雨やどり


管理人室 -- 日記 -- 2019/07
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2019/07/29 わたしの秘密の花園
2019/07/16 胸がいっぱいで愛しい夜に
2019/07/14 あの頃のまま会ってくれた
2019/07/09 集団に向かない
2019/07/03 2Ⅾ→3Ⅾ→…4Ⅾ!

2019/07/29 わたしの秘密の花園

さとうまきこさんの『わたしの秘密の花園』を読んだ。思いがけず残酷な描写が多く、驚いてしまった。さとうまきこさんと言えば、私にとっては『9月0日大冒険』である。幾つかの他の著書も読んだ。『わたしの秘密の花園』のアキコは、ほかの登場人物とは少し違った。そういう意味での「思いがけず」だ。 アキコはなんとなく冷たくて、意外に単純。これは子どもらしさなのだろうかと思い、読み進めていくが、しっくりこない。かわいげのある子どもという感じでもない。人間らしさだろうかとも思ったが、それも違う。分からない。分からなくていいのだと思う。結局、これはアキコという人物の話でしかないのだと思うのが一番腑に落ちた。この物語において、分かろうとするほうが不自然なのかもしれない。いや、この物語において、だけではきっとないね。
これを読む前に、バーネットの『秘密の花園』を読んだ。名まえがなくともそこに「何か」があることを信じ、考え続けようとする子どもたちを、私はとても逞しく感じた。名まえがないことを分かっていながら「魔法」と呼んだことも嬉しかった。アキコはそれを「自然」という一言で片づけてしまう。私とはまるで考え方が違うけれど、アキコは賢いなぁと思う。ここを読んだときにようやく、これはアキコの物語だと強く思うことができた。物語というよりも日記みたいな一冊だったけれど。
それにしても残酷さやアキコのキャラクターは、少しぎょっとするようなものだった。さとうまきこさんの本の読者の皆さんはどんな気持ちでこの作品を読むのか、聞いてみたい気持ちになった。

タグ: 読書 

2019/07/16 胸がいっぱいで愛しい夜に

一度布団に入ったのだが、胸がいっぱいで眠れない。というのは、小学校5~6年生の頃の学級通信をついに読み切ったからだ。登校日数よりも大きなナンバーの記された最終号を、当時とは全く違う気持ちで(たぶん)眺めた。懐かしむことが好きではないが、このくらい素直に懐かしめるのなら悪くないなと思った。あの頃は良かったというようなことは一ミリも思わない。「一番いいとき」など、あの頃にも今にも、もちろんこれからにも無い。もっと言えば、続いているだけの時間に、あの頃も今もこれからも無い。
ここ数日、いろいろなことに対してどうしていいのか分からず、相談できる誰かもいないと嘆いていた。しかし、落ち着いて考えてみると、なぜ相談なんてしようと思ったのだろう。相談をしてうまく伝わったことなどほとんどないのに。私のことは私にしかできない。しかしそれでも、誰かの存在は、愛しい人の存在は、私に勇気をくれる。例えばツイッターみたいなところや居酒屋や普段の会話の中で、愛しい人を愛しいと言うことは、ない。ダサいから避けているというのもあるし、実のところ恥ずかしいというのが一番だ。だからここは唯一、私が愛しい人に愛しいと言う場所だと思う。私が書く感情の日記は、つまり、ラブレターだし、ラブレターでなくなったら書くのをやめる。前にも同じことを言ったかもしれない。 それにしても、愛しい人のことが愛しい。
悩んでいたいくつかのことは、少し調べてみたり、ノートに適当に書いてみたりしただけで、いい方向に進んできた。結局、やってみるしかないのだと思う。考えてばかりで、やってみるということが私には少し足りないのかもしれない。

2019/07/14 あの頃のまま会ってくれた

ここのところ嫌な夢ばかり見て起きることが多かった。殺されかけたり、愛想笑いして疲れたり。昨夜は久々に幸福な夢を見た。

小学校高学年のころの担任の先生は、当時の32歳のまま、いまの私に会ってくれた。確か中学校に上がってから会ったときには「敬語なんか使っちゃって~」と言われた。そうか、敬語も使えない小学生だったか…。夢の中でそんなことを思い出しながら、なぜかほとんどタメ語で話していた。いまの私は心地よく本当の子どもに戻っていった。
東京にいる男友達は、それなりに私のことを気にかけ、心配してくれている。というのは、いつだったか、私が目の中のコンタクトを落としてなくし、めそめそして彼の終電までなくし、しばらく、とっくに最終便の出たバスのベンチで話した。そして翌日も仕事の彼をタクシーで帰したという事件がある。それ以来、「コンタクト、なくさない!」というのが寂しいときの私の合言葉だ。そんなことがあっても会ってくれるのだから優しい。彼は夢でもいつものように私を少しからかった。
保育園から高校まで一緒の親友は、あいかわらず少し鈍く、しかし誰よりもいい人だから困る。いつだってそうだから、私は自分の悪い性格ばかり思い知らされる気がする。だって高校2年生の冬、プレゼントを持ってきてくれているのはサンタクロースではないと知り、泣いていたのだ。プレゼントを持ってきたのは違うかもしれないが、サンタクロースはいると、彼女と共にこれからも信じていたい。

先生が当時32歳だったと覚えているのは、私もみんなも先生が大好きで、誕生日にはごはんをホールケーキの形にし、コーンで32という数字を作ったからだ。なぜか先生の誕生日には毎年、給食のサラダやなんかにコーンが入っていた。その先生も、いまでは43歳だと思うとびっくりする。でも全然変わらないんだろうなぁ。
先生の夢を見たのは、当時ほぼ毎日出してくれていた手書きの学級通信を最近読み返しているからだろう。ときどきあるクイズには答えがなく、直接先生に聞いていたのだと思う。

それでも一番会いたい人には会えなかった。その人のことを考えたりはした。近くではうまく生きていけないのかもしれないと思う。一番、とか言ってしまうことが嫌だ。

2019/07/09 集団に向かない

子どもは集団に向いていないと感じた。つまり、人間は集団に向かないのだと思う。ひとつの場所でみんなが同じことをする。そういうことにみんながもっと違和感を持っていいはず。なのにその違和感に気付かないのは、広まった名前を疑うということを、大人たちが知らないからだろう。
集団にいられる子どもは、集団に向いているわけでは決してない。そこに仲良しがいるからだと思う。仲良しというのは人じゃなくてもいいし、なんなら物じゃなくてもいい。味方と言ってもいいかもしれない。そうやって世の中とかかわっていくことは大事だと思う。そのかかわりを他の目的とごちゃまぜにして、なぜかそれが効率的で優れた方法だと思い込んで、適切ではない場所に押し付ける。そういう場所ばかりで困る。
私はふだん、「(私と誰かという)一対一の関係×n」という世界で生きている。しかしできることなら、同時に、誰かの仲良しが在る場所を作りたくもある。それはつまり、(私と誰かという)の部分が消された「一対一の関係×n」のある場所だ。今いるこの場所にそれを求めることは、さっき書いたふう(ごちゃまぜにして押し付ける)になりかねないから気をつけなければいけないのだが、そういう場所でなければ私がいる意味がなくなってしまう。ような気がする。そう思いたいのかもしれない。
目的をごちゃまぜにしないために、というかまた少し違う目的を持って、今のこの場所をきっかけに新しい場所を作る、ということも考えている。お店とかそういう形になってほしい。ずっと言っているこのお店の話は、味噌汁の出汁はだいぶとれてきたから、そろそろ具を考えて、味噌を調達しよう…という段階です。

2019/07/03 2Ⅾ→3Ⅾ→…4Ⅾ!

1週間以内に2度も東京に行き、少し疲れた。仕事や用事を済んだらすぐ帰ってくればいいのだが、友達と会いたい。となるとみんなの仕事が終わる夜ということになり、その日のうちに帰れず、ついでに時間ぎりぎりまで遊ぶ。

みんなに会って去っていくのはいつも寂しい。相手が去っていくよりも自分が去っていく方がまだいいのだと思うが、会いに行くのはいつも私ということでもある。公園や道を歩き、すれ違う人やベンチでおしゃべりをする人たちを見て、彼(女)らはこれが日常なのだろうと思う。私は本当はここにはいない人間で、それでも日常ぶって平気な顔をして歩いている。
でもほんとうは日常も非日常もなく、私のごっこ遊びは真実になればいい(なるはずだ)し、そこにいる知らないみんなのごっこ遊びも続いていけばいい。このごっこ遊びは、私たちの事情ということになるのだろう。

事情は平面だという気がする。事情を、なぜだか知らないが、愛や感情と勘違いする人たち。本当になぜなんだろう。それが思い込みだと、落ち着いて考えればわかるはずなのに。
例えば私は、生まれも育ちも田舎のこの街で、大学だけ東京に出、去年の春また戻ってきた。98%の人が「あなたの街は住むにはいい街だよね。東京はいい経験になったね」と言う。結局自分のためにこの地に戻ってきたのだが、住むにはいい街だとも、東京が経験だったとも思わない。もっと立体的に人や物を見られないんだろうかと思う。
それから、付き合う付き合わないとかいう話も、くだらなく、同じことが言える。事情を愛と勘違い。(という思考が時に私を苦しめるのも確か。)

事情と感情があり、それはたぶん平面と立体みたいなもので、2Dを3Dにしていくことが生活だと思う。事情だけが重なるとアルバムの写真にしかならない。(思い込みの)感情しかない世界も、出汁のとれていない味噌汁みたいだし。思い出にならないように重ねていきたい。
先週、庭園美術館のキスリング展に行った。絵は立体的というよりもっと、一つの絵の中にいくつもの違うスピード感があった。芸術は2Dを3Dにしてさらに4Dにまでしてしまう力がある。できるならば、そんな芸術を、生活とともにしていきたいと思った。

思い込みをすべてやめれば、物事はもっと立体的で(さらには時空を超え)面白く、超自然的でかわいいのだと思う。非日常だとか、他人の事情だとか、恋愛だとか、たいていそれらは思い込みだ。
事情と感情の話はまたよく考えたいと思っているので、いつかどこかで。そう遠くない未来に開く私の店についても、出汁のところをきちんと考えなくては、と思いながらいつも疲れて寝てしまう。7月こそは。ひとまずノートを買う。

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