雨やどり


管理人室 -- 日記 -- 2018/11
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2018/11/29 店番
2018/11/27 夢落ちじゃないお話
2018/11/22 オリーブの森で語りあう
2018/11/14 Eさんの店
2018/11/12 カラオケ嫌い
2018/11/09 冷たいジュースが明日には
2018/11/07 喋れなくなる
2018/11/05 タイムトラベル

2018/11/29 店番

半日の研修で電車で50分くらい先の街まで行った。電車が少ないこともあり、開始時刻の1時間半前に着いた。朝ごはんを食べてこなかったしモーニングすることにして歩き回る。水曜定休多し!ひとまず開店時刻から1分すぎた喫茶店に入った。客は私だけだった。バタートーストを食べコーヒーを飲む。美味しかったがなんとなく気持ちが物足りなくて、違う店で2杯目のコーヒーをいただく。そこは常連が多いんだろう。ママは優しい人だったが、私がよそ者だったから余計にそうだったのだろうか。もっと適当で良いのに。
研修は、途中でトイレに行きたくなった(コーヒーを朝から2杯も飲んだからである)が、なんとか乗り切った。会社は宗教、研修は洗脳。私は引っかからないぞ…。
13時に終わり、街をまた歩き回る。30分くらいぐるぐるしたところでようやく良さそう!と思える店があった。入るとかなりこぢんまりした店で、カウンター席のみの6〜7人が座れるくらいの店だった。マスターがひとりでやっている。(カウンターの中も2人は入れないだろう。)夜は居酒屋になるらしく、昼は14時でいちど閉まるようだった。ギリギリに入ったが、ランチを勧めてくださった。コーヒーまでいただく。一週間前に焙煎したばかりだというケニアの豆があり、高いやつだよ!と言いながら特別にそれを煎れてくれた。確かにとても美味しく、さらに私好みの味だった。マスターと私は趣味が合いそうだった。味覚もそうだし、かわいいものが好きという感じも似ている。かわいい、というのにも色々あるが、そのセンスが同じ波長のような気がした。途中、女性が来て、コーヒーをマイボトルに貰いに来た。マスターは後で届けるよと言って、女性は去っていった。私にコーヒーを淹れてくれるタイミングでその女性のコーヒーも淹れたマスターは「ちょっと配達してくるから店番していて」と言う。初対面の私ひとりを残して出かけるとはすごい。(セキュリティーという概念…!)私が食い逃げしないとも強盗しないとも限らないのに。しかしきっと、大丈夫だろうと思ってもらえたのだろう。私がマスターとは波長が合うし信頼していい人だと思ったように、マスターもそういう感覚があったのだと思う。そうだといいな。そうでなければ客ひとり残して出かけないだろう。「すぐそこだから。とか言って30分くらい戻ってこなかったりしてな。」と笑って出かけていったが、2〜3分で戻ってきた。良かった。店を出たのは14時を15分も過ぎていて、私もすみませんと言ったが、追い出される感じも急かされる感じもなく、とても自然な良い空間だった。絶対にまた来ようと思った。夜にも行きたい。
次の電車の時間まで30分近くあったので、最後に駅近の喫茶店に入ることにした。店に入ると、入り口に置かれたドラえもんのおもちゃがけっこう大きな声で「こんにちは  ぼく  ドラえもん」と言う。知らないとかなりびっくりすると思う。私もびっくりした。どうやら人間を感知すると喋るらしい。新聞店のおばさんがきてしばらく入り口にいた時、ドラえもんがずっと喋り続けていた。それ自体も面白かったが、誰もそれを気にも止めない空間はシュールでさらに面白かった。マスターとママと3人で話した。かなりこの街の人らしさを感じた。店自体もそうだが。電車の時間になり店を出たが、もう行っちゃうの?と言われた。もう少しいたらかなり面白い話ができた気がする。
コーヒーを4杯も飲んで、ちょっとクラクラした。嫌なことは来週にはすべていい方向に向かうような気がしている。

2018/11/27 夢落ちじゃないお話

シャッフル再生のセンスが今日は特に良く、いつまでも聴いていたい。そろそろ辞めてもいいかなと思うことがいくつかあるが、辞められずにいる。まだもう少しこのままでいいか、と思ってしまう。というか、やめるのが面倒なのだ。(バカボンのパパ?)終わらない時間、変わらない毎日。
それでも来週は楽しい日々になるかもしれない。夢の中の可愛い私は、だいすきと言ってぎゅっと抱きしめた。ほっぺに☆までした。彼は、また一緒に出かけたいなと言った。私は、ずっと一緒に暮らしたいなと思った。そんな日が来るとしたらば今手にしている全てを辞めなければいけない。しかし、辞められない私にそんな日は来るんだろうか。夢落ちじゃないお話  100度目の答えなら  正解  正解…。来週もし会えたなら、その時はもう良いお年をと言わなければならないんだろう。
夢は体験なのである。コンプレックスと希望とが詰まった体験。現実でありファンタジーでもある。夢がずっと終わらないで欲しいといつも思っている。骨の髄まで愛してよ  惑星のかけら…。もうすぐ会えるかもしれないとなると、そのことしか考えられなくなる。今週はずっと夢の中にいる。この体験がどうか本物でありますように。うめぼし食べたい。
昼間、たんぽぽが咲いていた。こんな時期でも咲くんだな〜。小春日和と言うに相応しい気候だった。このまま僕のそばにいてずっと  もう消えないでね…。夢は終わりにするのも続けるのも自由で、そこが現実とはちょっと違う。夢ならば、ずっと  だなんていう言葉が身近になってくる。だから夢と名付けられたんだろうな。
シャッフル再生、見事。

2018/11/22 オリーブの森で語りあう

『オリーブの森で語りあう ファンタジー・文化・政治』。M.エンデ、E.エプラー、H.テヒルによる鼎談を読んだ。会話はエンデを中心に進んだ。(中心に、というのはつまり一番多く喋っていたというだけで、会話はかなり平等であった。)かなり流動的だが、それぞれの意見に一貫性があり、他の人の話を聞くという姿勢もあった。その場に居合わせたらさぞかし楽しかったろうな。

いつかも書いたし常々思っていることに、政治に対してあんなに熱くなれる人たちはすごいというのがある。本当に嫌味ではなく心の底から尊敬する。だけどそれは、ほんの短いロウソクの火なのだろうなと思う。いまの世の中は政治にすべてを託しすぎている。私が政治に興味がないかと言えばそういうわけでは全くないのだが、政策がどうとか安倍政権がどうとかっていうのは、物理的な話でしかないと思う。もっと夢見たっていいじゃないか。私の思い描くユートピアには私自身はきっといないし、ぜひそうであってほしいと願う。
ポジティヴなユートピアの実現は、無理じゃないと思う。可能だと信じていたい。対立がなくてはそれはできないと思うのだけど。しかし与党と野党にしても、喧嘩中のカップルにしても、同じ方向を向いて叫んでいるだけじゃないかと思う。そんなものを誇らしげに見せつけられても困ってしまう。無気力しか生まれない。いがみ合うときは、いつもポジティヴなユートピアを胸に(これは忘れちゃいけない)、向かい合ってしなければいけない。そして私たちは仲間よねみたいな思い込みはやめたい。私が慕う多数の彼や彼女はこれからも「ひとり」であってほしい(独身でいろという意味ではない)し、社会は「ひとり」たちの集団であってほしい。ひとりは素敵だ。

ある物語を思い出した。というよりこの物語はいつもずっと心の本棚の一番取り出しやすいところにある。児童文学作家であり私が最も好きな作家である岡田淳さんの「〈夢みる力〉」というお話だ。ストーリーについてはここでは書かないが、あのお話での夢とは果たして何だったのだろうか。私が今言った「夢」というのは眠る時に見る夢と、想像力とかいう意味での夢の両方ともである。たぶん夢は、体験なのだろうなと思い至った。
夢はかなり現実に近いということを最近考えたのだけど、それは夢が体験だからじゃないだろうかと思う。しかし同時に夢はファンタジーでもあるはずで、なおかつそこには何の矛盾もない。まさに夢のようだ…!

結局、ファンタジー(想像)と現実とは、そんなに離れたところにはないんだろう。それぞれが独立(自立の方が表現として相応しいかもしれない)していても分離はしていない。
私はよく「いつか」とか「どこか」とか曖昧なことを言う。だけどこれらの言葉を言った瞬間にいつかどこかに私のファンタージエン(エンデ『はてしない物語』より)が生まれているはずなのだと思う。それを「いつかっていつ?」とか「どこかってどこ?」とか聞く人は、一般的な概念で言う大人というやつなんだろうな。物理的に科学的に数字にして納得したいんだろう。(しかし「大人になって想像力を失った」みたいなクリシェは打破していかねばならない。)とにかく、いつかはいつかでしかないし、どこかはどこかでしかない。

時間とか場所とかの話をすると、私には帰る場所がないといういつも考えているこのことにたどり着く。(結局はすべて繋がっている。)帰るという概念は不自由しか生まない。
それでも私に帰る場所があるとしたらそれは過去だろうと思う。しかもそれは、未来の先にある過去。つまり、「新しい」という感覚を伴う。(過去って具体的にいつ?とか聞かないでくださいね。)鼎談の中で「限界を超える」ということがたくさん話されていた。それに近いかもしれない。「意識の変化」という言葉も何度も出てきたが、この「変わる」という部分にも通じるかもしれない。過去に帰るということは、簡単に言ってしまうと、近代音楽の作曲家であるフォーレが教会旋法を用いたのに似ている。

ところでエンデの『はてしない物語』、私達が手にしている本はバスチアンと同じ、あかがね色の表紙に二色刷りの文字、というだけでもうどきどきしてしまいますね。

タグ: 読書 

2018/11/14 Eさんの店

自転車を漕いで隣町まで行った。日差しは強く日焼けしている感じがした。かなりの向かい風だったし、車通りの多い道でクラクションを鳴らされたりもしたが、どれもあまり気にならなかった。
この間地元の店で会ったお姉さんに教わった店に行くことにした。Eさんという人がやっている店。かなり良かった。秩序など無いが雑然としたまとまりがあった。Eさんはキョロキョロせずとも全てをちゃんと見ていたし、耳もかなり良さそうだった。料理は塩味の引き立て方がとても上手だった。色々な感覚がかなり研ぎ澄まされているのだと思う。愛想がすごく良いという感じではないが、無愛想からはもっと遠いところにいた。いないような立ち振る舞いをする割に、いなければ成り立たない空気があった。Eさんもまた青い炎の持ち主だと思う。冷たいように見えて本当は赤い炎よりも誰よりも熱い。(Eさん‘も’、というのは、私自身もそうかもしれないと考えたことがあるのだけど、Eさんのはもっと青くてもっと強い。星くらい。私はせいぜいガスバーナーだ。)素敵さは場所ではなく人にあると常々思っているのは、まさにここのことだ。場所に人がいるのではなく、人が場所になるということ。友達になりたい。
家に帰ってネットで調べてみた。お姉さんから教わった時は地図を見せてもらい位置は分かったので、事前に調べることはしなかった。(定休日くらいは調べておくべきだったか。でも営業していたから良かった。)「隠れ家的な」「おしゃれなカフェ」とかいったワードがあり、めちゃくちゃ笑った。うわーーと思った。確かにその通りではあると思う。そう思ったらそうなる。というより、そう思ったらそうとしかならないのだと思う。Eさんについても「気さくな方」「優しい」とか書かれてた。話しかけたら気さくに色んな話をしてくれる人だろうなとは思う。私は今日、店の人と客という関係で必要最低限しか話さなかったけど、ネット上のその表現はかなり的を射ていない気がする。私がEさんの立場にいたとしてこんなふうに書かれたら「屈辱だ!」とか思ってしまいそう。店には客層も無ければ雰囲気も無く、しかしEさんはいた。それでいいじゃないか。ラベルなんて貼れるような場所(人)ではなかった。と、勝手に憤ってみたが、Eさんはこんなふうに思わないんだろうな。思い込みは敵だ!行く前にネットを見ないで良かった。しかし、ああいったワードは儲けに繋がるんだろうな~。店が潰れたら元も子もないもんね。
今日初めて行って一時間ちょっとそこにいただけの私があれこれ言うのも勝手な話だ。と、ここまで書いてきて気づいた。店の名前を出さないというのは、私なりのこだわりと勝手な気遣いである。

2018/11/12 カラオケ嫌い

カラオケってやっぱり嫌いだ。歌うのはいいけど、どんな顔で聴いたらいいの?その辺のおじさんが、奢るよ、なんて言った。調子乗ってんのかな。何か歌ってよと言われたから、奢ってもらったししょうがないかという気持ちで歌う。あーーこういう関係、一番嫌い!!!嫌!お酒の席で、調子乗ってんのかなんて言うツッコミ自体が間違っているんだろう。これからはそんな時代じゃなくなっていくといいな。きっとウケがいいだろうなという歌い方をした。だけど、それは私がいつもひとりでピアノの前で弾き語りする時とか、車で歌ったりする時とは全く違っていた。これでいい?ウケは良かったんだし。多分何も響かないけど。響く必要もない。人間にはみんな何かしらの素質があるんだろうなって考えていた。あの人はメンヘラの素質、あの人は執着の素質、あの人は教祖の素質……私はきっと浮かれる素質。この辺まで考えて、ああ、分類とかいう一番嫌いなことしてる!と気がついた。ラベルなんて貼ってしまって。全く。もう、落ち込むべき時、怒るべき時、悲しむべき時にそうできなくなってしまった。共感もできない。いつでもアハハ可笑しいウケるって思っている。医者に行ったって病気とは診断されないんだろうから、ふざけている。どこかの誰かに怒られそう。(?)アハハ…!4軒目行こうとしたけど、日曜の夜はどこも早目に切り上げてしまっていた。だから4軒目は珍しく家で。先日三島で買ったチットラッツを飲む。あまい。ちょっと気持ち悪くなってしまった。こわい。なぜか今すごく涙が出てきた。酔ってるのかしら。でも忘れられない。いつだって記憶は無くならない。どうして泣いてるのかしら。このお酒にあるのは、利尿作用ではなく、利涙作用??涙が止まらなくなった。しゃくり上げるやつじゃなく、しくしく泣いている。今日はたくさん散歩してたくさん飲んでとってもいい日だったのに。声が聞きたい隣で寝て欲しい抱きしめて欲しい☆して欲しい髪の毛くしゃくしゃに撫でて欲しい果てしなくて怖い。わがままでごめんなさい!早く太陽が昇るといいな。

2018/11/09 冷たいジュースが明日には

チョコチップクッキーがもうない。生理は来ない。ピルを飲むと太るというのは本当だろうか。そんな事を気にするのなら、チョコチップクッキーを毎日食べるのをやめた方がいい。アラームをかけずに寝て起きたら10時半だった。下手なギターを少し弾いたが、いつも以上に下手ですぐやめてしまった。レトルトのカレーはジンジャーが効きすぎていて喉が痛くなった。それだけで疲れてまた眠った。15時にようやく起きると、雲の隙間から光が射して天国かと思った。バタバタと仕事に行く準備をした。首のホクロが見えるようにバッサリ切った髪は、少し伸びていまいちキマらなくなった。美容院は好きじゃない。そういえば私は病院も苦手だ。B(I)YOINという発音が嫌いなのかもしれない。ようやく仕事に取り掛かったところで、不備があった。1時間くらいぼんやり仕事のフリをした。明日にはなんとかしなくちゃいけない。今日も会いたい人には会えない。思い込みも執着も敵だ。私たちの関係に於いてこのことは、全くもって正しさしかないのだけど、そう思えば思うほど悲しくなる。何も聞くことはできない。だから夢の中の可愛い私は、もう抱きしめてくれないの?などと尋ねるのだ。ぼんやりしていると胸の下の水をうまく拭き取れない。下着をつけてから、ああ今日も駄目だったなと思うことがある。今日も駄目だった。お風呂あがりに冷たいジュースを飲んだ。ジュースのせいで今もお腹の奥深くが冷えている。この冷たさが広がって明日の朝にはすっかり冷たくなっていたらいいのに。こんな日でも私はすっかり浮かれてはしゃいでいる。もうずっと酔っ払っている。こんなはずじゃなかった。私のくだらない言葉は、鍵のついていない箱に雑にしまわれていく。

2018/11/07 喋れなくなる

ミルクは使わないんだったわよね?そう言ってもらえる位には覚えてもらえている。外国人の男が絵を売りに来た。ママは一通り見てすごいわねぇと褒めて、でも遠慮するわと言った。男は強めの香水の匂いがした。客のおじさんは仁丹の匂いだと言ったけど、私は仁丹を知らなかった。男が去ってからもしばらくその匂いは残っていて、一瞬のことだったけどあの時間がまだ漂っていた。テレビに霊松寺が映った。ママは、好きな寺なのよ 毎年行くの とはしゃいでいた。とても可愛らしい。ここに来ればこんなに可愛い人がいる。話はコロコロと転がっていった。同じ話をすることは無くテンポが良かった。軽妙洒脱。プーランクの音楽のようだ。心地が良かった。私も時々相槌を打った。音楽はまだ耳に残っている。会計をして店を出る時、客のおじさんは博物館の展示物を見るように私を見た。遠慮が無さすぎるのではないか。まあ、展示物は見学者など気にしないから構わない。しかし生きているのは見学者の方なのだ。
全て忘れてくれるのなら聞きたいことだらけだ。でもやっぱり覚えていて欲しい。だから何も喋れない。世界には残るものと消えるものとがある。私が誰かを消した時、そこにいないのはその相手ではなく私の方なのだと思う。自動ドアはいつも、私にだけ開いてくれないんだよなあ。

2018/11/05 タイムトラベル

ああ、あの日に戻ってきた。神戸の街。あの日はとても素敵な一日だった。全てを思い出した。いや、本当は思い出したのではなく、ずっと覚えていたのかもしれない。懐かしくはなかった。懐かしめるほど恥を捨てきれていないのだと思う。私はまだ若い。7年半ぶりに会う友達とは、つい昨日も同じ教室で授業を受けていたような気がした。神戸の街は美しい。山があって港もある。人も良い。あの日の宝石も埋め込まれた土地だ。神戸での私は多分けっこう可愛かった。夢の中みたいに。夢の中ではいつも、私は可愛い。神戸の街で私はかなりモテた。
金閣寺に行くという行為はかなり俗っぽい。行ってからそれに気付いた。遣る瀬無い気持ちで足早にまわって出た。龍安寺はかなり好きだった。庭をしばらくぼんやりと眺めた。水の波紋だろうかと思った私はかなり面白味がない。しばらく考えてみたけれど、考える事でもない。龍安寺はかなり良い場所だという、それだけで良い。
どうしてももう一度静岡県の道を車で走りたかった。地元の道にそっくりなのだ。そっくりどころではなく、知っている場所にいるような錯覚に陥る。今回もそう思った。天気すらあの日と同じだった。静岡で借りた名古屋ナンバーの車を少し強気に乗り回した。(偏見である。)寸又峡の駐車場のおじいさんは、到着した時に良い旅だねと言ってくれた。帰る時私を覚えていて挨拶してくれた。明日には忘れてしまうのかもしれないけど、嬉しかった。いつの日にも、どこかで誰かが私の事を思い出してくれたらいいな。誰にも思い出されない日があるのは寂しい。邪欲だろうか。…思い上がって生きていけばいいんだ!
三島の喫茶店は禁止事項が多かった。パソコンは使用しないでくださいと書かれていた。古き良き喫茶店という場があり確かに素敵だったが、人為的だった。レシートを渡された。余りにちゃんとしている。秋晴れがよく似合う。三島の街もその喫茶店と同じだった。オシャレ(?)すぎるのだ。もっとよく知れば、素敵だと思えると思う。嫌いではない。
東京は人が多い。知人も多い。東京では一番可愛くいたいと思うのに、東京にいる時の私は一番可愛くない。怒りに共感する事ができなくなってしまった。幸せならいいんじゃない?という言葉はその通り過ぎて何も言えなかった。しかし一体、幸せとは何だろう。神戸での幸福と、東京での幸福は、かなり違うのだ。どちらを信じればいいのだろう。そこにいるのは誰なのだろう。愛していいのだろうか。もう気付かないふりを止めなくちゃいけない。
私に帰る場所はなく、ただ家のあるこの場所に戻ってきた。その日の午後は仕事をしたが、旅の続きのようだった。時間の中を歩く。いつだって散歩は続いていく。

タグ: 旅 

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