雨やどり


岡田淳さんの本を読む -- 扉のむこうの物語

再読

小学生のころ初めて読んでから、一番たくさん読み返している一冊。表紙が黄色いほうではなく、カラフルなほうを何度も図書館で借りて読んだ。いま自分で持っているものもそれだ。
むかしもいまも、トーストを食べると必ず、パンくずを払いながら「透明のメモ用紙を繰ってる」と思ってしまう。行也が古い学校だと言った時の「伝統のある学校」だと言うとうさんの返しも好きで、むかしからよく使っている。誰にも通じてなかったと思うけれど。「美味」とかも、喜んでよく使った。
何度も読み返しただけあって、内容や台詞、仕草までよく覚えている。

倉庫の挿絵

倉庫の挿絵が良い。行也が倉庫のなかのものたちを見て回るシーンの文章を読んで改めてその絵を見返すと、この文章は絵から生まれたのだろうなと思う。(段ボール箱の中、ルービックキューブのすぐそばにあるキャップが、阪神タイガース。くすっ。)

扉のむこう

倉庫に閉じ込められ物語を考え始めたふたりが、扉のむこうへと踏み出す。こういう世界は、たしかにある。それもほんのすぐ近くにある。日常の中にある。
岡田淳さんとお茶をしたことがあった。(ほんとうに幸福な時間だった!)そのときに、この不思議な世界は、「階段に足を乗せるでしょう? そこに、防衝材(空気がはいって膨らんだプラスチックバック)みたいなんがあって。その上を歩くと、すっとずれる。そんな違和感みたいなもの」とおっしゃった。だから、近くにあるというよりも、同時にあるというほうが良いのかもしれない。並行世界と言ってしまっていいものかも迷うが、そのようなものだろうと思う。なんにせよちょっとずれたところに“ある”ことはたしかだ。その存在を信じている。

日常の延長

そしてこの世界へと迷い込んでしまったふたりは、はじめ、その状況にわくわくしているのではない。わくわくどころではない。「たいへんなことになってしまった」と思うのだ。わくわくするのと大変だと思うの、どちらが良いとか悪いとかではないが、不安になった行也は、すごくリアルだ。私たちの日常に近い。ちがう世界へ来てしまいながらも、気持ちは日常の延長のような、どっちつかずの感じ。
しかし、いつまでもその気持ちのままではいない。指揮者と会ったとき、「そんな場合ではないのだが、行也はつい、のってしま」うシーンが好きだ。いや、シーンではなく、行也が好きだ。わくわくどころではなかったこの世界が、少し楽しくなってくる。

楽しい世界

そう、この不思議な世界は、楽しいのである。ふたりは大変なことになっているのだが、読者は呑気なもので、この世界がとても楽しい。落ちこみ椅子に座ったママが話すバックでチゴイネルワイゼンが流れているシーンは、劇的で可笑しい。マスターの妙な質問も最高だ。
マスターは「(あなたがたが何であるか)決めてもらわなきゃ、ちゅうぶらりんじゃありませんか」と言う。何者かでありたいとかあるべきだという欲求は、当たり前のように世の中にあるが、ふたりはそうは思わなかい。この世界ではピエロが他人を「分類」しているが、自分で自分を分類することだって、いま私たちがいる世界でよくみかける。

巡る

ラベルが貼られていないから背中に手をまわすというのは、結局、誰の発想なのだろうか。不思議である。物語のなかでは、まずママが行也にそれをやる。しかし、そのあとで行也が千恵にやる。千恵は昔のママだ。その行也は、ママから教わったのだった。ママが、思い出したのでなくともそのことを思いついたのは、行也のおかげだ。こういうふうな、一直線ではなく、まわって巡ってくるもののなかに、不思議がある。

分類所

お芝居を観ているようだった。文章も、舞台の脚本のよう。さすがだ。
ふたりが舞台に上がったとき、行也は、もとの世界を「扉のむこうの世界」と呼ぶ。もう、どこにいようと、どちらが“この世界”でどちらが“あの世界”なのか、わからない。岡田淳さんの物語は、いつもこんな気持ちにさせられる。自分でも気づかぬ間にこうなっている(『二分間の冒険』や『選ばなかった冒険』を思い出してほしい)。そのことにふと気づいて、やられた! の思うのである。

ひらがな五十音表

物語はいよいよ山場をむかえるが、すんなりとは終わらない。ひらがな五十音表が現れるのは、むこうの世界でふたりが作った物話とは違う。ひとり歩きをする物語。どきどきしてくる。
それにしても、ひらがな五十音表のトリックはすごいと思う。九九を覚える1㎝くらいの立方体の積み木で五十音表を作って、逆算していったらしい(これも幸福なあの日にご本人から伺った)。最後にひっくり返すことのできるはずだった(つまり作者が最初に決めた)言葉は、ひっくり返されることはなかった。
それは、積み重ねてきた時間があるからだと思う。行也や千恵が、あるとき誰かのいった言葉を思い出したり、こういう意味だったんじゃないだろうかと考えたりするシーンがたくさんある。たとえば、落ち込み椅子に座ったとき行也が言った「しあわせ」を、千恵が思い出して考える場面。言葉は簡単に口から出てしまうし、うまく言えているのかもわからないけど、あとになってから、正しかったんだとかこういう意味だったんだろうかとか思えるのは、心強い。積み重ねてきたものがあって“いま”という時になっていることを、信じられる。

ピエロの運命

ピエロに待ちうけていた運命は、残酷だ。しかし、ピエロは死ぬしかなかったのだと思う。死ぬべきだったのでも、死んだほうが良いのでもなく、死ぬしかなかった。ピエロがふたりを忘れなければ、ふたりは帰れないからという理由(だけ)ではない。それは、ピエロが死ななければ、この世界が“なくなる”ことはなかったからだ。 “なくなる”とか“もうない”とかいうことは、それまでは確かにあったことの一番の証だ。
“もうない”“なくなる”ということについて、“ない“ということは“ゼロ”とイコールではないのじゃないだろうかと思う。もうないそれが確かにあったのなら、それは確かにあるということでもある。ピエロは言った。「あなたの心の国に……、私が住むわ。」心の国なんて、どこにあるのかわからない。あるのかもわからない。しかし、そこにあるのかもしれない(あるいはないのかもしれない)と想像することが、それを存在させてくれる。つまり、“もうない”ということは、今ここにないだけで、過去や未来、あるいは時間の中ではないところに“ある”ということだと思う。だから、“ない”は“ある”の証であるだけではない。“ない”と“ある”は、反対のことを言っているようでいて、同じことなのだ。
この物語ではピエロは死ぬしかなかったが、行也が自分の書く物語の結末でピエロを死なせないことにしたのは、とてもいい。行也の書いた『扉のむこうの物語』の中では、誰もが好きな時にその世界へ行かれる。そして、岡田淳さんの『扉のむこうの物語』の読者である私たちは、もう、その世界をどこかに持っていて、いつだって行くことができるのである。


2019/11/05

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