできたのかもしれないね)、チャイブ。 これらのほかに、彼岸花みたいな黄色い花が土手に咲いていた。なんだろう。キツネノカミソリにしては時期がはやいし。調べてもわからなかった。
桜の木には色づいた実があった。サクランボだ~。そんな季節。このあいだ食べました(食べたのはもちろんスーパーで買ってきたやつ)。サンシュユは秋に赤くなる実をもうつけていてすごい。今日は見かけなかったけれど、柿の木あたりもそろそろ小さい実がなっているかもしれない。
今日歩かなかったところにある草花たちも、ちかいうちに様子をみにいこう。そういえば、大学生のころ住んでいたあたりは川沿いにランタナがたくさんあったけど、ここではあんまり見かけない。見逃しているだけかしら。気をつけてみよう。ねむの木の花がそろそろかな。見ていると気がぬけてきていい。それから、もう少し暑くなると咲くノウゼンカズラは、この世界のオレンジ色のなかでいちばん好きなオレンジ色をしている。検索してでてくる写真ではどれもわりと濃い色をしているのだけど、実際に見るともっと透き通ったオレンジ色。
図鑑を眺めていたら、サンダーソニアという花がとてもかわいくて、育ててみたくなった。ドライフラワーっていうのは、どうもあんまり好きじゃない。芍薬やアジサイみたい大きな花を、切り花で飾りたい。どちらも枯れてもきれいだ。さいご茎がいたんだ花は花首だけを水に浮かべてもいいと図鑑に書いてあって、それなら、ダリアとかガーベラでやってみたいと思った。
ちょっと先のことを楽しみに生きていくのはけっこうむずかしいけど、たとえばお花とかなら上手にできそう!

2020/06/07 sampist

分離したほうの私がシャカイであまりにマットウに生きていてすごい。恋とかしちゃいそうだ!今ここにいるわたしはと言えば、おともだちとの喋りかた(そんなものはない)を忘れてしまった、かもしれない。咄嗟に「あー」「うー」などとしか言えない。このままだと1年後にはカオナシになる…。どうにかしなくちゃ、とやっと思い至る。

どこかに行ったら2週間は控えろという空気はまだある。わたしが仕事を続けるには、いまのところ「動かない」しか方法がない。レッスンにはずっと行けないまま7月もおやすみさせてもらうことにした。東京で乗っているオケは、秋頃から練習が始まり2・11に本番がある。乗るつもりで仕事調整してあるけど、どうなるかしら。
世の中がいまだに「行って帰る」という発想をしているから、自由に動けない。わたしたちsampistはぐるぐると歩きまわっているだけで、行くも帰るもないのである。
それでも、発想だけで平らかな世界にはできないこともよく分かっている。もっといろんなもの(科学とか?魔法とか?そしてそこにはもちろん「ひと」がいる)にお世話になって生きている。だから、動けないなら動けないなりにちゃんと考えていかないと、気がついたら私が勝手に結婚とかしてるだろな(べつにすればいいけど、こうやって流れついたら悲しいね)。

動けないことが、どうしようもないことだから、怖くなったのだと思う。むかしから、どうしようもないことに対する不安感が強い。どうにかしようとして生きてきた。だけど、どうしようもないことは、どうしようもないからどうしようもないと言うのであって、どうにかできるのならどうしようもなくはない。ということに、さっきようやく気がついた。どうしようもないことは、どうしようもない(そのまま)のですね。ということは、どうしようもなくないことは、どうしようもなくない(そのまま2)ということでもある。
ところで、わたしの言う「不安」は、世の人たちの言う「不安」と同じだろうか。他人のそれがわからないし、わたしのそれも他人にはわからない。それともそういうわからないもののことを「不安」と呼ぶのだろうか。
「怖い」なんかもそう。例えば、暗い夜道をひとりで歩くのは、怖いなと思う。わたしにとって怖いのは「暗い」でも「夜」でも「ひとり」でもなく、「おばけ」なんだけど。みんなが怖いのは何?それに対する気持ちはどんなふう?わたしのおばけに対する気持ちを「怖い」と言い切るのは、なんだかもったいない気がしてきた。

2020/04/22 甜麺醤

甜麺醤(テンメンジャン)という名前をどうしても覚えられなくて、「てめーじゃん」と覚えればいいという話になった。おめーじゃんだかなんだか分からなくなっちゃうんじゃない?と思ったけど、ぶじに覚えました。オンメンジャン。(?)

自宅の生徒は、4分の3弱は来ている状況。まあ今のところはそんなもんだろうな。「先生も大変ですね」とたくさんの人から言われてはじめて、大変なのかも?と思う。大変でなくはないと思うが、これまでと比べて大変に「なった」という感覚は(または誰かと比べて「わたしは」大変だという気持ちも)、ない。いつだって、わたしなりに、できることをするしかない(できないことはしない、ということでもある)。それを今さら特別に大変だと思わないだけだ。
それとももしかして、大変っていうのはお金の話とかかな?だとしたら、これまでに比べたら減ってはいるが、大丈夫の範囲内。
いずれにせよ、みなさんがこうして心配したり気遣ってくれたりすること自体は、とても励みになる。ありがたいです。

今朝、テンメンジャン(!)などを買いにスーパーまで歩くついでに、城南や上川あたりをぐるっと散歩&調査。
東京ベーカリー(名前がいい)、お城の近くのクロワッサン屋さん、それから、スーパーの向かいのシフォンケーキのあるパン屋さん、すべて営業している。閉まってるのは、線路の向こうの太養パンだけみたいだ。線路の向こうとこちらとでは、全体的にやはり雰囲気が違う。
このあたりはラーメン屋さんが多い(むしろほぼラーメン屋さんしかない。高校生のころはラーメンばかり食べていた)のだけど、今日通ったところは、どこも元気に準備中(朝9時過ぎ)。貼り紙などはない。テンホウのうしろに見えているのは、文学の道公園(端から端まで歩くと550メートルくらい)。むかしはここでよく、テンホウのソフトクリームを食べた。桜は、咲いているものもあれば、ようやく膨らんできた蕾もある。
駅からこのくらい離れていると、カフェ(そんなにない)も通常通り営業している。あ、るぱんはどうかな。ちょっと遠いから、自転車のときに通りかかろう。チーズケーキ屋さんも変わらずやってるっぽい(開店前だったので、たぶんだけど)。持って帰れるものを売る店は、ほとんど開いている。

予想通り、県内でも休業要請が出されることになり、また変わっていきそう。これもまた予想通り、音楽教室は対象ではなかったので、楽器店はほんとうにつぶれるかもしれない。ついにオンラインレッスンでの対応ができますと言いだした。が、やるならば環境は講師がととのえてくださいとのこと。
そもそも、オンラインレッスン(それ自体というよりはその周辺)については、もやもやもやもやもゃ…としている。このことは、また。

道で、高校の頃の同級生と、卒業以来6年ぶりにばったり出くわした。わたしの生徒の、学校の担任の先生だというのは、生徒から聞いていた。家庭訪問中とのこと。わたしは、散歩中と言っておいた。6年ぶりに会って「いま何してる?」ってそういう話?(とてもよい)

2020/04/19 冷たくて甘い・そのうちに家に着く

昼寝から目覚めてツイッターを眺めたら、東京の街は夏みたいな格好の人もいて驚いた。私はこたつに入り毛布までかけて昼寝していたというのに。午後、15分のつもりが1時間の昼寝から起きて、目薬を差す。調査もかねてぐるぐると散歩。外は日差しもあって暖かい。

小学生までは一緒に登校していたKすけくんちの斜め向かいの田んぼが耕されていた。去年は水が入らず(こんなことは初めてだった)寂しい気持ちになったから、今年は水が入るといい。桜が満開の公園は、覗くと人が多かったので、横の道を通った。
公園の裏門には、宴会の自粛と感染拡大防止の協力を要請する紙が貼られていた。例年は屋台が出ているが、その匂いがない。公園内を覗くと人が多かったので、すぐ横の道を歩く。ここはむかしから怖いなと思っている入口。あと、のぼりやすい石垣。のぼりやすいが、のぼってはいけない。のぼると怒られる。あと凍ってスケートリンクのようになったお堀にも入ると怒られる。どちらも当たり前だ。危ないもの…。それでも、いつの時代の小学生もだいたいやる。公園の横のリンゴ農家のカフェは営業中だった。テイクアウトできますという貼り紙がある。そのまま駅のほうまで歩く。

創業100年を超えるパン屋は、5/6まで休業。ここのおばあちゃんの佇まいがとてもいい…。トトロのパンとかはここで買ってます。あともうひとつ、少し離れたところにある、チョコクリームのアンパンマンがあるパン屋も好き。その方面には今日は行かなかった。
トミー。先月あたまくらいに友だちと行ったばかり。高校生が帰り道に行く店。もちろん高校生以外もいる。そのときのわたしたち然り。老舗喫茶店だが、夜はお酒も提供していて、この界隈ではここのマスターには頭があがらないそう。というのは、前にバーのママさんが言っていたこと。けっこうおちゃめな雰囲気のマスターだと思う。夜にはまだ行ったことがない。ここは開いてればみんな来ちゃうと思うから、このままいつまでたっても再開しないなんてことだけはないように祈りつつ、そうするのがいいだろうなと思う。
最近できたコーヒー屋(まだ行ってないのでよく分からない)は、テイクアウト待ちっぽいお客さんが店の前に数人いた。3月にオープンしたカフェ(いちど行ったがそれきり)は、当面休業。

駅西口方面に向かう。シャルマン。3月末に行ったとき、すでにマスクもして、営業していることを不安に思っているようなことも言っていたから、やってないかな?と思いつつ前を通ると、営業中の看板(けっこう大きい)が起きている。あれが横に倒れているときは閉まっている。おなじ曜日のおなじ時間に行っても開いているときと開いていないときとがある。春になり緑が茂ってきて、看板も隠れがちだが、あのサイズなら大丈夫だ。緊急事態宣言が全国に拡大されたいま、開いていればいるで迷うけど、店の外をしばらくうろうろしながらいろいろ考え、結局、(一瞬!)と思い、階段を上って扉を開けた。ぽかぽか太陽のもとで1時間以上歩き続けていたので、冷たくて甘いこれが沁みた。マスクをしてお金を払う。入って出るまで、10分強。次通りかかったとき、やっていたとしても、入るという判断ができる保証はない。これから、どう変わっていくかなと思う。
変わっていくのは当たり前なのに、変わらないでほしいと願う人がいる。私にはその気持ちがいまだによく分からない。懐かしいと思う気持ちに似ているのだろうか。変わっていくこと自体がとても楽しく、だからこそ変わらないものがあることを心強くも思う。変わっていくか変わらないかを人間が無理やりに決めなくても、ありのままに受け止めていくしかないと、今は思っている。
ケーキ屋はやっている。奥にショーケースがあり、向かって左側にクッキーなどのお菓子がすこし。店の真ん中にイートイン用の大きな丸い机があり、コーヒーか紅茶も提供しているはず。今日は入らなかったけど、イートインはどうしてるのかしら。当分やめますって言わなくても、する人はいなそうだけど。

夜の店は、貼り紙(休業、時間短縮、テイクアウトなど)をしているところもあれば、何もないところもあり、そこは営業時間に行ってみないと分からないなと思う。隣国でも休業要請が出てきた。これからここもどうなるかしらね。1時間半ちょっとのあいだに道ですれ違った人は両手に入るくらいだったけど、それはいつも通りです。

雲が出はじめ、少し寒くなってきた。散歩をつづける。そのうちに家に着く。同じ道を一度も通らなかった。散歩するのに、当然、行くも帰るもないのである。

2019/09/02 散歩道の選びかた

「ない」と言うということは多分、「ある」ということなのである。

帰省中の友達から21時過ぎに「いま近くをサイクリングしているから出てこない?」と連絡が入った。仕事を終え、ご飯を済ませ、お風呂に入る前に“ひとだらけ”している時だった。もちろん「出ていく」と答え、そのまま彼と30分くらいだろうか、散歩した。散歩をするときの道の選びかたで、その人がいい人かどうかは分かる。いい人、というのは好きかどうかという主観的なことでしかないのだけど。
彼はとっても素敵ないい人で、散歩の術をきちんと心得ている。私たちはどこかに向かって歩いているのではなく、この道の先には何も「ない」のである。何もないのに私たちは歩いていくし、けれどそこには確かに何かが「ある」。だから散歩は楽しい。

歩くのと同じように「待つ」こともできたらいい。あの子が来るまででもなく、あなたが何かを言ってくれるまででもなく、何も待たずに、しかし待っていたい。これからに何もなくとも、待っていたい。つまり、そういう気持ちでいたい、ということである。
意味や理由や、名前だってなくていいと思う。あるものはきちんとあるし、「ない」と言っているものはそうであってほしくとも大抵あったりする。それでも、なくていいものや自分が「ない」と思っているものがあることは、信じてあげたい。

この地に(帰って)来るときや訪れようとするときに、ここに私がいることを思い出してもらえるのは幸福なことだなぁ。そのうちふと消えるかもしれないけど。その時は誰にも言わずにね。

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