雨やどり


管理人室 -- 日記 -- 2019/08
一覧
2019/08/26 『二分間の冒険』観劇
2019/08/22 私の抜け殻
2019/08/14 頭と耳

2019/08/26 『二分間の冒険』観劇

岡田淳さん原作の『二分間の冒険』を観劇した。原作と演劇とは、もう、違う物語だった。ということを前提に、演劇を否定するわけではなく、原作の素晴らしさをしみじみと感じる。

岡田淳さんの作品といえば、仲間がだんだん増えていくものが多い。仲間が増えることは、ただ賑やかになることとは違う。同じように振る舞うようになることでもない。それは、何かを知って、それについてそれぞれが違うことを思ったり考えたりするようになることだと思う。そのあたりの描き方が、岡田淳さんの作品はどれもとてもいいなと思う。この作品も然り。
演劇では、たしかに躍動的で面白みがあったけれど、ずっと何かに怒っているような悟や、それを爆発させた時にようやくみんなに情報が共有される感じが、惜しい。「みんな」はあくまで「みんな」だった。これについては後でまた書く。

演劇では、ちい、という名の、竜に老人にされても記憶が残った女の子が、悟を導いていく。というか、悟にいろんなことを教えてしまう。原作ではそんな子はおらず、悟が悟自身を見つけていく。悟は、お調子者なだけでなくて、もっともっとかしこくて勇気がある子のはずだ。かしこいというのは、自分の頭でおちついて考えること。勇気があるというのは、試しに自分の足で歩いてみたりするということ。だと思うけど、どうでしょう。

竜の館に着いてからの物語の雰囲気が、原作とは全く違った。ロボちゃんとかいう、うるさくて変なノリのお世話ロボットが登場。カラフルな色の服を着たハイテンションの館長は、はじめから明らかに竜サイドの人間だとわかる。
原作で、館に着いて2日目、悟が太郎に言うセリフが、前の日に悟自身が宏一に言われたことと同じだったのがすごく印象的で、悟が何も特別な男の子ではないことをちゃんと描いてくれている場面だと思う。けれど、それ(その場面ということだけではなく、その雰囲気)がなかった。悟は、違う世界から来た者らしく、いつも特別に「みんな」とは違う。「みんな」が当然のように思っていることに対する憤りや不満を、悟だけが感じている。そんな役。
そう、全体的に「気づく」が足りないのだと思う。思い込んでいたことが実はそうではなくて、驚いたり疑問が生まれたりする瞬間がなかった。機会もなかった。その瞬間があるからこそ、「みんな」が「ひとりたち」になる場面が生まれる(原作では、順々に自分の名前を名乗るところ、かな)。「みんな」と括ることで、あまりにスムーズにシンプルに進んでいった。これが演劇というライブのテンポ感なのかしら。

かおりは、悟にもとの世界に戻って欲しくはないのだけど、それでもあなたは戻るべきだと言う。そのどちらの気持ちも伝えられるかおりは強い。特に、戻って欲しくない、のほう。(ここまで、原作の感想。)演劇のかおりは、ちょっと可愛らしすぎたかもね。

原作で、館長は悪役のまま終わる。そして、竜は死ぬ。演劇では、最後には実はいいヤツで、竜も死ななかった。原作で館長が竜を殺すシーンはけっこう残酷で、しかしベストなラストだと私は思う。ベストなラスト。
物語は、すべてがただ優しく終わらないところに、新しい道がある。だからまた戻って来たいと思うのだし、戻って来るためにはまず離れていく必要がある。離れていくことは、本当はもっと単純なはずなんだけど、これは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう。

戻って行ってもいい場所があることは心強い。しかし、物語の中ではこうである。あまりにたしかなものになった世界から帰った悟が「あの世界は、どうなったんだ。」と尋ねたとき、ダレカはこう答える。「もう、ないよ。」物語のクライマックスはほかのどの場面でもなく、私にとってはここだ。演劇でそれがなかったのは少し寂しかったなぁ。
私はいつでもこの物語に戻ってくることができるけど、物語の中で悟は、もうないけれどたしかにあった世界を持っている。別れが惜しくて泣くのは大人(年齢とは関係なく)だけなんだということも思い出すシーンだ。悟がぼんやりつったっている姿が、あまりに自然に目に浮かぶ。

私の原作に対する解釈はわたし自身のそれでしかない。他の人が作ったものを観るということは、他の人はそういう解釈をしていると気づくことだ。正しいも間違っているも無いけれど、今回は私の考えとはかなり違うふうに作られていたので、違和感もあったが、そのぶん新鮮でもあったし、何よりもわたし自身がまた考えてみるきっかけになって良かった。
この演劇はたぶん「みんな違って、みんながそれぞれたしかなものなんだ」ということをテーマにしていた。ように私は感じた。原作に対する私の解釈は、「自分が自分自身であること」がいくつもあって、それが誰かときちんと繋がっていく。世の中には「ひとり」がたくさんいるだけなんだということを、改めてきちんと思い出した。

帰り際、「おもしろかった」「すごかった」と言っている人がたくさんいた。うん、たしかにおもしろく、すごかった。アニメーションや、打楽器が生かされた音楽の感じ。ライブでしか味わえない迫力やテンポ感。すごかった。前の席の大人は泣いていたし、子どもはロボちゃんに笑っていた。これをきっかけに、原作を読んでみてほしい。何を思うのかなぁ。

タグ: 岡田淳さん 

2019/08/22 私の抜け殻

この日記は、泣きながら書く羽目になった。私の抜け殻が風呂場にたまってきている。これを書き終えたら、メールを返そう。今日会う約束をしていた人には、体調がイマイチだと言って約束を断ったのに、ほんとうは気分が悪いだけだ。それもここ何日かずっと。だから愛しい人にもメールを返しもしないで、そうしているうちに再び連絡をくれたのが、嬉しいのだか悲しいのだか分からないが、つらくなって久々にめそめそしている。
書くということは、何なんだろう。
私がいつも言うように日記がラブレターだとしたら、宛名のあるラブレターは何になるのかな。ラブレターに宛名を書くなんて、そんな格好悪いことを私はしたくないのだけど、それよりもできないのだと思う。格好悪いのも、私がやるからであって、他の誰かなら簡単にしかも格好良くできるのだろう。
物語を書くことは、眠って夢を見るようなものだと思う。夢は、より現実的に私たちに親しみを持って接してくれる。だから心地いいのだけど、その場所から、目の前にいるその人から、離れて行かなくちゃいけない、と私はいつも思っている。それで寂しくなるのに、弱い私をさらに弱くしない方法はそれしかない。離れていくこと。離れていこう。離れていくものをつくるためになら、物語を書きたい。
詩を書く人は、共感なんてしないのだろう。それに共感されもしないのだろう。誰にも伝わらないことがあって、ひとりぼっちなのだろう。でも本当は、みんな、共感なんてしていないのに、しているフリをしているのかもしれない。だったら、無くしてしまいましょう、共感を。これでみんな無事、孤独な詩人。
いつも言葉がうまく見つからない。それなら黙っていればいいのに、無理やり違う言葉で言おうとして余計に苦しい。 今日の日記もひどい。そろそろ終わりにしてメールを返します。あ、メールも書きものじゃん。

2019/08/14 頭と耳

7月末からお盆前にかけてよく働いた。私にしては過労気味。体力はあるほうなので問題ないが、精神的にはとても疲れた。今日の日記は愚痴にならないように書きたい。
精神的に疲れたのは、かしこくなくて硬い人たちと仕事をしたからだ。頭も耳も使わなければどんどん使えなくなっていく。それが「かしこくない」ということのひとつだろうと思う。専門的なことが分からないことについては仕方ないし、その部分ではサポートするが、それ以外の問題についてなぜ「考える」をしないんだろうと思う。どうしたらいいのか分からないということを分かっていて、そこでどうして「考える」をしてみようという発想にならないのか。日頃から使ってない頭は、もうそれすらも分からないほど使えないのだろう。 頭と同じくらい、いやもしかしたらそれ以上に、耳を使うことは大事だと思う。つまり「聴く」ということなのだけど、私は「話す」よりも「聴く」のほうがずっと、かしこくなる道だと思う。他人の話だけではなく、誰も何もしゃべっていなくても、自分ひとりしかいなくとも、「聴く」ことはできる。そのうえでうまく「話す」こともできたらいいなと自分自身に対しては思うのだけど。余談。「話す」は、多くの人にとっては言葉を選ぶことなのかなぁ。私にとっては、言葉を探すことだから、とても難しくて、時に何時間も黙りこくってしまう。
頭も耳も使わないと使えなくなることを目の当たりにして、勝手につらくなった。しかも「硬い」と書いたのは、変にプライドみたいなものがあり、こちらとしてはとてもやりづらかった。まさに老害…。老害がきつすぎて、とうとう一度、寝てしまった。軟らかい若い人たちには、この数週間の間に、頭と耳を使うように仕向けて帰ってきた。これからなんとかうまくやっていってほしい。おそらく一年後に再会するとき、どうかまだ、かしこいほうに歩いていてほしい。
結局、愚痴っぽくなってしまった。いやだなぁ。愚痴が嫌いなのは、憤りに共感する役が必要で、その役がとてもつまらないから。

[日記] Page Top