雨やどり


管理人室 -- 日記 -- 2019/09
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2019/09/30 思い出と呼んで、思う
2019/09/28 分かってもらえない
2019/09/25 「な」か「あ」か
2019/09/22 彗星のインク
2019/09/19 オアオシカ(新種)
2019/09/16 風の日
2019/09/15 寂しいということは
2019/09/11 ここから離れて行く
2019/09/05 変わらない君との再会
2019/09/03 上手に仲良しでいたいよね
2019/09/02 散歩道の選びかた

2019/09/30 思い出と呼んで、思う

金木犀の匂いがする。隣の家にけっこう立派なのが植わっている。ここ数日、目覚めるたびに青空に驚いてしまう。雨のつもりでいるからだ。青空に嬉しくなり、夏の癖で窓を開け放つ。するとこの金木犀である。その匂いの中でコーヒーを飲むのが至福だ。まさに今。私が「思う」のは、いつの時もこういうシーンでありたい。

今読んでいる本が、映像文化の章で「みる」「知る」「理解する」といった話をしていた。そこから「伝える」ことについて、じぶん自身のことを考えていた。前の日記の話である。「伝える」ことについて考えていたら「分かってもらう」ということについてまで及んだ。
その時は「分かってもらう」というふうに考えたのだが、そもそも「分かる」「分からない」について、あとになって考えていた。

私が「誰かを思う」ことができないと言ったのは、私には「思い出す」ことができないからだ。「思う」は無自覚に「思い出す」になりがちだと思う。しかし本当は「思い出」なんてものはないのだから、ここでうまくいかなくなるのである。ないはずなのに思い出がなぜかあるのは、思い込みの類いである。(思い込みは敵!)
「分かるときに人は悲しくなる」のは、「分かる」のタイミングでそのほとんどが思い出になっていくからだ。なっていく、というか、思い込んで思い出にしていく、という感じだろう。それでも思い出にならないシーンはたしかにあるはずで、それらを、大切に、「思って」いたい。
「分からないときに人は怒りっぽい」とも思っていて、それは「分からない」ことが良くないと思っているからだ。(「良くない」であって「悪い」ではないという話もあるが、それはいつかまた別の物語にしよう。)「分からない」ことはたくさんあるし、それはときにあまりに自然なのだから、その「分からない」物事に対するじぶん自身の態度を、私はきちんと「分かって」いるべきだと思う。

さっきからきつく当たっているが、私は「思い出」という言葉が嫌いなわけではないんだ…と昨夜のラジオで谷川俊太郎さんの話を聴いて思った。「その言いまわしが嫌い。」まさにその通りです。
思い出は、美化された記憶であることが多い。世間(!)の人たちがその意味で言いまわしたとしても、せめて私は、美化されたのではないシーンを「思い出」と呼んで「思って」いよう。

「伝える」「知る」「分かる」「通じる」「思う」このあたりの話はまだしばらく迷いながら生きていくのだと思う。こういう話、どこで誰とすればいいんでしょう。みんな(全員ではない)の知恵をかりたい。

2019/09/28 分かってもらえない

聴いていないラジオを流している。ラジオ…。深夜にしっぽりと喋るラジオとか。いいなぁ、やってみたいなぁ。聴いていないラジオも不快な話は耳に入ってくるようで、気持ち悪い話をし始めたので、慌てて局を変えた。性の話を、どうしてこんなに気持ち悪くすることができるのだろう。
ラジオをやるところを想像してみる。私も、何かを伝えようとするのだろうか。日頃から「伝える」をする時に「誰かを思う」ことができない。みんなは誰かを思って喋ったり歌ったりするのか、それも知らない。思うのは誰かではなく、湯船に20分浸かって立ち上がった瞬間のこととか、目が覚めたら寒かった時のこととか、たぶん自分に起きたであろうことたちのような気がする。誰かを思うことができなくとも、何かを思ってはいる。というこんな曖昧さで、何が伝わるというのだろう。それでもどんな言葉にも意味があるらしいから、言葉さえ喋れば、何かが伝わりはするのだと思う。それに、私は、伝わってほしいと思っている。誰かを思うことができなくても、「誰かに向けて」ということはやっているからかもしれない。だからたぶん、誰かに何かは伝わる。伝わりはするが、きっと「分かってもらえない」のだと思う。「知る」ことと「分かる」こととは全く別の問題だ。
別に深夜でなくてもいいから、しっぽりと喋りあいたい。誰かを思うことができないから分かってもらえないのだろうか。かといって、私だって、いつのときも分かってあげられる自信はない。誰かが誰で、誰かは何を思うのか、分からない。だからひとまず喋りあってみたい。分からなければ、分からないという事実がときに、正しいことだという可能性もあるだろうし。
しかしそもそも、「もらう」とか「あげる」とか言っている時点で駄目なのである。

2019/09/25 「な」か「あ」か

なぜ私が枝豆を好きかと言えば、それはもちろん、かわいいからだ。味や食感がすごく好きとかそういうことはない。それでもずんだ餅を見つければ「かわいい!」と言って買うのである。枝豆に限らず、そう、お豆はかわいい。

スピッツの生配信を視聴していた。たった今、聞き終えたところだ。スピッツは音楽ももちろんすごく良くて、その上かわいい。その上、と言うより、かわいさはかわいさで独立してある。見っけポーズに心がきゅっとなる。
かわいくいることは大事だ。私もかわいくなりたい。「なりたい」というのが妥当か「ありたい」とするべきか。私は今、かわいくないだろうか、どうなのだろう。

「これは経費で落ちません!」の録画をためていて、1話から見始めたら止まらなくなってしまった。多部未華子さんがかわいくて好きだ。声がとてもいい。声だけではないけど、とにかく声が好き。
かわいい人に触れたときに、彼(女)らのようになりたいのではなく、私はただ「かわいくなりたい(ありたい)」と思う。(「な」と「あ」でまだ迷っている。)

私にとって「かわいい」と言うことはたぶん、多くの人が誰かに「好きだ」と伝えるようなものなのだと思う。さやえんどう(お豆!)のブローチや青鉛筆のイヤリングをつけていれば、がま口のリュックをしょっていれば、お気に入りのワンピースを着ていれば、必ずそれらに気づいてくれる人がいて、しかもその人はとてもかわいい。このことが、私がいま生きていられる理由になっている。
私自身のことよりも私が身につけているものに気づいてくれることが嬉しい。気づいて「かわいいね」と言ってくれることが嬉しい。もちろんその人の服や持ち物もかわいくて、でもそれはその人が持っているからだなぁと、今その人を思い浮かべて、思う。

どちらにするか、決めた。かわいく「あ」りたい。私だってちょっとはかわいいだろうから。

2019/09/22 彗星のインク

時には幸せでなくてもいいから、あなたともっといたい。だって、「幸せならば」、それで本当にいいんだろうか。 寂しいから、一人でいれば誰かとの幸せな時間がいつだってやってくるはずだと思っていた。それなのに一人でいたところで、その孤独に耐えることもできないのなら、誰とも幸せにはなれなかった。
好き合うということは静止画だ。恋人と名前がつけばGIF画くらいだろうか。私たちが何でもなくなった時にようやく、動画になる。動画には音声もついている。 私たちが何でもなくなる時はもちろん、好き合いも恋人も経ていなくていい。私たちは何かだったこともないのかもしれないし、今でも何でもなくなりきれていない(少なくとも私にとっては)。だから私にはあなたの顔も声も思い浮かべることができない。 それなのに、忘れられないのもあなたの顔と声なのだから、訳が分からなくなってしまう。
9月の雨だなんて。コーヒーを飲みながら食べたかぼちゃのケーキは美味しかった。かぼちゃの皮が、タルト生地のように土台の役割を果たしていた。たしか、真似して作ろう、と思ったのだった。 この季節は風邪をひきやすいから、どうぞお気をつけて。初めて会うのに、ボックスティッシュと袋を持ち歩いて、鼻をかんでばかりいるなんて、あまりに可愛すぎるでしょう?
あなたは「思い浮かべる」ということをするんだろうか。ひとりでいても、いつものように考えてばかりいるのかしら。ときどきは何かを思い浮かべて(思い出すということにも似ているかもしれない)、その中に私がいたら、なんて願ってしまう。

彗星のインクで書いた手紙が、9月の雨に流されていくのを、見届けた。(変換ミスはときに思いがけず素敵だ。)

2019/09/19 オアオシカ(新種)

特急電車に乗ってリュックを開けたところで、iPhoneを家に忘れてきたことに気づく。
何かに「気づく」ということは、つまり、それまでぼんやりして気づかなかったということだ。
吉田篤弘『それからはスープのことばかり考えて暮らした』
何かが起こると、今まではそうではなかったと分かる。いつだったか、「分かる」と人間は悲しくなる、と書いたことがある(と思う)。「分かる」ことは大事だ。なぜなら、「分かる」ときにようやく悲しくなったりもしかしたら嬉しくなったりするからだ。そのシーンの気持ちをきちんと覚えていたい。
「分かる」までの人間は、けっこう怒りっぽい。それだけである。「怒る」は行動であって、感情ではない。ということに、ひとまずはしておきたい。

iPhoneを忘れて特別に困ったことは無かった。用事に遅刻できなくて(連絡を入れられないから)少し走ったり、乗る電車が分からなくて駅員さんに聞いたりした。新宿駅の駅員さんの顔と声が優しくて素敵だと思った。道には迷わなかった。一度歩いたことがある道は、歩いているうちに思い出してくる。初めて歩いた時にキョロキョロしていたわたし自身に感謝だ。

ところで今日は、新しい公園を見つけて、気に入ればそこで昼寝でもしようかと思っていた(とても呑気)。しかし予報を見るとどうやら雨らしい。雨の小石川植物園にするか、古本を買ってそこらへんで読むか。迷いかけたところで持ってきた本を読み終えたので、古本にした。
面白そうな本を2冊買ってすぐにでも読みたくなった。屋根とベンチさえあれば良かったのだが、それがない。数年前に入った紅茶屋さんを、記憶を頼りに見つけ出した。ああ、屋根とベンチさえあればなぁ。

そのあとで、お店に行って、屋根の話とか他にもいろいろと話した。今日は思ったことが割とすぐ口から出る日だったなぁ。
かつて私は彼と会うたびに、その日の日記を手帳に詳しく書いていた。いまも残っている。そんなことしなくても覚えていられるのに。このことに気づいてからは(気づくまでは気づいていなかった)、この日記にときどき寂しいとか楽しいとか感情だけ(でもないかも)を落としていくことにしている。
今日の日記のタイトル、私はこれを見るたびに幸福で笑ってしまう。

今この瞬間は、住んでいるこの家に、やって来た。帰ってきたわけではなく、戻ってきたとも違い、やって来たという感じが強い。それは「行ってらっしゃい」と言われて別れたからだろうか。

2019/09/16 風の日

お風呂あがり、風が気持ちいい。今日は風の強い日だった。昼過ぎ、カーテンがちぎれそうなくらいに吹いていた。30秒くらいその様子を動画にとって、カーテンを留めた。SNSにあげることも誰かに送ることもなく、そっととってある。夕方、3月に買ったわたしの青い車で初めて高速を走ったら、風に煽られて大変だった。青い車は乗っているだけで気分がいい。「風の日は魔法が使えるのよ」これはwafflesの『夢茜』という曲のワンフレーズで、風の日には必ずこの歌を思い出す。可愛くて、しかし甘すぎない声が好きだ。声の好き嫌いは割とあるほうかもしれない。いや、嫌いはあまりないかな。どちらかというと、好きが明確にある。
今日の場所で、私はきちんと振る舞えていただろうか。少し自信がなくてもやもやする。それで風を浴びながらノヘノへしているのかもしれない。感じる必要のないプレッシャーを感じている時が、たまにある。私にできることはこれしかないのだし、それを認めてもらうことも可能なのに、不自然に勘違いをしている。いつもそのことに気付くのが後になってからだから、へこむ。そんなこんなで、少し落ち込んでいる。元気はある。
今日は何を考えたわけでもない。ドライヤーに飽きて風で髪を乾かす間に日記を書くことにした。タイトルは最近はいつも本文を書き終えてからその中の一節を適当に選ぶのだけど、今日はタイトルから書いた。書いているうちに乾かしかけだった髪も乾いてきた。今日のうちはこの後もまだ、今日のことを思い出し続けてしまうと思うけど、これからケーキを食べて、やることをやって、ぬいぐるみを首に巻いて寝る!!!

タグ: 旅 

2019/09/15 寂しいということは

窓越しの夕焼けが、本物の色をしていた。網戸越しの月が、絵文字みたく光を放っていた。すっきりと心地のよい秋。
寂しいということは、どこへも行けない、ということだ。寂しいから、今はどこへも行ってしまえないのである。恋愛小説やラブソングがあまり好きではない。恋バナも好きじゃない。あれは思い込みの宣言でしかないし、思い込みは敵!だ。それでも、一見、恋愛(とかいうもの)っぽいのだが、きちんと生活を描いてくれている歌や本がたしかにあって、そういうものたちを私はこれからも味方に持っていたい。寂しくてどこへも行けない時間があってもいいのだと思う。寂しくなくなるまで傍にいたらいい。こんなふうに思えるのも秋のおかげ、かもしれない。
「帰れない」ことがよくある。帰っていく、と思っているから帰れないのである。私はずっと散歩している。そして必ず、どこかにたどり着く。そのたどり着いた場所(場所は人でもある)のシーンを重ねていく。正直なままを忘れないでいられるように。そこにいたいと思えばしばらくそこにいればいいだけの話だ。自分だけじゃなくだれかもいてくれたら、なおさらいい。 どこかとかだれかとか私が言うのは、どこでもだれでもない。「帰れない」ことは、とても正しく、時に嬉しいことだと思う。
しばらく会わないでいて、秋になって、もしかしたらもうあんまり長いこと立ち止まっている必要はないのかもしれないな、と思った。歩き出せそうな気持ちが生まれ始めているのを、感じる。いま立ち止まっているこの場所は正しく在るし、これからもその正しさは変わらないのだけど。去年は、銀木犀を見つけると意気込んでいたのに、結局見つからなかった。今年もまた探してみようかしら。どこかにあるのならだれか教えてください。どこでもだれでもない、どこかのだれか。

2019/09/11 ここから離れて行く

ふざけているわけじゃない…と思う。私だけが使う言葉はどれも、思い出にならないように重ねていきたいシーンの合言葉だ。これらを言う時はいつだって大真面目である。
夜眠るとき、このまま目覚めなくても幸せだと思うのは、「私が死んだ」ということは、これまでは少なくとも生きていたということになるからだ。生前葬をしていないことだけが心残りだ。私を抜きにしてみんなで集まるなんてずるい。それに、つまらない嘘で、もう死んだけれどそれまではたしかに生きていた私を消さないでほしい。
離れていく事はもっと単純なはずだった。子どもの私は泣かなかった。再会するために離れていくのだし、またいつかどこかで再び会うのだから泣く理由もない。「目の前にいるこの人(この場所)から離れて行こうと思っている。」私はいつもこう言うし、そのつもりでいるのだけれど、本当は嘘だ…と思う。「あの人(あの場所)から離れて行かなくちゃ。」そう思うだけで精いっぱいだ。そんなときも、自分にしか分からない合言葉で、なんとかつないでいる。
私には帰る場所がない。どこにも帰りたくない。ここから離れて行きたいし、いつかまた戻ってきたいと思う。戻ってくるということは、それまでは少なくとも離れているということだ。
ところで、いま書いた文に「本当は嘘だ」というフレーズを見つけてしまった。本当は、嘘だ…!

2019/09/05 変わらない君との再会

今日は、夏の終わりと秋の始まりがどちらもあるような日だった。嬉しくなって、シーツや毛布を洗濯して布団も干した。カーテン越しの秋の陽ざしの中で少しだけした昼寝が、幸福だった。 秋の陽ざしがなぜそれだと分かるかと言えば、私がこれまでに秋の陽ざしを浴びたことがあるからだ。

「君はほんとうに変わらないね」と人が言うときがある。相変わらず嫌なヤツだなというニュアンスのときもあれば、変わらずいてくれて良かったという意味のときもある。 変わらないのはきっと私たちの繋がりで、私たちはそれぞれに少しずつ変わっている。それを「君は変わらない」と言うのは、君の素敵さ(あるいは憎らしさ)が変わらないからだろう。成長なんてものはない(ということに私はしている)。お互いの知らない時間に、いろんな人に会って話をして、新しい音楽を聴いて、知らない道を散歩する。それらが少しずつ私や君になってきた。それでも「君は変わらない」と言えるのは素敵なことだと思う。 「変わらない」と言えるのは、それぞれが少しずつ変わっているからこそ、だ。だから、つい昨日も同じ教室にいたみたいに、この数年間を超えてしまえる。
懐かしむことと共感することは、会話ではない。だけど、存在した時間や存在する時間を捨てずにおきたい。いつか(過去に限らず)の君を知っていることは、大切にしたいなと思う。変わらない君との再会は、嬉しいものだから。

秋の陽ざしの中で、高校生の頃のことを夢に見た。あれ以来一度も会っていないし、今では連絡先さえ知らないけど、君は変わらないんだろうなぁ。

2019/09/03 上手に仲良しでいたいよね

私はTさんのことを頼りにしているし、Tさんも私のことを気にかけてくれている。Rのことをいい人だと思っているし、Rも私のことを応援してくれる。Hには思い出した時に連絡を取るが、返事がこなくても悲しくないし、返事が来なかったことは無い。8年ぶりに再会したMとは、その日に一日中散歩をしたが、お互いに飽きることはなかった。
私はほんとうに、みんな(全員ではない)のことが好きだ。みんな(全員ではない)もたぶん私のことが好きだ。その好意をどうやって受け止めていけばいいのかなと思う。帰り際、手を差し出されてした握手があたたかかったのは、眠かったからだろうか。あのとき私はそう思った(そうとしか思わなかった)のだけど、その握手が私をここにとどまらせることになるような日が来たら、どうしたらいいのだろう。
私と誰かの関係はぜんぶそれぞれに違うはずだけれど、それに名前をつけて分類することは不自然だ。というか、無理だ。好きとか憧れるとか愛してるとか、恋人とか。たとえば、ひとりを選ぶことができないのではなくて、ひとりに対する思いだけがいびつに存在している。のかもしれない。好意をきちんと受け止めて、みんな(全員ではない)と上手に仲良しでいることはできるのだろうか。それには今の私は弱すぎて、つぶれてしまいそうだ。
(たとえばさっきの握手のような)好意のシーンはこれまでにもこれからにもたくさん存在する。それらが思い出にならないで重なっていてほしい。思い出になるということは、美しすぎるということだから。これから先、好意たちをどうしていけばいいのか分からないけれど、ひとまずこんなところで手を打ってみたい。握手はいつまでも、手を握るというそれだけのことだ。自分の好意も誰かの好意も、思い出にならないように重ねていく。

このフレーズ、いつかの日記のタイトルにあったような。ちなみに今日の日記のタイトルは、waffles「春うらら」より。

2019/09/02 散歩道の選びかた

「ない」と言うということは多分、「ある」ということなのである。

帰省中の友達から21時過ぎに「いま近くをサイクリングしているから出てこない?」と連絡が入った。仕事を終え、ご飯を済ませ、お風呂に入る前に“ひとだらけ”している時だった。もちろん「出ていく」と答え、そのまま彼と30分くらいだろうか、散歩した。散歩をするときの道の選びかたで、その人がいい人かどうかは分かる。いい人、というのは好きかどうかという主観的なことでしかないのだけど。
彼はとっても素敵ないい人で、散歩の術をきちんと心得ている。私たちはどこかに向かって歩いているのではなく、この道の先には何も「ない」のである。何もないのに私たちは歩いていくし、けれどそこには確かに何かが「ある」。だから散歩は楽しい。

歩くのと同じように「待つ」こともできたらいい。あの子が来るまででもなく、あなたが何かを言ってくれるまででもなく、何も待たずに、しかし待っていたい。これからに何もなくとも、待っていたい。つまり、そういう気持ちでいたい、ということである。
意味や理由や、名前だってなくていいと思う。あるものはきちんとあるし、「ない」と言っているものはそうであってほしくとも大抵あったりする。それでも、なくていいものや自分が「ない」と思っているものがあることは、信じてあげたい。

この地に(帰って)来るときや訪れようとするときに、ここに私がいることを思い出してもらえるのは幸福なことだなぁ。そのうちふと消えるかもしれないけど。その時は誰にも言わずにね。

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