雨やどり


管理人室 -- 日記 -- 2020/07
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2020/07/31 夢中
2020/07/28 エビあげる
2020/07/27 約束事をなくす
2020/07/20 読書「海」ほか
2020/07/19 石段でアイス
2020/07/18 散歩のおもい出
2020/07/16 結実
2020/07/12 これで準備は
2020/07/08 休む
2020/07/06 船・海
2020/07/05 インターネット
2020/07/03 738歩

2020/07/31 夢中

お風呂から出てぼーっとしてたら、1時間以上過ぎてた。あちゃ。口の中が荒れてきた。どうやら、寝不足だったりなんだりすると口内が荒れるっぽい。今もへらが痛い。野菜いっぱい食べよう。

都会は知らないけど、ここみたいな田舎で感染したら、社会的に死ぬな…。数日前、近くで感染者が出て、改めてそれを感じた。
8月のレッスン(受けるほう)は、おやすみさせてもらおうと思う。まだ連絡してないけど。
…それで思い出したけど、連絡しなきゃいけないところがあった。仕事ひとつお断りする。7月中(明日中)にしなきゃ。

自宅の教室は小学1年生が多いのだけど、ちがう保育園や幼稚園だった子たちがおなじ小学校になったりして「○○ちゃん来てるの?」と聞かれた。「1年3部(ここらでは組ではなく部と言う)だ」と言われて、わたしも1年3部だったなと思った。ほかにも、教室のそと(学校がおおい)でピアノの話をしているらしい話を聞く。「このテキスト終わったら△△にすすむんでしょ」など。どんなこと話してるんだろう。小学生の頃、学校で友達とピアノの話をした記憶がない。同じ教室の子もいなかったし。
あたらしいレッスン棟、あっという間に屋根ができた。見るたびに(屋根だ!)と思う。

さいきん、チューリップ柄のギャザースカート、summer rose(白地)のフレアスカート、葉っぱのワンピースをつくった。布が届いたら、ブルーのノースリーブワンピースをつくるよ。かわいい布が多すぎて困る。柄物もいいし無地もいい。刺繍に手を出しちゃいそう。
やり出すと夢中になりすぎちゃうから気をつけよう。夢の中では夢だって気がつけないものだけど。夢から覚めているときも、夢かもしれないって思う癖をつけておけばいいかや。

2020/07/28 エビあげる

疲れることががんばって(?)いることの証になるわけじゃないけれど、疲れないように調整するのは甘えかしら…とふと思った。ただ、少し前、今までわかっていた(と思い込んでいただけかもしれない)ことが急に何もわからなくなり、エネルギーを使いすぎて死にそうだったので、それはそれでよくない気がする。疲れないように調整できるだけまだいいかもしれない。
慣(馴)れていくことが怖いという気持ちがある。何についてどうやって考えるかということもあるな。会っていない時に考えたことを、会ったときに言うかどうか、とかも。

日曜日は合唱団の一日練習で、駒ケ根の山奥に行った。高速なら70分、下道なら80分。もちろん下道で行く。指揮の先生のことが好きなので、なにかとへらへらしてしまった。人と合わせる音楽は、ひたすらに楽しい。こういう時間があると、ひとりでピアノを弾いている時間は孤独だなと思う。孤独というか、たとえばさみしいとかいうより、じぶんのことを殺したくなったり、遠すぎるみんなことを忘れちゃいそうになったりする。
浮かれている時の浮かれ方がひどくなってきたと思う。浮かれていたことに気がつくとしばらくポーっとする。だんだん、ポーーー~~~・・・・・・という気分になる。

オバケが出そうで急に怖くなって泣いたので、このまま寝ます。

2020/07/27 約束事をなくす

勝手に幸せになれない人がいる。働いてお金があること、好きな人と結婚すること、ひとりで自由に生きること。幸せは、定まらない形で無数にある。どこかが伸びればそのぶん別のどこかが縮むように、世はバランスを保っている。世の中が幸せに溢れているのは、縮む部分を担っている人のおかげなのかもしれない。
私は勝手に幸せに生きていくはずの人間だった、と思う。今は違う。だから、愛しい人に勝手に幸せになってほしいと、願い祈った。しかし、どんなに願ってもどんなに祈ってもそれは届くことがなく、だからこそ余計に愛しくなる。私が勝手に幸せに生きていけないのは、勝手に幸せになれないその人が愛しいからで、この願い(祈り)は私の勝手なものだ。だから、もちろん届くことはない。
ならば、私も縮む部分で素敵に生きていけばいい(勝手に幸せにはなれなくても、素敵ではいられるし、勝手でない幸せならあり得るかも)じゃないか。そう思ったのだが、寂しさに耐えられる自信と強さがまだない。いっそのこと、わたしはわたしで勝手に幸せになればいいじゃないか。そうも思ったが、この愛しさを忘れ去る勇気もまだない。もうすっかりどうしたらいいのか分からなくなってしまった。せめて「まだ」と思うことで保たれている。
気がつくと夢の中にいることがしばしばある。6月、歌をつくった。7月上旬、絵を描いた。7月下旬、服をつくった。こういう時はかなり気持ちが高揚している、気がする。大したものは出来上がっていないけれど、何かをつくることは気が狂いそうに楽しい。怖いのは、夢中になっている状態に気がつく瞬間だ。こんなことをしても、結局、私には何もできないのだという絶望。勝手に幸せになることも、勝手に幸せにならないこともできない。
それで、よく考えて(考えやめなかったことだけが私のこれまでの人生の成果だ)、ある決意をした。10年で約束事をなくそう。10年かけて返す融資を受けることになるからそれに合わせたのだが、10年、少し長いがいい頃合だと思う。そう考えたすぐあとでふと「もいっかいくらい、ねずみの年賀状を出したいな」と思ったせいで、12年に伸びた。こういうのも約束事になってしまうから、気をつけなくてはいけない。あと12年で約束事をなくす。これが私の決意。服をつくったのは、浮かれていたのもあるけれど、約束事をなくす一環でもある。髪は自分で切る。乗り物には必要な時しか乗らない。あとはなんだろう。
約束事がなくなった私がどうするかは、秘密。具体的にきちんと思い至っていないということもある。でもそれは、約束事がなくなっていく12年間に考えればいい。

2020/07/20 読書「海」ほか

井上荒野『あたしたち、海へ』: 海って名前いいな~。しんどいね。目を逸らせないだろう問題(ありうること)への嫌悪を強く感じる。しんどい。しんどいけど、こういうのを読んでひたすらにしんどくなるのが、読書というもの。それがいいのか悪いのかはわからないけれど、いまはいいことだと思う。

ロバート・ウェストール『海辺の王国』: 児童文学。この情景、戦争のなかではなくもっとファンタジーな世界観のなかにあってもいいんじゃない?と思って読みすすめていたけれど、最終章で覆された。この最終章、トラウマになりそうなほど苦い。すごいな。こういうラストを書けることは、ものすごい勇気だと思う。読むのにもかなりエネルギーが要る。

コマツシンヤ『午后のあくび2』: 漫画。5月に予約購入していたのが、7月に入って届き、とても嬉しい気持ちで読んだ。あわこさんはたくさん本を読む(途中でよく居眠りをしている)し、よく歩く、いいひと。床に座ってローデスクの下で脚に毛布かけるやつ、わたしもよくやるなと思ってニコニコしちゃった。あと、借手さんの(ほんとうの)猫かぶりがかわいい。わたしもときどきぬいぐるみを頭にのせて本を読む(頭の上にものを乗せると集中力が増すらしい)けれど、それとフォルムが似ているなと思った。わたしは仕事と仕事じゃない時間の境目がないような生活だから、仕事帰りに、とかいうのにちょっと憧れる。「働く」という意識が薄いのかもしれない。それでも、していることに対してお金をいただいているのだから、それはそれで、しかし割り切るようなこともせずにいたい。作品の内容とはあまり関係がない話になってしまった。

畑野智美『海の見える街』: リアルすぎてきつかった。とはいえ、体験したこともないし身近な話にも聞かないような出来事ばかりだ。そもそも海が身近でない。だけどやっぱり現実的だった。この人のことあんまり好きじゃないな、などと感じるあたりがリアルだったのかなぁ。

小手鞠るい『愛を海に還して』: 先が気になって一気に読んだ。読み終えてから「恋愛小説」だったのかと気づいた。

タグ: 読書 

2020/07/19 石段でアイス

午前中仕事をして、午後は峠を越えた先の街まで用事で行く。高速に乗る必要はない。ガソリンが半分を切っていたので、エアコンをかけたくなかった。山に入るとぐっと気温が下がる。いつもなら用事ついでにすこし遊んで帰るが、今日は直帰。なぜかものすごく眠くて、ぼんやり車を走らせた。信号もない峠道でアクセルを踏み込み過ぎてはっとしたりした。
16時半過ぎに家に戻り、コンビニまで歩いてアイスを買う。公園のお気に入りの石段で食べる。すっかり草や花が生い茂っていて、夏はいつもこんなだったかしら、いや草刈されていたよな、と思う。途中で17時の鐘が聞こえた。イ長調の夕焼け小焼け。
明るいうちにお風呂に入り、ごはんを食べたところで、扇風機をかけながらとうとう寝落ちた。目が覚めるとまだ少し明るさがのこっていた空もすっかり暗くなって、扇風機が要らないくらいいい風が窓から入ってきた。

こういう生活は、続いていく。勝手に終わりにしてはいけない。世の中のことを思っていたのか、誰かのためなのか、自分のためなのか、何のためでもないのか、いずれにしても、生活にはおしまいが来るのであって、それを簡単に操ろうとすることはあまりかしこくないと思う。ひとつことわっておくと、特定のことについて言っているわけではない。時が時なだけに(追記:このころ芸能人の自殺が流行したのです。その発端となった(?)H.Mさんのことが念頭にある。)なるべく抽象的に話したいと思っている。
終わりということが何を意味するのか、それについてすら私は答えを見いだせないまま、しかし、必ず終わりが来ることを少しだけ長い目で見て、そこに向かっていこうとしている。具体的に分かってはいないが、それなりに時間がかかることと、何かが変わることだけはたぶんそうなんだろうなと思い至った。変わること。これについて、もう少し積極的になってみたいと思った。できたら、いいほうに。それは私自身のことだけでなく。

この日記は、あとで自分が見て何かを思ったり考えたりする羽目になればいい。

2020/07/18 散歩のおもい出

夏に知らない街を散歩していると、山の子には暑すぎて、ときどき疲れてしまう。それでよく、ふらりと公園に立ち寄って(いつもいいタイミングで公園は現れるのである)、ベンチか芝生があると少し眠った。たいてい夕方だったと思う。夏の夕方、太陽はまだ木陰をちゃんとつくってくれる。ベンチのときはリュックを前に抱えて、芝生のときはリュックを枕にしてゴロリとした。そのまま20~30分眠る。いまおもうとあまりに無防備だったなと思う。

大学3年生の夏まで、大学の寮にいた。寮と言っても、ごはんがでるわけでもなく、大学からは4駅(準急・急行なら1駅)のところにある。共用の談話室と台所、お風呂、トイレ、洗濯機、アイロン台があって、おじちゃんとおばちゃんがいる。元気かな。アイロン台は、畳の部屋にあった。わたし以外がそれをつかうのを見たことがない。門限があって、外泊には前日までに届を出す。23時(だっけ)に点呼があるのを、1回だけ寝ていてすっぽかした。それ以外きちんと出ていたのはすごいことだと思う。よく友達と3時くらいまで話していたが、そういう日でも朝は6時に起き、ラジオ体操しておべんとつくって、6時52分には寮を出た。そうすると、通勤ラッシュ前の電車に乗れる。このころのわたし、ほんとうにすごい…。
電車に乗れば4駅、歩けば5km弱。歩くにはいい距離。もともと丘だった地を切り開いたのだろうか、坂が多い。かなり急な坂もあるが、そこが推せるポイントでもある(坂好き)。大学の門を出て右に行くと駅。歩くときは左に曲がってから住宅街のある坂道を登っていくのがいい。あの道順、いまでも覚えているだろうか。(目をつむってみる。)あぁ…。その坂の先の景色、断片的にしかおもい出せない。だけど、歩いてみればきっとおもい出すだろう。そのくらいは親しんだ道だ。

寮がなくなることになり大学の最寄り駅でひとり暮らしになってからも、その駅まではときどき歩いたし、ついでにその先まで歩いた。ほかの道ももっと歩くようになった。もともと乗り物が苦手なのもあるが、歩くのは楽しい。何かを見たりどこかに寄ったりしながら歩くのもいいけど、あの頃はただひたすらテクテクやっていることが楽しかった。ただ、趣味を聞かれて散歩とか歩くこととか答えても、いまいち通じないのがちょっと寂しかった。
研修旅行でウィーンに行った時も散歩好きを発揮してしまったが、20人ほどのなかに思いがけず同じくらい歩く人が2人もいて、とても楽しかった。「歩くの大好き」という3人のグループラインは、動きこそしないが今でも残っている。ぜんぜん歩かない女の子を含め4人でハイリゲンシュタットに行ったときは、その子だけバスで、わたしたち3人は歩き、丘の上で再会した。歩いてみるとしっかり山道(トレッキングシューズをはいた人とすれ違い挨拶した)で、思ったより険しく長い道のりだった。そもそも、出だし5分くらい逆方向に歩いていたのもある。わたしたち3人にとっては感動の再会だったのだが、丘の上でコーヒーを飲みながら待っていた彼女は「遅いよ」としれっと言って、そのギャップに4人で大笑いした。(いま鮮明におもい出してニヤニヤしています。)

脚の長い人はずるいと思っていた。わたしは(特にひとりだと)歩くのがはやいのだけれど、背の高いはや足のサラリーマンなどには簡単に追い越された。「歩くの大好き」の3人も歩くのがはやいほうだったのだが、うち2人(つまりわたし以外)はしゅっとした男子で悠々と歩くのがうらやましかった。途中でふと「あやねちゃん、ぼくが2ホ歩くあいだに3~4ホ歩くから足の動きがめっちゃはやくてすごい」と純粋な目で言われ、間接的にちびまたは脚が短いと言ってるぞと思ったが、そういうところが憎めないのである。
誰かと歩くときは、その人がどんなに脚が長くてもどんなに歩くのがはやくても、合わせたくないし合わせないでほしい。待ちたくないし待たないでほしい。いつも同じはやさで歩いているというわけではないから、そのときにお互いがいちばんいい速度で歩けたらいい。それがそろっていたらちょっと楽しい。ずれるから楽しいときもあるかも…。あのときも、同じくらいのはやさで歩いてはいたが、無理に合わせたのではなかった。あのくらいのはやさで歩きたかったし、歩くことは楽しかった。

ふとおもい出した大学2~3年のころの散歩の話。ほんの一部の散歩のこと。このほかの散歩の話はまたいつかどこかで。ところで、H.Mさんの件。ファンだったというわけではないけれど、モヤっとしたショックを受け、考えることや思うことが山ほどある。それで、これらの散歩の話もおもい出すことになった。うん。わたしの決意は鮮やかになっていきます。

2020/07/16 結実

考えるのをやめなかったことが実を結んで、ようやくある決意にいたりました。ぐたい的なことにはまだ考えが及んでいないぶぶんが多いけれど、心持ちがすこしかわった。あかるい絶望(世間とは関係ありません)のなかで、準備はできたと思ったというわけ。

2020/07/12 これで準備は

文章を書いたり、(稀に)歌ををつくったり絵を描いたりするのに、楽しいという気持ちはないと思う。最近では、本を読むのも、楽しいからではないなと思う。物語によって憧れたりしんどくなったりする。そういうのを楽しいと言うのだと思い込んでいたけれど、本当はただその言葉の通りでしかない。
おしまいがきたときに、特に自分でおしまいを創り出したときに、ああもうこれで準備はできた、と思った。そのすぐあとに窓の外を見て、私の青い車が見え、工事中の建物が見え、まだ終わっていなかったことに気づく。10年は長い。だけど、10年後には何ひとつ約束事が無くなっているはずだ。それまでせいぜい腐らずに生きておきたい。むしろ、10年だと思っているから、腐らずに生きていけるのかもしれない。
今は確かに少し落ち込んでいるけれど、決して暗くはない。知らない海を思い出すことができる。氷の溶けない海、月から落ちてきた海、花が流れてきた海。眺めているだけのこれらの海に、足をつけてみることを夢に見ながら、今日もおやすみなさい。

2020/07/08 休む

定期的にしっかり休んだほうがいいかもしれない。休むという習慣がない。中高と吹部でオフがほとんどなかったし、大学生のころもほぼ毎日大学に行っていた。その延長だと思う。…というか、休むって何?なにするの?それとも、なにもしないってこと?
レッスンやその準備をしているとき、会議に出るとき、合唱団の伴奏に行くときやその練習をしているとき、なんかは働いている(そもそも休むの反対は働くでいいの?)として、それ以外の時間について、たとえば、眠ることを休むと言うのか、本を読む時間は休んでいる時間なのか、わたしの場合ピアノを弾くことは休みではないのか、弾く曲によるのか、予定がないことを休みと言うのか、遊ぶ予定はどうなのか、遊ぶと休むはどう関係するのか、休みの日に遊ぶのか、そもそも遊ぶって何なのか、休む時間(長さ)の単位は何なのか、誰のために使う時間かによるのか、人のために使う時間なんてきれいごとだろうか、自分のための時間は自分の何に対する時間なのか、、、なに???なに?何にしても、一文が長すぎた。
休みたいという気持ちや休む必要をこれまで感じずに生きてきたけれど、今日は、休んだほうがいいかもしれないと初めて思った日でした。ただ、休みかた(というかそもそも休みというもの)がわからないので、がんばって休みたい。???
ここでようやく辞書を引くことを思いついて引いてみたけれど、余計にわからない。物事を具体的にしていくことは、体力がいるね。たぶん、いつも同じではないから。

3:33の追記
目を閉じたけど吐き気のせいで眠れずに、しばらく考えていた。誰かのためにという意識もなければ、わたしのやっているすべてのことはおそらく誰のためにもなっていない。雨が降りだした。雨の音がする。さっきまでは降っていなかったんだな。

6:37の追記
目を閉じてたけど、まったく眠れなかったな。わたしたちが聴く雨の音というのは、粒が落ちる音そのものなのか、落ちる粒と粒が当たる音なのか、地面を打つ音なのか、また違う音なのか、どれなのだろう。どれもかもしれない。いろいろな音が混ざって聴こえる。

2020/07/06 船・海

今日の花見。ミソハギ、アジサイ、タイトゴメ、サボンソウ、ネジバナ、ジャノヒゲ、クレマチス(?)、ガウラ、ノコギリソウ、カワラナデシコ、オランダハッカ、ヘクソカズラ、ホウセンカ。前におなじ場所で見たおなじ花は猫目(割愛)しています。

絶望的な気持ちではあるが、不安はない。みんなはひとつの大きな船に乗って、どこかへ行ってしまった。さよならだね~

8・15にレッスンをお願いした。そのときの状況によっては、おやすみさせてもらうかもしれない。行って帰るだけになるかな。海でエビと遊びたいな。…ともあれ、練習。調律したてのピアノは譜読みがはかどる。

2020/07/05 インターネット

色鉛筆は、10本ぐらいを黄色い輪ゴムで束ねておくのがいい。ばらばらに崩して使った後は、元に戻す。使わない時に放っておいても、見苦しくない。机の上がいい感じに散らかってきた。
ずっと森永のチョコチップクッキー(通称チョコチク)が市販のお菓子では一番だと思っていたのだけれど、最近ブルボンのミニ濃厚チョコブラウニーを生まれてはじめて食べて、びっくりした。おいしい!味だけで言えばチョコチクを上回ってしまったかもしれない。が、これまでどんなときも寄り添ってくれたチョコチクを堂々の1位としたい。(なんのランキング?)
これが私の近況。書いていて、とても身近で現実的だと思う。窓の外から雨の音が聞こえて、日が出れば日が出たなと思う。そういう生活を送っている。

東京がいきなり遠い街になってしまった。県をまたいだ移動ができないとかそういうことではなくて、空気を感じられない。インターネットでは恐ろしいハッシュタグばかりを見かけて、それが今の東京の空気なのかと思うと、絶望的な気持ちになる。 そうではない東京を、インターネットは教えてくれるはずだった。みんなどこに行っちゃったのかしら。
絶望的な気持ちと言えば、もうこのところずっと絶望的な気持ちではある。この世の中にあるいいことや素敵なことは、すべて私ができなかったことなのだという絶望。これから私が何をやっても、そういう気持ちは消えないのだろうなと思う。ただ、このことで特別に暗くなっているということはない。こういう気持ちがあるということを抱えて生きていくしかない。
移動の自粛緩和などの話を聞くが、実際、この地域では「引き続き慎重に」と言われている。動き出したという感じもない(これに関しては、そもそも、もとがそんなに動いていなかった可能性もある)。県をまたいだ移動ができないことで、海への憧れが募る。だれもいない海を、勝手に創り出して時々遊びに行く。

2020/07/03 738歩

今: とても、とても、かなしい夢。目が覚めてぽろぽろ泣いた。涙がぽろぽろしていた。起きだして、ツルヤ(スーパー)のたまごパンを食べる。親指と人差し指でまるをつくったくらいのサイズの、カステラみたいなやつ。トースターでかるく焼いて食べたら、大きいたまごボーロを食べているみたいだった。味と形ととろけ具合が、たまごボーロ。このあと10時に調律師さんが来る。狂ったピアノを弾きおさめておこう。

小川洋子『海』: 七つの短編。なんとなく異国ふうだけれど、日本的だなと思う。遠くなく、むしろ身近。必要以上に考えさせられたり、わからされたり(あるいはわかることを強要されたり)しないのが、心地よかった。わたしの海への憧れがそのまま物語になったよう(表題作「海」以外も)。海へのおもいが募る…!

昨日の花見: ホソバウンラン、ソバナ、ハナショウブ(…738歩)

たの幼: 8月号付録のすみっコぐらしのガチャガチャ、つくった。かわいい~~~。カプセルがゆるいのもあり、試行錯誤して補完。本体をつくるところより、こういうところのほうが楽しかったりする。

タグ: 読書 

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