雨やどり


管理人室 -- 日記 -- 2020/11
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2020/11/23 思い出は待っている
2020/11/22 再び新しく
2020/11/20 信じるということ
2020/11/19 無理だ
2020/11/17 確信・逃げる
2020/11/11 白い本棚
2020/11/06 クリスマスの朝
2020/11/05 二の腕
2020/11/03 人が変わる
2020/11/01 人のことを想う

2020/11/23 思い出は待っている

昨日Eテレで角野栄子さんの番組をやっていて、録画しておいたそれを今朝見た。「自分が気持ちいいものじゃなければボツ」の言葉には強い意志を感じた。自分が気持ちいいことだけをするのはとても簡単だけれど、それが他人や世の中にとってもいいっていうのは、すごいことだと思う。なかなか、ない。
それも、自分が気持ちいいことは世の中のためになっているかと考えるようなものではなく、自分が気持ちいいことと世の中のいいことは同じか、というふうな。ちょっと違う?うーん、順序がないということかな。でも、それだけじゃないような。自分という人間がすてきであるかということを、いつも自然にかわいく考えられるということだろうか。
最近「思い出は待っている」というフレーズを書いたのだそうだ。思い出という過去のものが、未来にある。そう、私もそれを待っているのです。私が思い出を待っているのか、それとも思い出が私を待っているのか。…どっちも、かしらね。

ここ数日やたら甘いものばかり食べてしまうと思っていたら、生理がきた。夏以来。ひとまずよかった。こういう話をするとき申し訳ない気持ちになる。ので、普段人前で生理の話はしない。男の人がいる前で生理の話をする女の人と、生理の話をちゃんと聞く男の人が正直苦手だ。それについてあるいは繋がりの中で何か考えたいというのなら喋ってみればいいけれど、そうでないのなら口にしなくてもいい話題だと思ってしまう。そういうことをペラペラ喋るのは、品がない。
下ネタとかも本当に嫌なので、大学生の頃は「お下品」とたしなめていたら、私の周りの人は(少なくとも私がいるところでは)あんまり言わなくなった。あと、写真撮るときに変顔っていうのも勘弁してほしい。なにもおもしろくない。
口にしなくてもいいことは口にしなければいいし、口にしたほうがいいことは喋ってみればいいけれど、どうしたらいいか分からないことがある。
小声で「こうすると、ポアンアンのにおい。」(岡田淳さん『ポアンアンのにおい』)とか、とっさに「なたじゃないのか⁉」(岡田淳さん『ようこそ、おまけの時間に』)とか、私も言えたらよかったなと思う。「確かめる」あるいは「共有する」ということはとても難しく、だからしないのではなくて、上手にしてみたい。
※この段落は読み飛ばしてください※ それが上手にできずに、寂しい。たとえば、元気じゃなかったり(もしかしたらもう生きていなかったり)疲れていたりするかもしれないことを想像したうえで、想像したことが間違っているほうが自分に都合がよくて、そのことを確かめて安心するために連絡するとか。しかし想像が間違っていたらいたで傷つく羽目になり、それが怖いからやっぱりやめるとか。もはや、たとえば、ではないのですけれど…。この段落はとても俗っぽくて嫌な感じなので読み飛ばしてもらうのが正解です…。と最後に書いても駄目なので、段落頭に書いてこよう。書いてきた。

ブラームスのどの曲を弾こうか迷っていたけれど、ひとまずop.118の後半3曲からさらうことにした。前半3曲はすでに弾いたので。晩年の作品op.116~op.119はいずれすべて弾くつもり。ラプソディも弾こう。たぶんしんどいけどソナタもいつか弾く。11月も下旬。そろそろいろいろな場面でクリスマスの音楽も流れだしていて、心強い。届かないかもしれないけれど、今年もクリスマスには大切な人を思ってピアノを弾けたらいいな。

2020/11/22 再び新しく

千秋楽、すばらしくよかった。貴景勝はとても立派な人だと感心した。「自分の相撲を取りきって負けたら、自分が弱いからで、また来場所出直せばいいと思って決勝戦に臨みました。」インタビューでこう言うのを聞いて、すごくかっこいいと思った。ほかの人をどうこう言ったりそれを理由や根拠にしたりするのは、かっこわるい。世の中のみんながこの場面を見ていたらいいのに、と思いました。応援している高安も千秋楽で勝ち越しが決まり、うれしい。
柿のワンピースを数日前にようやく完成させた。今日、合唱団の練習に着て行った(市田柿が特産の地だったのでちょうどよかった)ら、みんなに「柿だ~」とか「かわいい~」とか言われた。恥ずかしくうれしかった。指揮の先生(好き)に「エビのはないの?」と聞かれ「エビはわたしだから…」と答えたら、笑った後に「そういうことか」となんとなく通じてわたしもニコニコした。

今日はいい日だった。とてもうれしい気持ちにたくさんなった。最近は、とても暗い気分になるときと、今日みたいにとてもうれしい気分になるときがある。どういう時間にどういう気分になりやすいかがわかってきて、なるべく少し離れたところからそういう気分たちを眺めてみるように意識している。できないときもある。今日みたいな気分のときは、浮かれすぎて怪我をしないように気をつけなくてはいけない。

少し前までこの日記はついったから見てくれている方が多かったっぽいのだけれど、今はどうなのだろう。ひとつだけ残してあるついったのアカウントはしばらくログアウトしたままでリンクも貼っていない。たんぶらとかはてなとかノートとかほーむぺーじとかのみんなの書き物はブックマークしてあるのでときどき覗いています。
特についったはどうしても目が回ってしまうので、やめることにした。そうしたら、みんなが元気かどうか想像したり、その想像力をもって私の生活を送ったりすることがいくらかマシにできるようになった。ただ、たくさんの人を忘れ、たくさんの人に忘れられてしまったと思う。私がすてきだったら忘れられることはなかったかもしれない。だから、私がすてきになって再び新しく出会うしかない。長い道のり、しかも辿り着くかわからない。今はただただ心細い…。そういうときは、たとえば今日の貴景勝の言葉や小さい頃から読みつづけている本を思い出して勇気にしてみよう。

2020/11/20 信じるということ

私たちはふたりで飲みに行ったり、浴衣で花火を見に行ったり、先のことをよく話したりした。そこに具体的なことは何もなく、ただ仲が良かった。はずだった。
彼は大学院にすすみ、私は大学4年生になった。ある時、駅前の横断歩道の信号待ちで、「卒業したらどうするの」と尋ねられ、「地元に戻って働く」と答えた。ずっといろんな方法を考えてはいた。だけど急に聞くからとっさにそうとしか言えなかった。
それからもしばらく変わらず遊んだけれど、私が「地元に戻る」と言ったことは取り返しがつかなかったみたいだ。何も約束しないまま、お互いにいよいよ忙しくなってからはそれぞれにいろいろを忘れてしまった。

ある人のことを思い出す時、その人はいま私の知らない誰かとハグしているのかもしれない、と思う。それは私がその人のことを信じているということだ。もうあんまり好きではない。私だって、その人と会わない時間にその人の知らない誰かと手を繋いで歩いているかもしれないのだ。
例えばその人が「そういうことはない」と言ったとして、「私も」と返すとする。逆ももちろんあり得る。それを世の中では平等あるいは愛と呼ぶのだそうだ。
何を言ったからどう、何をしたからこう、というのに心底うんざりしている。あの時、信じていたのは私だけで、彼は優しい人だった。さまざまな記憶を思い起こすたびに、誰も私を信じてはくれなかった(好きだったとしても)のだと分かる。

私は冷たい(らしい)。冷たいから、信じてほしいと思ってしまう。「私はあなたを信じているよ」と言葉にしてあるいは目に見える態度で伝えることは、「好きだよ」と言うのと同じくらい邪悪で自分勝手。 こんなだから冷たいとかよく言われちゃうのかな。
分かりにくい、のだろうか。口にしたことや見せた態度にはあんなにあからさまに反応してくるみんなが、何もしないとどんどん離れていく。何もせずに (分かってよ!信じてよ!)と思うことの方が世間では無理なのだろう。せめて、何もしないなりに何も思わないでいられたらいいのだけれど。

2020/11/19 無理だ

やっぱり約束したこと取り消してもいいかな、果たしていない約束があることがとてもつらい 生きていこうという勇気がなくなる 生きていかなければいいのだけれど約束がある限り生きていなくてはいけなく、無理だと思う 無理だ…、約束をやめる想像で持ちこたえる日々。いつか(すぐちかいうち)ほんとうに

2020/11/17 確信・逃げる

目の前にあるもの・いま手にしているもの・覚えている遠くの人を離さずに掴んでいれば、私は幸せになれるだろう。ここで上手に生きていくことが私にはできるだろう。そういう確信が日に日に強くなっていく。だから、逃げることにしました。幸せになりたくない。残った約束の時間を、なんとか幸せにならずに生き抜こう。その時間が終わる頃には、幸せになることがいまなぜこんなにも怖いのか、分かっているかもしれない。

2020/11/11 白い本棚

みんなは友達をちゃんと思い続けていて、思われている友達の中にはわたしも入っていた。それがいま、ようやく、わたしは忘れられ始めている。それを無理に止めてはいけない!存在を消したい欲求でも存在を見つけてほしい反動でもなく、忘れられていくところを当然にあるいは自然に眺めてみたい。わたしだけがあとわずか何人かのことを忘れられずにいるのだけれど、それはそれ。その人たちもまたわたしを忘れていくこととは別の問題。
大学生の頃までのようにおなじくらいの歳の人たちと関わらなくてはいけない毎日は、いまとまるで違う生活だった。面倒だと思うときもあった。それでも、気づかぬうちに助けられていたことも多かったのだなぁ。
子どもたちと関わるのは未来や素敵に満ちていて、わたしはいま、じゅうぶん元気にやっています。でもやはり、わたしがあの子たちよりも大きいことは確かで、「お金をもら」い「教え」ているという事実がどうあがいてもある。それに、子どもは子どもで「自分は子どもだ」と分かっているようだ。自分とわたしとが違うことに気づいている。

SNSのアカウントをほとんど消して、メールやラインはもうあまり来ないし、来たものにはいま全て返信してあるし、外の職場では1年半後には半分を辞めたいと伝えた。できればその1年半のうちにもう半分も(つまり全部を)辞められるようにことを運びたい。何も名残惜しくない気がする。いい感じだ。ただひとつだけ決めていることがあるとするならば、岡田淳さんの読者でなくなることだけは嫌だし、絶対にしないよ。
あたらしい白い本棚が思っていたより早く届いた。そこに並べる本を大事に選んでいる。まだあと3分の1くらい空いているし、いま並んでいる本も時々変えていくつもり。本棚にはキャスターがついていて、たくさんの愛しい本が詰まったそれを持って、いつか旅に出たい。本は手にするとあたたかい。道中、わたしの味方になってくれるはずだ。

2020/11/06 クリスマスの朝

ここのところ調子がよかったのに昨夜は最悪でした。待つって自分で言ったばかりなのに、できなかった。 木曜日はただでさえ気をつけなくてはいけない曜日だから気をつけていたのに、そのあと思いがけずちょっと嫌なことがあっただけで盛大に落ち込んでしまった。 ちゃんと想像しておかなくちゃいけなかったね。これからはもっと気をつけよう。
今日はクリスマスのような匂いがする朝だ。おはよう。嬉しいね。クリスマスの朝だからキラッキラのチーズケーキを食べました。クリスマスツリーを買おうと思う。 金曜日も気をつけなければいけない曜日だから、すごく気をつけよう。先延ばしにしている仕事が山のようにあるのでこれからやります。

2020/11/05 二の腕

好きだったなぁ…と湯船につかって呟いた。次に気がついたとき、とても暑くて、頬に流れる水がどちらなのか分からなかったけれど、いずれにしてもしょっぱかった。すこしまえまでのわたしには思い出がなく何も懐かしくなく寂しいという感情も知らなかったのは、何でもよく覚えていたからだと思う。そのわたしが「好きだった」という言葉を言う日々が来るとは。もう、さっきまで何を好きだったのか分からない。忘れていく道のりは悲しくて寂しい。けれど、苦しくはない。
ほんとうはこういうふうに忘れていきたくはないのに、なぜだろう、割り切れない道を自分で選んでいます。スピーカーの音量はいつもなるべく素数にしている。うまくいかないときは3の倍数で妥協するけれど、必ずそのどちらかにする。柔軟になりたかった。
みんなのこともあんまり上手に思えなくって、いろんなところから逃げています。好きだったことを忘れながらね。友達がどんどんいなくなる。好きだったと思うとき、もうそこに戻れないことよりも、もう同じように思えない方が苦しいのですよ…。最近のわたしは邪悪なので、苦しくなくなりたいと思ってしまう。逃げる以外の道を選ぶ勇気がない。ゥ…
お風呂から上がって、ぼんやり鏡を見ていた。痩せたな。なかなか変わらずにいた二の腕も、ついに少し減ったかもしれない。わたしの二の腕はおいしくてかわいい。この二の腕がずっとかわいくあるといいな。二の腕ちゃんがいつか幸せになりますように。

2020/11/03 人が変わる

場所が変わると私は緊張するのかもしれない。人も変わるのだと思い込んでしまう。進級してクラスメイトと担任の先生が変わった小中学生の頃から抜け出せていない。
昨日は、新しい場所でみんなが思っていたよりもいつものみんなだったことにとても安心した。ありがとう。プリンターを見て電子レンジ!と言ったり、お手洗いの扉をここは何?と開けてみたり、控えめにキョロキョロしたり、音がいつもと違うところから聞こえる!と笑ったり。私は忘れないよ。

「人が変わる」と書いたけれど、そのこと自体に緊張していたのではない気がする。昨日の緊張は、初めましての人と会う時の緊張に似ていた。みんなとは知り合ってからもう何ヵ月か何年か経っていて、お互いのことを分かろうとしてきた日々がある。
まだよく知らない人とどう関わるか。大人になると癖になっていて惰性でそれをする(人が圧倒的に多い)。子どもはもっと自由で、それぞれにいろいろな形があるけれど、かなりのエネルギーを放つ。私がそれを惰性で受け止めることなく、同じだけのエネルギーをかけてきた時間。私はむかしは小さかった大人であり、大きくなっただけの子どもでもある。そういう自覚があるから、子どもでしかなかった時分よりは自分の放つエネルギーをコントロールできるようになった。まだまだ修行が足りないけれど、それでも、癖で、惰性で、するのとは違う。そういう時間を、お互いに分かろうとしてきた日々と書いた。
人と初めて会うということは、これからそういうことが待っているということである。私は小さいころから人見知りするし愛想もそんなになかった。頭ばかり使って何とか乗り越えてきた。こうしたら大人は喜んだり認めたりしてくれる、というふうにね。だから、未知の人たちと関わることにそもそも緊張がある。だけど、そういうことを考えるうちに人が好きだということにも気づいた。気づいてしまったからには、人とすてきに関わっていきたい。そういう時間はときに辛くて悲しくて寂しい。だから緊張もするのだけれど。

ところで、「新しく知りあう人と関わる」という意味ではなく言葉通りの「人が変わる」ことについて、いまの私はそれをとてもうれしく眺めている。場所が変わることは、そのキッカケになるのかもしれない。昨日だって、今まで関わってきた日々は無くなることも変わることもなく、しかしこれまでとは違う私とみんなだった。そのことがうれしい。この日記を書きながらそんな思いになった。さっき何気なく「忘れないよ」と書いたのは、正しく真っ直ぐなきもちだったのだ。

新しい場所ではモノの置き場所もまだ定まらず、どこに仕舞ったかなとバタバタするときがある。 これはどこに置こうかしらと試しに何箇所かに置いてみて、少し離れて眺め、微調整してまた少し離れて眺めたりもする。それらがこれからどんどん馴染んでいく。ときに置き場所を変えながら。楽しみだ。モノに関してはほとんど私の意思でしかない。ああ、そうだね。人はそうではない。

2020/11/01 人のことを想う

未来のあなたたちと仲良くしたいと思っているのよ。それは今仲良くしないということでもこれまで仲が良くなかったということでも決してなく、私たちの未来を「新しい過去」だと思っているということ。これからさきあなたたちが私のことを忘れたとしても、私と一緒にいた時間、わずかに重なっていた空間があなたの味方になったらいいなと思う。そうであるために、私はずっと同じままではいけないのでしょうね。

これまで、変わることをあまりに恐れていた。変わることは無くなってしまうことだと思っていた。だから好きなものを好きでいつづけた。でもそれは、一見だれかのためのようで私自身のためでしかなかった。そういう自覚もなかった。邪悪だね。
この時世、みながいろいろなことに気づきそれぞれに道を選んだ。選びはしたが、何も変わらなかった。まだ変われなかったのだと思う。その様子を黙って眺めて、私ならば変わることができるのだと気づいた。私と、目の前にいるあなたたちなら。ここまで考えてようやく、最初に書いた未来のあなたたちを想うことができた。

誰かや何かのためではなく、私たちの新しい過去を想っていたい。それが私なりの「人のことを想う」ということ。少し補足。新しい過去というのは、本当にいい本は何度読んでも楽しいと思えることに似ている。余計に分かりにくくなったかしら?
人のことを想うのはすてきで幸せなことのはずだけれど、上手にできない時がある。そういう時は何にもしなくていいし、黙っていようね。少し待って元気が出たらまた散歩のつづきをすればいいよ。待つことは、濃い、と思う。

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