雨やどり


管理人室 -- 日記 -- 2022/07
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2022/07/27 心からのエビのスタンプ
2022/07/18 おーい
2022/07/17 架空の球
2022/07/12 眠り

2022/07/27 心からのエビのスタンプ

かなり憤慨しております。良いものに対して良いと言わないせいで、中学生たちは何が良いものなのかいつまでも分からず彷徨っている。それだけならまだ救いようがあるが、良いものに対して悪いと言う。わからないのならわからないと言えばいいのに。そして、なぜか中学生たちはその言葉を信じてついていく。「言われたからやる」癖が、かなり強くついてしまっているからだろう。良くなっているのか確かめたり疑ったりしない。そもそも、言われたからやるだけで、良くしようという気持ちがあるのか不明。でも、みんながんばっている。一生懸命がんばっている。がんばって、言われたことをやっている。その姿を見るにつけ、本当にかわいそうだと思ってしまう。かわいそうだなどと思うのもかわいそうなのだけれど、本当にかわいそう。音楽云々以前に、教育者として圧倒的に力量が足りない。そういう人たちが教育現場(特に公立学校)にのさばっていると思うと、かなりつらい気持ちになる。
今回、私にはどうにもできなかった。少しは彼らに何か起こったかもしれないと思っていたけれど、表面を少しかすっていただけだった。根は思っていたよりもずっと深い。最初に「憤慨している」と書いたけれど、これは自分自身に対して。限られた時間や関わりの中で、もっとやりようがあったんじゃないかと。そういうことを帰ってきてからずっとぐるぐると考えている。ぐぬぬ。
悔しい気持ちでいるところに、私と同じくそこに関わっていた人から連絡あり。改めなくてはいけない人がのうのうとしている一方、落ち込まなくていい人が落ち込んでいて、心からのエビのスタンプを送った。私も少し落ち着いてきた。

2022/07/18 おーい

昨日の日記の続き。続きというか、誤解を恐れて、言葉を足す。何もせずにいるわけではないから「導く」という言葉を使ったけれど、ニュアンスとしては「祈る」に近い。だから昨日書いた「教祖に……」は、「彼らが自由に歩ける場所にいるようになることを祈る」と言い換えてもいいかもしれない。わたしが思っていることは、どちらの言い方でも同じことなのだけれど。
教育について思いを巡らすにあたって、わたしが必ず考えるのが、J.S.バッハのことだ。ピアノを学ぶ人なら絶対に通る「インベンション」や「シンフォニア」で、バッハはいろんな作曲法を示した。ひとつのモチーフからどう展開させていくのか。二声あるいは三声がどう絡み合っていくのか、あるいは独立していくのか。これらのクラヴィーア曲集は、作曲法の学びの手助けの役割がとても大きい。
ちょうど「学び」という言葉が出たが、教育を考えるならば、当然、「学び」についても考えておかなければならない。学びとは、一言で言ってしまえば「先人たちのしたことを知る」ことだと思う。知ったうえで、その意味について考える。音楽で言えば、それこそが表現なのである。ただの技術の提示ではない。このとき、私たちはとても自由だ。たくさんの道があることを知ったのだから、好きな道を歩いて行ける。
そして、J.S.バッハの教育家として真にすごいところは、自由に歩ける場所まで来た彼らに、新しい道を歩かせたところだと思う。彼は息子たちの教育にももちろん力を入れていた。次男のC.P.E(エマヌエル).バッハは、当時、作曲家としての名声が高かった。父J.S(セバスチャン).バッハは、むしろ、のちの時代にようやく作曲者として評価されたのだった。エマヌエルの音楽はバッハのものとは全然違う。次に来る時代の先駆けとなり、かつ大きな影響を及ぼしている。それに比べてセバスチャンの音楽は「古い」ものとされていた。形式ばっていて、特に晩年のものはあまりに緻密で難解すぎたのだと思う。今はそれが評価されているわけなのだが。エマヌエルが新しい道を見つけられたのは、セバスチャンの示した道とその道の良さをよく知っていたからだと思う。セバスチャンの道が悪いものだったからではなく、セバスチャンの道がすばらしかったから、自分でも新しい道を作ろうと思ったのではないだろうか。

今日は、高校生たちのNコンだった。ピアノ合わせで行ったのは5月から全部で5回だけで、一本道を同じ速さで歩き続けていた彼らが、自由に歩けることを知ったかどうかわからない。だけど、今日、一緒に三善アクセント(三善晃先生がよく使うので合唱界ではこう呼ばれているこれ→<>)ポーズで写真を撮れたことがうれしかった。少なくとも、自由に歩きだせる場所があることには気づいたっぽい。わたしがそこにいることにも。
J.S.バッハは、彼自身がどこにでも歩き出せる場所にいて、それを音楽で示したのだと思う。わたしも、わたし自身がそういう場所にいつづけるしかない。教育家としても、自分のためにも。その場所から、おーいって手を振るかもしれないけれど、こっちへおいでとは言わないでいたい。キャッチボールしたり笑い合ったり見つめてみたりしながら、わたしはわたしでここにいる。わたしがそういう場所にいられなくなっている時には、誰かがおーいって手を振ってくれるといいな。高校生の彼らはすでに、わたしにとってのそういう存在になってくれているかもしれない。

さいごに、日記らしい日記。わたしが高校生の頃お世話になった先生3名に久々にお会いして、とてもうれしかった。帰り道、前の車のナンバーが2525(ニャゴニャゴ)で、後ろの車のナンバーも2525(ニャゴニャゴ)だった! Nコン後の個人的な恒例になりつつある宇宙一おいしいアイスクリーム屋さんのアイスを、今年も食べに行った。
今日の日記は、結局、昨日とほぼ同じようなことを言っているだけになってしまった。ただ、昨日はわたしの態度について、今日は彼らとわたしの関係についてを意識しながら書いた。

タグ: J.S.B 

2022/07/17 架空の球

中学生や高校生の集団と関わるのはとてもおもしろい。家の教室ではひとりずつと関わることが多いから、それとは違ったふうに関われるのもおもしろい。ひとりでいる彼らと複数人になった彼らは違う生き物みたいで、ならばわたしはどう関わろうかと考えながら、みんなにいろいろ聞いたり話しかけたりしてみている。彼らと関わるとき、わたしはもう中学生あるいは高校生ではないから、彼らと同じ立場で関わることはできない。もしも同じようなつもりでいたとしたら、(邪魔な大人……)としか思われないだろうな。わたしが中高生なら絶対にそう思う。
いろいろな関わり方がある。その関わり方が良いものかどうかよく考えられたものなら、どんなふうに関わってもいいと思う。中学生や高校生の集団と関わる場面で、わたしが教育家を自覚しているとき、どう関わるのが良いだろうか。どこまで示していいのか、どこまで導いていいのか、ということはこれまでもいつも悩んでいた。しゃべりすぎたんじゃないだろうかとか、何もわからない状況のまま放ってしまったんじゃないだろうかとか。ようやく今日、(ここまでだ!)と思える瞬間があった。忘れないうちに日記に書いておくことにする。

「教祖にならずに、彼らが自分たちで進めるところまで導く」。そんなの当たり前じゃん、と思われるかもしれないけれど、この塩梅がけっこうむずかしい。
彼らがまだ何も見ていないときは、指をさす。そこに何かがあることに気がつく。
彼らがまだ何も考えていないときは、一緒に考える。考えるということを知る。
そして、一番むずかしいのが、彼らが考えているふうで本当は考えていない(考えが浅い)とき。今の教育現場にいる大人たちは、驚くほど確認や否定をしない。そういう決まりでもあるのかしら。そうだねと言ってその方向で進める。だから誰も何も疑わない。本当にそうなの? と確かめない。大抵、そもそも大人たちが考えていないから、なのだけれど……。わたしはわたしで苦しみながら答えを出しておく。そのうえで、なるべくたくさんの「?」という球を投げる。いろんな投げ方をする。ひとつの投げ方だけをすると、投げる方法はひとつしかないと思われてしまうから。最初はうまく取れなくても、いつしか取れるようになって、そのうちその球を投げ返してくる。わたしはその球を取れないときもある。取らないときもある。いつまでもわたしだけに球を投げているのではなく、今度はわたし以外の誰かにも球を投げている。その誰かがちゃんと受け取れるように投げる。どうやって投げるのがいいのか、彼らはその時々で考える。誰かが受け取らなかったら、なぜだろうと考える。そうなったらわたしはもういなくなっていいし、みんなもわたしのことは忘れていい。
みんな、当たり前のように本物の球を投げることができるけれど、きっと、むかし誰かが教えてくれたのだ。でもそれが誰なのかは覚えていない。架空の球も同じだ。当たり前のように投げることができたらいい。忘れられた誰かをやるのが、教育家としての務めだと思う。それを、彼らに信じてもらえるように、しかもさりげなくやるというのが、むずかしくも楽しいところ。友達としては覚えていてほしいもんね。そうじゃなきゃ、ちょっと寂しいから。

2022/07/12 眠り

おとといの夜は、おなかが痛すぎてほとんど眠れなかった。生理痛がどんどんひどくなっている。もともとそんなに重いほうではなく、普段から薬を飲む習慣もなく(最後に薬を飲んだのいつだろう)、ひたすら耐えた。苦しかった。ようやく外が明るくなってほっとした。
昨日の夜は、なんとなくだらだらしつつ考えごとをしていたら、まったく寝つけず、目をつぶってもぐるぐるして、ほとんど眠っていない。寝よう寝ようと思っているうちに朝が来て、絶望的な気持ちになった。案の定、今日は一日中フラフラしていた。
ノウゼンカズラはブラッドオレンジよりも透き通った色のものがきれいだと思う。タチアオイが去年と同じ道端にまっすぐ咲いている。ムクゲも気がつけば咲いている。ネムの木の花がいい匂いをさせていた。明日の朝はきっと、花に囲まれて眠っているところを誰かに起こしてもらう。

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