雨やどり


管理人室 -- 日記 -- 2019/03
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2019/03/31 何かが足りない
2019/03/19 腕時計のゆくえ
2019/03/15 客・常連
2019/03/12 川の話と、坂の話
2019/03/07 宛名のないラブレター
2019/03/05 たくさんのレモンが爆発
2019/03/01 バー仮説

2019/03/31 何かが足りない

桜の季節。もうそちらは咲いている頃ですね。目黒川の桜は美しかろうな。去年は散歩した道に、今年は思いを馳せておしまいです。(ここまではラブレター。)
(さて日記。)何とか3月中に日記を書くことができてよかった。最近、新元号が楽しみ過ぎて眠れない。しかし発表されたら一気に興味がなくなってしまうことは目に見えているのだから、可笑しい。知らないでいることほど楽しいことはない。なぜなら、考える余地があるから。
先日、仕事を終え、夜ご飯を食べてから、飲みに出た。初めて行く店に2軒つづけて行く。他の客の話をぼんやり聞いたり、マスターと話したりして、人の存在を大いに感じながらも寂しい気持ちだった。何かが足りない。3軒目は何度かお邪魔しているお店。今日は落ち着いていた。(前はわちゃわちゃしていた。別の日記に書いた。)客は一人。Nさんという。東京から月に一度来ているらしい。30代後半~40代くらいの男性。この田舎にワカイオンナノコ(この場面では私のこと)が生息していることに驚いていた。「どうして一人で飲み歩いているの?」と聞かれ「え?普通に」と(嫌いな言葉を使って)答える。そこですかさずママが「じゃあ、Nさんはどうして一人で飲み歩いているの?」。Nさん「僕は、まあ、普通に。」私とママ「同じ理由ですよ。」これだからこの店は好きだ。それでもNさんはいい人だった。オジサンとは呼べないくらいには。4軒目、ずっと(やばそう…殺されるかも…)と外観から敬遠していたお店に行く。ママとN さんと3人で。おふたりはよく行くらしい。何が良かったのかよくわからないが、とにかく最高に最高のお店だった。必ずまた行く。もう少し頭が回るときに行きたい。この日はすでに少し飲み過ぎていた。
ついおととい、久々に師匠にお会いした。職場の先輩から「そう」「そうね」という口癖を指摘されたことがあるが、師匠のお話を聞いて納得した。知らぬ間にそういうところまで引き継いでいる。そういうところしか引き継いでいないのだとしたらちょっとまずい。師匠がいなければ今の私はない。
さきほど町の小さな文房具屋で色鉛筆を買った。かわいい犬のイラストが描かれた色鉛筆。これだけでゴキゲンである。ゴキゲンぶっている。ほんとうは分からない。ずっと何かが足りないような気がしてならない。ふと、足りないのは「再び」ということかもしれないなと思った。再訪、再会、再現、再起…。この春は、桜と一緒にいろんなものが私のところに来てくれるといい。

2019/03/19 腕時計のゆくえ

腕時計がどこかに行ってしまった。ここ数日見かけていないし、無くて少し困った時はあったが、命に別状はない。

つい先ほどまでえらくはしゃいでいた。いつも忘れてしまう。しかし今度は思い出した。はしゃいだ後には必ず、とてもとても悲しくなることを。思い出したのだからこれでもう大丈夫。
仲良くなったばかりの人とメッセージのやりとりをした。はしゃいでいる時かよっぽど調子のいい時にしかメールやラインを返せない。かかってきた電話に気付きながら出ないことも多い。そういう病気なのだ。と、こんなくだらないごっこ遊びをずっとやめられない。

腕時計はどこに在るのだろう。そこは私の帰る場所なのだろうか。

今日は私の大好きなエビを食べた。それでよく喋った。この世の中はすべて芝居だという気分になった。
人との関係は、続いていくものだと思っていた。しかしもうすぐ、もう関わることはなくなるであろう人たちがいる。またいつかどこかで、と言うのだろうか。先に忘れられるのは私の方だろう。忘れられるのは、自分に責任がある。私は本当に、大した女優だ。

実のところ、どこかに行ったのは腕時計ではないに違いない。

教祖にだけはなりたくない。ある程度きちんとした身なりをして、規則正しい生活をして、綺麗な言葉遣いをしていれば、大抵の人が教祖になれる。信仰することより、教祖になることの方が無自覚で、しかも簡単なのだ。
誰も私の言うことを信じてはいけない。私の言葉は時に皮肉で、意味のわかる言葉はすべて嘘なのだから。

腕時計はどこかに必ず在り、いなくなったのは私だ。そう考える方がずっと自然だろう。何かや誰かがいないことは、つまり、何かや誰かが在るということなのである。

2019/03/15 客・常連

ついさっき2355で、さむせいラヴいりざ…が流れたおかげでとても気分がいい。眠る気にならず、忘却を経た日記を書くことにする。おとといは良い晩だった。もう毎日書くのはやめてしまった。
23歳の誕生日を迎え、しかしそんなこととは関係なく夜の街に繰り出す。
店主の気分次第で、開けたり開けなかったり早くに閉めてしまったりする店がある。灯りがついていたので入る。焼酎は銘柄もわからず、芋か麦かしか情報がない。薄い水割りが出てくる。それでもこの店に来てしまうのはなぜだろう。お通しにかき揚げとサラダ(ポテサラ付き)が出てくる。お通しとは。ちなみに前来たときは焼き魚が一匹まるまる出てきた。
最近、ウイスキーを飲み始めた。お店をやる人に私はいつも注目してしまうが、この日はどのお店でもやたらと客ばかりに目がいった。客によって店の雰囲気はここまで変わるのかと驚く。しかしやはりお店の人の持っているナニカ(たとえば舌とか頭とか手とか)は変わることなく、それがだんだんと客をつくって(育てて)いくのだろう。その結果生み出された常連をどうしていくのか、常連はどう振る舞うのか、双方がわきまえている場所はつよい。
夜が更けてくると、自分のお店が終わったあと飲みに出る人も多い。そんな人たちがこの日に限って集まり、たちの悪い感じになっていた。街の品(ひん)は武士ではなく商人によって決まるのだと思う。だとしたらこの街は最悪だ…。みんな良い人であることは確かなのだが。一杯飲んで早めに出ようと思ったが、隣の人と気が合い、同じタイミングで外に出る。
何を話したのかよく覚えている。よく考えてからものを言う人だった。同調しない時には必ず自分なりの言いまわしを見つけていたし、それがとても的確だった。常連の話を蒸し返すが、どこどこの店の常連のなんとかさんと言うと、別の店の客(!)に通じるのである。なんたるや。なんとかさんは、自分が常連となっていることに満足げであった。しかし隣のこの人は、覚えてもらわないように振る舞い、しかしきっと一番よく覚えてもらえるだろう。いつか(そう遠くないうちに)ひらく私のお店にはそんなお客さんが来てくれるのだと思う。
思ったとおり、母校の先輩であったが、もちろんそれを知ったのは別れた後である。お酒の席でそんな話はしないのがただしい。翌日、「Facebookが、昨日が誕生日だったと言っていますが、ほんとうですか?」とメッセージが来る。その言いまわしとほんとうを平仮名にしてあるのがえらく気に入って、「Facebookの言っていることはほんとうです。」と返した。(笑)なんてつけなくても私が高尚ぶってふざけていることは伝わるだろう。
ちなみに、さむせいラヴいりざ…というのは、ローズである。なぜか三月の晴れた日の缶コーヒーを思い出す。好きな男の子がいなければ、別の男の子に惚れていただろう。惚れやすいのだ、私は。

2019/03/12 川の話と、坂の話

数週間前、図書館で「サーカス」とタイトルに入る本ばかり選んで借りてきた。結局、返却期限までに全て読めず、借りなおした。いつもそうなる。

それらの本のひとつにヒュー・ロフティング『ドリトル先生のサーカス』があった。十数年ぶりの再読になるのだと思う。ドリトル先生物語は小学生の頃かなり読んだ記憶はあるが、内容はほとんど覚えていない。ただ楽しかったことだけを覚えている。いま読み返すと、私の思考の礎のようなものになっていることが分かり、数年ぶりに再会した友達とまるでつい昨日も会っていた感覚がするときのような嬉しさがあった。
ドリトル先生が言う。「あそこに、たぶん、川があるだろう。」なんでもないふとした場面なのだけど、ここが一番好きな場面だ。川を見つけられる人は、たいてい正しい。正しいなんて言葉はあまり言いたくないが、この場面では実際に小川も確かにあった。
以前タモリさんはブラタモリで「川はよく動く」と当然のことのように言った。川はよく動く。私はこれが気に入って、最近よく使う。時空を超えて川を見つける。川にはどうしてこんなにロマンがあるのだろうか。

さて、話はまたドリトル先生に戻る。本の中でかしこい馬は「坂は変化がある」と言った。これは私がずっと考えている坂についての仮説の、ひとつの道しるべとなった。
以前、上り坂と下り坂はどちらが多いか、と問われたことがある。その人の正解は、「登れば上り坂、進行方向を変えれば下り坂なのだから、数は同じ。坂は上り坂でも下り坂でもある。」というものだった。私はどうしても納得できず、「上り坂でも下り坂でもない坂はきっとある。」ということにし、それについてずっと考えている。物理的な話をしたいのでも、詩的な話をしたいのでもなかった。ただ坂について話をしたい。できればあなたと。
本の中のこの場面には坂だけでなく平地も存在している。だから、平地に比べて坂には変化があるという意味でもあるだろう。それにしたって、坂には変化があるという言葉はいい。馬が言ったのもいい。

最近こういう話ばかりするようになって、すっかり独走状態だ。こういう話は、カッコつけているときにしかできない。(カッコつけることの話は、また別の時に。)しかしゆくゆくは、道端でこういう話ができるようになりたい。実際に、ドリトル先生もタモリさんもかしこい馬も、道端で言ったのだから。

タグ: 読書 

2019/03/07 宛名のないラブレター

その手に触れずに去るということが、こんなに簡単できるはずがなかった。それなのにあの日、私は遠慮がちにバイバイをし、すたすたと改札を通り過ぎて、2度振り返ったが、立ち止まることはなかった。寂しくない。そんな振る舞いをした。君と会うまで、私はしくしく泣いていたというのに。
気持ちいい風が吹いて、いい匂いがした。子どもが走り回る。春のけしきだった。さまざまな名前の梅が、私を裏切るように咲いていた。思いのままという名の梅がある。夏からもうずっと待っていた。思いのままというのは思い通りということではなかったんだね。傲慢だとか思っていてごめんなさい。君はとても素敵です。そんなことを思い、泣きながら歩いた。ラブレターはいつも届かない。宛名を書かずに投函するからだ。涙は流さなかったと思う。
1時間あてもなく歩き回り、ようやくメールをする。コンディションが相当良くないと、私は人と連絡を取ることができない。電話がかかってきていることに気づきながら出なかったことは、一度や二度ではない。もちろん後からかけなおす羽目になる。これは私の病気だ。病気を気取って心地よくなる。これを癖にしてはいけないと自分に言い聞かせる。
向かい合って座る。目が合うと喋れなくなってしまう。津波のよう。こういう言葉は、本当に気をつけなければいけない。冗談が、パロディが、人を傷つけてはならない。だから口では言わない。私にしか通じない思い出は、日記の中に落としていく…。話したいことは全て忘れてしまった。もっと、君の好きなものの話を聞きたい。そういう話をする君を見たい。私はそれを、頷きもせず心から微笑んで見ていたい。
ゆっくり歩き出す。ふたりともオレンジ色の傘をそれぞれにさす。初めて会った日もそれぞれオレンジ色の傘をさして歩いたよね。その時はふたつの円がくるくると回っていたけれど、今度は私の円が隠されてしまった。雨が降る。雨の話はいつだってそれだけでおしまい。
私の思い浮かべる春は、満開の桜とちょうちん、公園の鉄棒と赤い服の子どもだ。梅ではない。しかしそれだけではなく、春のけしきには何かが足りなかった。それが何なのかも、本当はとっくに分かっている。春にならないと君にも会えない。

2019/03/05 たくさんのレモンが爆発

子どもみたいに泣く大人を見た。子どもは悲しい時には泣かない生き物だと、私は思っている。子どもみたいに泣くというのはつまり、駄々をこねる、ということだろう。とても興味深かったのでつい見入ってしまったが、そんな私の行為も子どもみたいだ。
子どもとか大人ということについては、よく考える。子どもみたいな行動をする人間と、大人らしい行動をする人がいる。そして、世の中には、子供系人間と大人系人間がいる。この二文は似ているが全く違う。

私が好んで着る服は、子どもや子供系人間から好評である。レモンがいっぱいのワンピースとか、テントウムシが隠れた服とか。たいてい彼(女)たちは「かわいい」と言ってくれる。子どもはたぶん、かわいいものが好きだ。シールとか猫とかソファとか。(適当に言った。)かわいいかどうかは、自然かどうかにかかっている。
子どもの思考は自然で正しい。何が正しくて何が間違っているなんてことはあまり言わないようにしているけれど、子どもは正しい。というか、子どもの存在が正しい。だから私は、子どもが好きなもの、子どもがいる場所にいたい。そしてそういうものや場所に対して、かわいいとかセンスが良いとかいう感想を持ち、好きになることが多い。
私もまた子供系人間であ(ろうとしてい)るが、かつ、普段は大人らしい行動をしている(つもりである)。大人らしい、とは、雑に言ってしまえば、たとえば喧嘩をしないというようなことだと思う。だからといって無理に合わせることはなく、ただ自然にしていれば良い。よく聞くこと、よく読むこと、そしてよく歩くこと。自然でとてもかわいい、はず。
子どもが大人に変わるのではなく、子どもに大人が足されていく。そんな人間たちがいてくれると信じて生きている。

ある時、ある人間のことをずっと好きでいたいと思ったし、私のことを好きでいてほしいと思った。大人系人間の思考だ。子どもの頃、私は、この子のことが好きだから一緒にいようと順序立てて考えていたわけでもない。ならばどうしてその子と一緒にいたのだろう。これからだって私たちのあの頃はずっと続いていく。
このあたりをきちんと思い出したい。思い出しつつある。まだ具体的な形が見えない。具体的な形など元から無いのかもしれないが。自然でかわいくありたい。そうでないと私は、死ぬこともできずに、苦しいのだと思う。
ワンピースに描かれたたくさんのレモンが爆発する、というのはとてもいいアイデアだと思う。どうなっちゃうのかな。きっときれいだよ。

2019/03/01 バー仮説

なぜ私は若い女の子なのだろう。時々そう思って、かなしくなる。歩き回っては知らない人と会い話すのが好きで、だから居酒屋やバーも好きだ。お酒も弱くはない。若い女の子がそういうところにひとりでいる、というのはそれだけで喜ぶ人がいる。それなりに飲めればなおさら好まれる。
私はいつもなるべく素敵でありたい。それは、私が何を話すかとか、話さなくてもどういう振る舞いをしているかとか、そういうことだ。私がもし若くなかったら女の子ではなかったら素敵ではないのなら、それでは全くダメだ。私が素敵でいるはずのときに、好かれるのが若い女の子だからだとしたら、それが一番かなしい。
おとといの前の日と昨日、それぞれ2軒ずつお店に行き、ぼやぼやといろんなことを考え、人と話し、おなじ時間を過ごした。夜のお店における私の仮説が始まる。

ひとつめ、奢るという文化について。うまくやれば奢る側も奢られる側も素敵でいることができるはずだ、本来は。私は大抵の人から若い女の子と認識されるので(…!)、奢られたことが何度かある。そんなとき、あまりに何杯も奢られると、相手の気に入るような話をなんとなくチョイスしてしまうし、あまり面白くない話にも付き合う羽目になる。だから二杯以上奢ってもらうのは正直やめにしたい。そもそも、奢って「もらう」などという関係も嫌だ。勝手に奢られた、というのが対等じゃないだろうか。(生意気)素敵に奢れるオトナでありたい。素敵に奢られるワカモノでありたい。年齢は関係なく。
ふたつめ、敬語問題。おじさんと美容師は、若い女の子相手になぜすぐタメ語で話すのか(ひどい偏見)。たとえば客は偉いから敬語を使え、とかそんな気持ちはもちろん一切ない。私は敬語を使うような相手ではないと思われているのか、などと落ち込むこともない。そもそも、タメ語は何も悪くない。嫌なのは、私が若い女の子ではなかったらタメ語は使わないかもしれないことだ。というより、若い女の子だからタメ語を使っているのが嫌だ。私という人間だからタメ語で話しているのならば、それは嬉しい。ふたりの関係の証であるのなら、とても嬉しい。

なぜ若い女の子なのだろう。かなしい。かなしくならないためだけに名前が欲しい。(それ以外の理由で名前など必要だろうか。これについてはまたいつか別のときに。)ひとまずこんなところ。私が若い女の子に見えるという話しかしていない。大したことは考えていない。いつものことだ。具体的にするための深い思考が足りない。それにしても、お店という場所はいいなぁ。

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