雨やどり


管理人室 -- 日記 -- 2019/01
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2019/01/28 湯わかしの家
2019/01/25 フィクション
2019/01/23 代わりの言葉
2019/01/20 感染性のある病気
2019/01/19 この夜にトマトを想う
2019/01/17 早く日が昇るといい
2019/01/16 エビとブロッコリー
2019/01/15 T字路の可能性について
2019/01/14 人の気持ちは強い
2019/01/13 いいスピーカーが欲しい
2019/01/09 魔女を演じる夢
2019/01/07 若いSちゃん
2019/01/05 幸せならば
2019/01/04 海を見に行こう

2019/01/28 湯わかしの家

てくてく歩き続けた。そして今もなお歩いている。東京までは210キロメートル。少し時間はかかるが、必ず着くだろう。東京というのは誰かの掲げた指標で、私のそれは、より抽象的に丸い。人の気持ちは強い。少し前にそんな日記を書いた。簡単に言うと、お店をやるべくある居抜き物件(テナント募集はしていない)の調査をしていたのだが、人の気持ちに押されとうとう借りたいとは言い出せなかったという話だ。第三者の介入でなんとかうまくいかないかとも思ったのだが、改めてよく考えてみると、そこを借りたところで私は人の気持ちには勝てない。お互いにとって相応しくないだろう。縛られていくことになる。溶けて流れてどこまでも行きたいのだ。一から作るというのはかなり難しいことだと分かっている。分かっているが、それが一番良いという気がする。これが今の私が場所から見えている景色だ。東京はまだまだ遠い。
具体的な話はつまらないが簡単に残しておくと、目星をつけた物件がある。親族が管理しているから、かわいく頼み込んで家賃を安くしてもらう。もうじき今の借り手が撤退するらしい。動き始めるのはそれからだ。お金のことも考えなくては。改装とか。内装についても考える。アップライトピアノを置けそう。お店の名前をひとつ思いついた。大好きな物語に出てくる家だ。著作権の問題があるのだろうか。
どのくらい歩いただろう。まだそんなに進んでいないはずだ。寄り道をし過ぎている。しかし止まってはいない。私は永遠に歩きつづけられる。足腰と気持ちだけは強いのだ。

2019/01/25 フィクション

2019年も15分の1が終わったらしい。年が明けてから今日までのこれが、あともう14回もあるのか…。長い。嫌になる。とはいえ、2019年が終わったところで何があるわけでもなく、またすぐ今度は2020年が始まるだけなのだから同じことだ。
月が明るいのに星も綺麗な夜だった。私の星を数えてくれるのは、誰なのだろうか。星座を見つけてくれる日は、来るのだろうか。
部屋があまりに乾燥するものだから、マスクをして寝た。あまり効果は感じられなかった。ここ最近は濡らしたバスタオルも吊るしている。こちらも効果なし。電気ケトルでお湯を沸かした。これが一番良かったように思う。加湿器はない。
先ほど急に、今週末までにやらなければいけないことを思い出した。すっかり忘れていたから、思い出せたことに自分でもとても驚いている。思い出せて良かった。
スピカは金星のことを一体何だと思っているのか。触れ合うことはなく、ただ見つめ合う。その笑顔は、恋。

私の日記は嘘ではない。私には事実しか書けない。嘘ではないのだが、フィクションだという気がする。言葉の矛盾。曖昧な表現。というのも、もうずっと現実と想像の区別がつかない気持ちで生きているのだ。何かの病気だろうか。病気と言われると大抵、人は嫌な感じがするのだろうか。私は心地よくなってしまう。
ほんとうはフィクションよりもっと、詩でありたい。詩には意味などないのだから。そしてもっと、音楽でありたい。音には言葉などいらないのだから。

2019/01/23 代わりの言葉

炬燵でうたた寝をすることにワケを見つける。私たちは若い夫婦で、妻の私は、夜、夫を待っているうちに眠ってしまうのだ。家に戻ってきた彼は優しいキスで私を起こし、ベッドまで連れていく。今度は安らかに朝まで眠る。「ワケ」は、漢字にすれば「理由」とかそのくらいの感じになるだろう(意図せずダジャレが出た…)。「意味」という言葉を使うほうが相応しいだろうとは思うのだが、私は時に「意味」という言葉を嫌う。代わりの言葉を探し、結局うまくいかない。今もそうだ。そうしていつもカタカナで誤魔化す。ところで、私は結婚していないし今は恋人と呼べる人間すらいない。

よほどいい夢を見たのだろう。ここまでは、夜中もしくは夜明け前の朝、いずれにしても暗い中でスマホで入力し、下書きに保存した。かすかな記憶がある。
言葉が見つからない。だから、似ているものや代わるものを探す。「雨が降る」ことと「人が死ぬ」ことは似ている。「寂しい」と「懐かしい」も似ていると思う。「帰る」という言葉は大抵「戻る」に置き換える。言葉は苦しい。苦しいが、離れられないのだ。好きだから。もどかしく、そしてたまらなく愛しい。このままずっと片思いならば幸せだろうか。なんと言っても、私が彼を思い、彼もまた私を思っているという確信は苦しみであるのだから。
今夜見る夢もどうかいい夢であってほしい。遠くの街の彼は今夜眠らないのでしょうけど。おやすみなさい。

2019/01/20 感染性のある病気

私がよく病気を気取るのは、本当にそうだという気がするからだし、その想像がかなり心地よいからでもある。私に言わせれば、素敵さや美しさ、可愛さ、それから格好良さなんかはすべて感染性のある病気だ。それも、インフルエンザや風邪のようなありふれたもの。今の日本でならば死に至ることは珍しく、大抵1~2週間で治る。病気であるから「治る」と言ったが、それはつまり、例えば「素敵でなくなる」ということなのである。病気にかかっているという思考はなぜかいつも心地よく、幸福な気持ちがする。
知らない人間に会いたい。人間と話がしたい。てくてく歩いて行きたい。ひとりで行きたい。そうして行きついた先に、いるのだ。素敵で美しく、可愛く、格好良い人間が。その場所(場所とは人である。人が場所になると言うほうがいい)で菌を吸い込み、私はまた元の場所に戻っていく。
もう3週間近くなる。病気が治りかけている。また歩き出さねばならない。てくてくと。(てくてくという言葉が好きだ。)人間に会いに行く。それは本を読むとか音楽を聴くとかそういうことでもいいが、やはり人間はいい。人間が好きだ。特定の個人はあまり好きではないけど、人間は好きだ。歩き回って見つけていきたい。素敵な場所と素敵な人間を。本や音楽は道標になるものなのかもしれない。でもやはり最後にたどり着きたいのは、人間だ。
ところで、感染しない病気があるとするならば、賢さだ。それだけは病気ではない。心地よくなっている場合ではない。免疫力がなければ立ち向かえない。賢さはぜひともブルンブルンと増やしていきたい。そしてそれ(と若いうちは若さ)を理由に、歩いて行く。

2019/01/19 この夜にトマトを想う

夜道がいつもより明るい。この道に街灯なんてあったかしら。振り返ると、それは、月であった。ああ、トマトが嫌いな人は誰だっただろう。月がトマトに似ていたのではない。むしろ今日のは全く似ていなかった。「夜道」「明るい」「街灯」「月」のいずれか若しくはその全てに、いつかのトマトの記憶が反応したのだと思う。とにかく私はこの夜、トマトが嫌いなダレカを想った。
こうして思い出してもらえる人は良い。ひとりは好きだし、なるべくひとりでいたいのだが、本当はけっこうな寂しがり屋でもある。(寂しいと初めて感じたのはつい2年くらい前なのだけど、この話はまたいつか別の時に。)私はダレカに思い出してもらえるだろうか。例えばエビ(大好物)を見て、私を思い出してくれる人はいるだろうか。今いるこの街のニュースを見て、私を思い出してくれるだろうか。かと言って自分の話ばかりして種を蒔くのもダサい。人間に会いたい。人間と話がしたい。結局のところ、人間が好きだ。
朝が近づき、月は山の向こうに沈んでいった。沈みかけの月は橙色に膨れ、まるで西から昇る太陽のようだった。その矛盾は私をえらく満足させた。

2019/01/17 早く日が昇るといい

こうなることをいつも忘れてしまう。思い返せば数日前から確かにはしゃいでいた。楽しくなって、パソコンが壊れるんじゃないかというほどの音量で音楽を聴いたり、冬なのに窓を開けて車に乗ったりした。昨夜の日記もその時は大まじめに書いたつもりなのだが、明らかに地に足が着いていない。どころではなく、意味が分からない。 そして高揚した気分の後には必ず、悲しい気持ちになるのだった。
悲しすぎる夢を見て夜中に目覚め、しくしく泣いてしまった。スマホを開きSNSを開く。こういうところもダメなのだが、夢が夢であったことを確かめたかった。夢の私はなぜかいつも可愛くて逞しい。夢では泣かなかったのに、夢で起きたことはその夢の中では現実だったのだと思うと、悲しくて涙が出た。とにかく夢は夢であったこと、そして現実でもあったことが分かった。「分かる」と人は悲しくなるらしい。昨年同い年の友達が死んだ。しばらく意味が分からずただ呆然としていたのだが、死んだと分かってからものすごく悲しくなった。死については幸福だろうという気持ちが拭えないが、この話はまた別の時にすることにしたい。
悲しくて外に出た。快晴の星空も遠くの街の光も、何の慰めにもならない。犬は置物のようだった。吠えることは疎か動きすらしない。目だけは私をじっと見ていて、それは黒というよりももっと虚無で、見ると盲になったようなそんなふうだった。恐ろしい。前までよく見かけていた猫を久々に見たと思ったのだが、違う猫だった。冷え切ったスマホの電源が落ちたので、家に戻る。そして空が明るくなるのを待ちながら、今こうして温かい布団に包まれ復活したスマホでぽちぽちと日記を書いているのである。
感情の浮き沈みが苦しい。それでも人前に出ればいつでもそれなりにまともな顔をして過ごすのだから、可笑しい。この悲しい気持ちも日が昇れば少しは良くなるだろう。

2019/01/16 エビとブロッコリー

いつだったか、青いイヤリングをして同じような青色のカーディガンを着ていたら、おしゃれだと褒められたことがある。私の肌や髪に青はけっこう似合うのだ。むかしから色とか相性とかに対する興味が強い。同じ色を使うことは好きだ。靴と鞄の色をそろえるとか。自己満足が過ぎたものでは、ベージュのセーターでミルクティーを飲むとか。同じ色でなくとも相性のいい色の組み合わせを見ると、ドキッとする。レモンイエローとスカイブルーの組み合わせはけっこう好きだ。そもそも黄色い花と青空が好き。ダスティーピンクとアクアブルーもいい。どうでもいいが、色はカタカナでないとうまく表せないのが悔しい。あ。カタカナでなくていい色の組み合わせをいま思いついた。黄色と茶色。これもいい。ポムポムプリン。チョコバナナ。プリン。どれも美味しいね。
相性といえば、やはりエビだ。エビとナニカはいい。まずエビの色が最高だと思う。ピンクがかったオレンジというか、オレンジがかったピンクというか。サーモンピンクとも少し違う。あの色。エビは形も可愛い。目もつぶらで輝いている。そこに例えば緑のブロッコリーが合わさればすごく素敵な色の組み合わせである。味もおいしい。とにかくエビは優秀だ。エビは上述した通りだが、ブロッコリーもいい。深い緑色、木のような見た目、口に入れたときの何とも言えない食感。エビと相性抜群である。
ここで断っておくと、私はエビが食べ物の中で最も好きだ。それ故に興奮して訳の分からない文を書いたこと、お許しください。相性がよろしくて、すべてハッピーエンド。おしまい。

追記:馬鹿みたいに根拠も纏まりもなく面白くもない話をしながら私はずっと人間のことを思い浮かべていた。エビとブロッコリーを合わせたのは、自然ではなく人間なのだ。そもそもエビは海に、ブロッコリーは陸にいるのである。しかし同じ惑星に生きているという、それだけが、それこそが、私の希望になっている。近いうち、エビとブロッコリーのマリネでも作ろう。おしまい。

追追記:ポムポムプリンは食べたことがありませんでした。でも可愛いね。ほんとうにおしまい。

2019/01/15 T字路の可能性について

今の私は、T字路が好きだ。十字路よりもY字路よりも、T字路が好きだ。十字路やY字路が好きな時もあるけれど、今はT字路が好きだ。
散歩をしていてT字路に行き当たると、ひとまず右に行こうか左に行こうか考える。どちらかは行き止まりかもしれない。どちらかはまた同じ道に戻るかもしれない。大抵人間はそんなに悩むことなくどちらかに曲がっていく。私も左右の道をのぞいてみて何となく面白そうな方に曲がる。
と、ここで気がつく。ああ!迂闊だった!来た道を戻るという手を忘れていた。進まなくてはいけないということは無いのだ。道は反対方向に歩くとさっき見つからなかったものが見つかることは多い。左右の道よりも今歩いてきた道の方が面白いということも十分にあり得る。
と、ここで再び気がつく。ああ!迂闊だった!ただ道を選ぶのなら十字路でもできる。Y字路でももちろん可能だ。しかしT字路にしかないもの。それは「突き当たり」だ。Y字路も一応突き当たっているのかもしれないが、純粋に突き当たっていない印象なのでそうは呼べない(主観でしかない)。
突き当たりには何があるのだろう。もしも駐車場があれば通り抜けられるかもしれない。店があれば入ってみたい。家ならばごはんの匂いがしたり晴れの日には布団が干してあったりするだろう。空地ならばそこに生えた黄色い花でもぼんやり眺めてみる。工事中で何かができていく途中の様子が見られることもあるだろう。
ああ、これだからT字路って素晴らしいよなと思う。
T字路が好きだ。どんな道よりも、無限の可能性を秘めたT字路が好きだ。

2019/01/14 人の気持ちは強い

菓子折りを手に、約束の11時ぴったりに呼び鈴を鳴らす。近所で数年前まで喫茶店をやっていた方にお話を伺ってきた。実を言うと私はその場所を狙っている。のだが、いきなりそのような話はしづらいので、始めた頃のこと、やっていたころのこと、閉店の理由などを伺いながら探りを入れていく。お店も見せていただくと、すぐにまた再開できるような状態だった。周りの人たちにも、いい場所があるのにもったいない、続けてほしいと言われながらも、本人の気持ちが乗らず閉店ということになったのだそうだ。ご主人が亡くなったことがいちばん大きな理由になっているようだ。
もうすっかりやる気持ちがなくなってしまったと言いながら、すぐに使えるようになっている。貸したい気持ちはあるが、埋め込みのエアコンがあまり調子が良くないこと、駐車場の問題などを考えると、厳しいかもしれないと仰っていた。はっきり貸してほしいと頼んだわけではなく、場所を見つけたいという話をした時にそんなふうな話の流れになった。それにここまで散々いろんな話を聴いた挙句このことを直接頼み込むには、私の心は人間らし過ぎた。人の気持ちは強い。というか、私はけっこう人の気持ちに弱い。
その方はとても素敵な方で、私がひとりで喫茶店に入るのが好きなこと、思い付きで出かけたりもすることなどを褒めてくれた。日本各地の素敵なお店を教わった。50件くらいは話に出たんじゃないだろうか。実際に行ってみること、歩いてみること(つまり散歩!)ができる人間は強い。
この地域の商工を牛耳っている(関わっている程度かも)という人の話がよく出た。その人に相談すればいい空き店舗などを紹介してくれるかもしれないとのことだった。その人は、あの場所を誰かに貸したら?ということも言っているようだ。もしあの場所を借りるのならたぶん直談判は難しい。しかし、第三者が入ればうまくいくかもしれない。
その前にとにかく自分で動いてみようと思う。考えて人と話す。そして歩く。まずは場所がなくてはダメだ。むしろ場所さえあれば何とかなる、ひとまずは。探してみて見つからなければあの場所を借りたいな。
願ったとおり、今日は前に進める日になった。けっきょく言葉などなくても伝わったのである。何ら心配することはなかった。大抵こんなふうにして物事は進んできたこと、そしてきっとこれからも進んでいくことを思い出した。

2019/01/13 いいスピーカーが欲しい

本日の労働終了。たぶん、多くの人が休んでいる時に働き、多くの人が働いている時に休んでいる。スピッツの「惑星のかけら」というアルバムを大音量で流している。私が生まれる前のアルバム。とても心地いい。心地いいという言葉は好きでよく使う。刹那とか軌跡みたいな言葉よりも「よろしくね」とか「心地いい」とかいう言葉の方がずっと好きだ。ああそれにしてもパソコン壊れそう。いいスピーカーが欲しい。

好きなものが同じ人とあまり分かち合えたことがない。私の思う良さが伝わらない。私はけっこう「自分だけが見つけている良さ」みたいなものに執着しているのかもしれない。他人の好きなものに安直に同調してはいけない。なぜ好きなの?って聞くべきだと思う。それも、相手にではなく自分に。
たったひとり好きなものについて分かち合えた人がいるのだけど、その人とは「なんかいいよね」という言葉しか使わなかった。だけど同じ惑星のかけらを見つけたような気がしているし、それは間違いではないはずだと思う。運命という言葉はありきたりだけど意外と好きで、その人と私の再会はいつも運命だって思う。

全国女子駅伝がやっている。マラソンはそんなに好きではないが、駅伝はついずっと観てしまう。ようやくテレビの前から離れてパソコンの前に来た。さっきのアルバムの続きを流す。静かな中キーボードの音だけが聴こえるのは耐えられない。

こうして適当に思うことやしていることを書きつけているのは、緊張を紛らわすためである。今年一、緊張している(と言っても今年が始まってまだ13日目)。
明日、人と会う約束をしている。いつか準備ができたらお店をやりたい。小中学校が同じだった友達のおばあちゃんが喫茶店をやっていた(数年前に閉店してしまった)ので、お話を伺いに行く。できれば場所をお借りしたいと思っている。きちんと会うのは初めてだし(小学校の登下校中に挨拶をしていたくらいだ。通学路にあるお店なのだ)全く相手の状況を把握していないので、場所のことは勿論まだ伝えていない。「場所があるなら」というのはここ数年私が何かと言われ続けていることで、その通りだと思う。場所さえあれば何でもできるような気がする。人はそのうちやってくる。はずだ。
戯言でも冗談でもないということをうまく伝えられる自信がない。好きなことの話はいつもうまく伝わらない。思い描く絵がまだ言葉にならない。今夜の夢に現れてくれないかな。なんとか明日までに言葉にしたい。見たまま聞いたままを喋っているつもりなのに詩になってしまうことはよくある。伝わらない話は人を不快にさせることは分かっているのだけど…。

今日は晴れた日なのであとで散歩に行こう。ナイキのスニーカーで速足で歩きたい。晴れのことを良い天気と言い始めたのは誰なんだろうな。友達になれそうにない。
アルバムを聴き終えたので日記もここまで。

2019/01/09 魔女を演じる夢

そんなものはやったことがないのだが、学芸会で劇をしていた。私は魔女の役(しかもけっこう重要人物)で、渡された黒いマントは羽織らずに終わった。自分の出演場面しか把握していなかった。人生、そんなものだ。出番を終えて舞台袖に行くと、愛しい人がいた。彼に会えて私は泣きそうになったのだけど、魔女の役が嫌だった?と笑って聞いてきた。そうでないことは分かっているはずなのに。舞台袖で私たちは長くて深い☆をした。本当のようだった。胸に柔らかいクッションを抱いた時その境目が分からなくなるように、ひとつしかなくなった。絡まった腕をほどいた後、彼を見失った。探し歩いていると私はいつの間にか本を2冊抱えている。睦月、という女の子がその本のことを話しかけてきた。睦月は愛嬌のある鼻を持った、笑顔の素敵な子だ。彼女にずっとちょっかいを出している大きな男がいて、睦月もそのでかすぎる男を好いているみたいだった。またひとり来た。神宮、という名前の女の子だ。じんぐう。すごくいい名前。色白でショートカット、少しふくよかでそれがより一層魅力を引き出している、そんな美人だった。彼女は今日が誕生日らしかった。彼女のツッコミは私がこれまでに聞いた中で誰よりも冴えている。後輩の男の子が「矢崎先生はいますか?」と教室を訪ねてきた。そんな人はいない。しかしどうやらそれは、山田くんのことを言っているらしかった。彼はかわいらしいが鋭い顔つきをした背の低い男の子で、秘密の経歴を持っているらしい。結局最後まで、愛しい人に再び会うことはなかった。夢の登場人物には皆ちゃんと名前があった。名前を呼ばれなかったのは私だけだ。演じた魔女にさえ名前がなかった。それでいい。
他人の夢の話ほどつまらないものはない。読み飛ばしたあなたは正解です。


2019/01/07 若いSちゃん

Sちゃんは無事合格すればこの春から大学生のはずだ。西に行きたいと言っていたが、どうなるのだろう。18〜19歳の頃(そんなにむかしではない)、私は早く大人になりたかった。大人というのは20歳ということではなく、とにかく早く30歳になりたかった。その頃の私は30歳の私を目の前のレールの先に見て、頼もしく思っていた。逆に言えば、若さには全く期待していなかったということかもしれない。いまでも30歳には憧れがある。ただ、当時と違うのは、30歳は今の先にあるのではなく、もっとこう、くるくると回っていて、そのなかのある一瞬が30歳だという気がする。昨日の部分日食のようなある一日。ある一瞬。

Sちゃんは当時かなり思い悩んでいることがあるようだった。苦しんでいた。それでも彼女には自分で歩いて見に行かれるようなエネルギーがあり、足掻く姿は少し滑稽だが超自然的だった。すでに素敵な人なのだが、これから彼女はもっと素敵になるに違いない。Sちゃんのエネルギーは若さという形で美しく放出されていた。私もさぞかし不安定で滑稽だろうな。だって若いのだから。だけどなるべく美しくありたい。ダサくなく。ここに書きつけている日記をいつか読み返して恥ずかしくなりたい。
30歳に私はけっこう期待していることはさっきも書いた。どうなっているのか、どうしているのか、たぶんそんなに変わっていないだろうけど楽しみだ。40歳にはあまり期待が持てない。死に遅れないぞ、くらいの気持ち。しかし70歳の私には素敵でいてほしい。一度死んでまた生き返るか。数字ばかり並ぶ日記はつまらない。今日はたくさん書いてしまった。ただ回っているだけなのなら、カウントなどできないはずだ。もっとそういう方向に近づいていきたい。1年前に出会ったとしてもあなたがもっと前に出会ったと言うのならその通りなのだろうし、2か月に1度しか会わなくても毎日会っているような気がするのならそれもそうに違いない。

2019/01/05 幸せならば

そう遠くない過去、恋愛はしたくないが結婚はしたいと考えていた時期がある。恋愛をしたくないという部分が大きい。誰かと仲良くすることで他の誰かと仲良くできなくなるのが恋愛ならばしたくない。とかなんとか、そんなことを言っていたような記憶がある。
恋愛が何なのかは未だによく分かっていないのだが、このトキメキが恋ならばいつだって恋はしているし、愛は月にある。ある時ふらっと結婚するかもしれない。そんな感覚や想像は楽しい。好きならば幸せならばいいんじゃない?と言ったいつかの誰かの台詞は、あまりに真っ当に私に響いた。
自由に生きたい私たちにとって、恋愛や結婚は束縛だという考えの人はけっこう多いんじゃないかと思う。家庭、とかも。いまの私は案外そういったことには囚われていなくて、むしろ帰る家があるとか、そんなことに縛られている。帰ることのできる場所がひとつある(たったひとつしかない)ことは怖い。家をいくつか持てばいいとかそういうことでは無いのだが。例えば、船の形をした家に住み、普段は土に埋もれているその家がときにはその土を水のように切って進んで行くとか(どこかで聞いたことがある話だな)、そんなファンタジーを盾にいまは進んでいく。何か目に見えない敵に抗っている。

ところで、小学生の頃の私は、他人と違うことがなぜかすごく嫌だった。今思えば、自分自身にある他人と違うなにかを認識していたということだろう。それ自体は結構すごいことなのではないか。当時の私を褒めてやってもいい気がする。残念だったのは、抗うエネルギーの矛先を間違えたことだ。他人と揃えることにかなりの力を使っていた。もっとよく考えなければならなかった。考えるということは最も偉大な魔法だ…。私は魔女になりたい。
いまは他人の言うことをあまり気にしない。と言うと、それはどうなの?という感じだが、良くない時は自分で良くないと分かる。気にしないというのは耳を貸さないとはまるで違い、もっと自分で考えていきたいということなのである。

こんな話をしたのは、抗う、という言葉を使ったからだ。いま私が抗っている敵が本当に悪者なのか、それは結局何年後かにならなければ分からないような気もする。当時私が敵を間違えたことに今更ながら気づいたように。私はまだ若くて未熟だ。精一杯何かに抗う姿は滑稽だろうということも分かっている。
しかし、私は少なくともむかしより素敵になっている。素敵でありたいと願っている。もっともっとよく考えなければならない。
素敵でなければ好きになってもらえない。少し前そんなことを思っていた。ショートヘアが好きな彼のために長い髪をバッサリ切る女の子のようだ。健気で可愛らしいが魅力的ではない。もっと魅力的になりたい。やはり行き着く答えは、魔女になりたい、だ。そんな方向にいまはほんの少しずつだが進んでいる感覚がある。
結局のところ、思い悩んでいたようなことは全て、幸せならばいいんじゃない?という言葉に救われてしまった。微笑みあった時間の幸せを忘れない。寂しそうな目を忘れない。あなたが猫ならばこの幸せはもっと簡単だったろうに。私たちはどうやら人間なのだ。

2019/01/04 海を見に行こう

年末、やらなければいけないこともやらずにダラダラし、結局それらは終わらないまま年が明けた。勝手に明けた。唐突に海に行きたくなった。車で海に行きたい。そんなわけで、海に行くことにした。

1月1日、昼前に起きて毛布とクッション、歯ブラシなどを積んで、出発。三保の松原へ向かう。静岡県は特にゆかりのない地なのだがなぜか好きでよく立ち寄る。今回もひとまず静岡県に行こうと思った。着いてから思い出したのだが、昨年死んだ友達と最後に会った時、ともに三保の松原に行ったのであった。その日のことを思い出し、友達が死んだことについて考え、少し浮かれた気持ちになった。一回死んだくらいではそんなに特別なこともない。
夕方の海は美しかった。あたたかくキラキラしていた。1時間ほど砂浜を歩いた。砂浜の歩き方がよくわからない。走り回る子どもは、夢の中の私だ。味噌ダレのおでんを食べた後、清水のあたりまでまた少し車を走らせ、賑やかな街に埋もれた。賑やかさは大抵好きにはなれないが、そこは心地が良かった。居心地ではなく、心地が。

夜明けまでに茨城の海まで着きたい。途中どこかで休もう。と思い立ち、東京で一旦とまることにする。元日の夜、東京の夜はあまりにも静かだった。こんなに静かなこの街は初めてである。友達のやっているバーが開いていたからお邪魔した。たまたま静岡から茨城に向かい、たまたまその間に東京があり、たまたまそこに友達の店があり、たまたま元日から営業していた。全ては偶然にして必然。そしてかなり自然。
私が本気でまじめに話せば、変わってるねとかはそんなに言われなくなるはずだと思う。素敵だと思ってもらえるはずだと思う。私は名前の一字を大抵隠しているが、その一字を明かしたときに納得してほしい。そこまで辿り着いてくれる場所を、つまり人を私は求めていたのかもしれない。そしてそれは海でもあった。
東京の夜は海のようだった。私たちの月。ほとばしる愛。そして、ヒッチハイク。

東京から茨城は近い。元日の夜中に飲むコーヒーのカフェインは強く、出発から一度も眠らないまま茨城の大洗岬に着いた。夜明け前であった。少し眠ろうかとも考えたがそんな気分にはなれず、そこから日が昇るまで1時間半くらい外に立っていた。人は増えていく。
青と黄のあいだが緑ではないから空はいいなとか、後ろの人にリュックの中身盗られてないかしらとか、水平線はよく見るとギザギザしているとか、濁音という概念を産んだ人は波の音を聴いたんだろうなとか、そんなことを考えていた。とてつもなくひとりであった。海には鳥居があり、直線は鳥居だけだった。水平線ですら波打っている。人の作った鳥居は不自然でおかげで神々しくもあった。自然界に直線は存在するのだろうか。
夜明け、さらに冷え込んだが、私が震えていたのは寒かったからではないという気がする。とても力強い海だった。日が昇ったとき、私の隣にはきっと誰かが立っていて、その瞬間はふたりだという気がした。

帰り道、カフェインが切れた瞬間、身体が使い物にならなくなり、慌てて少し先のSAでカフェインを摂取し15分ほど仮眠。かなり回復した。渋滞もあり6時間ほどかかったが、歌と考え事が捗った。
そのうちに本当に店をやりたい。岡田淳さんの『こそあどの森』シリーズで、いつもお菓子ばかり食べているふたごの家に行けば必ずなにかを出してくれる。二人暮らしの夫婦の家には森の住人がみんな集まっても座れる椅子と大きなテーブルがある。誰の家に行ってもお茶をいれてくれる。私の店について思い描くのは、そんな絵だ。それは絶対に私にしか描けない絵だと思う。

まじめに自然にかわいく、そしてかしこく生きたい。2019年、ドキドキする!

タグ: 旅 

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