雨やどり


岡田淳さんの本を読む -- ようこそ、おまけの時間に

ちがう

「やったァ。きざの決定版!」賢は心の中でこうさけぶ。この夢の世界のみんなは何者なのだろうか。夢の世界のみんなはたしかに現実の世界のみんなとは「ちがう」。みんながそう言い合うように、「おなじ(みんな)とは思えん」のである。どちらが本当なのかとか、そういうことは問題ではない。現実の世界とみんなと夢の世界のみんなはただ「ちがって」いる。このことは、物語の最後まで心に思いながら読んでいくことにする。

印象的なシーン

どのシーンにも(いいなぁ)とおもえるところがあり、挙げだしたらキリがない。それが物語をこんなにも充実させている理由なのだろう。特に印象に残ったシーンを挙げていくことにする。
・太と弘明が加わった日、サイレンの音がひくくきこえだすと「じゃあ、また、あすな」と賢が言う。その「あす」のおまけの時間が来るまで、「六人はみょうなぐあいだった」。持続するしかない自分自身と、離れて行く(そして再会する)誰かとがいることを、この6人と共に読者も身をもって感じる。
・「中に豆のはいった、なんのへんてつもないアメ」というのは、あの茶色いやつかなぁ。私が想像しているものと、ほかの読者が想像するものと、岡田淳さんが思い浮かべるものは、おなじだろうか、ちがっているだろうか。放課後、6人が集まった現実の世界で、夢の世界の雰囲気をとりもどしてくれたのがこのアメ玉だ。こういう、さりげないきっかけのシーンが、本当にいい。
・おまけの時間の放送原稿。とてもいいできばえだ。きみたちよりもはやくめざめたもの。読者もつられて「それ、いいな」と言ってしまうに違いない。この放送はきちんと聞かれるに違いない。実際にそうなる。話せば通じる、というか、話すことによって深まる何かがあるのだと、信じられるシーンだ。
・「とおりかかった下級生の子が、あの人が最初にめざめた人だ、などといっているので、ちょっとはずかしかった」というシーンがとても好きだ。いや、ここはシーンではなく、賢が好きだ。賢の性格がよく分かる。とてもリアルだ。

仲間が増えていく

岡田淳さんの物語に多い、“仲間が増えていく”物語の展開。それがわざとらしくなく、仰々しい理由も必要なく、ただ必然であることが楽しい。
「このたのしさを、ねむってるやつにもわけてやろうぜ。」はじめのほうで圭一が言ったこのセリフは建前だろうか、本音だろうか。のちに明子が「なにをしていいかわるいかは、わたしたちできめなくちゃならないでしょう?」と言う。この時点で、圭一のセリフ(6人の意見)が本音だろうが建前だろうが、そうするのがいいということだけは確かだ。さらにのちに圭一が「本気じゃなかったって、思うんだ」と言ったセリフは、あまりにも正しい。そして本気(本音)でなかったとしても、建前でもなかったのだろう。
何をするのが“いい”ことなのかのかを彼らは考えてみる。どんな答えでもそれは必然だと思えるのだろう。それが“仲間が増えていく”ことなのは、本当に楽しかった。正しいことをしたのかなんて、本人たちにも読者にもわからないのだが、こうしてこの物語が終わり、また続きの物語がどこかにあることがわかる。もっと大きい物語の中にあるそれぞれの物語のなかで、そのときにいちばん“いい”と思えることをするしかないのだろう。私たちも同じだ。
“いい”というのには“楽しい”“おもしろい”みたいなことが含まれていて、しかしそれだけではない。で、その“いい”を考えるのに、彼らには誰かの存在が必要だった。誰かというのはもちろんひとりではなく、何人もいる。そういう意味での“みんな”という言葉は心強い。“正しい”ことより“いい”ことを探していく。そういう仲間が増えていくのは楽しい。

茨とどう向き合っていくのか。そもそも、茨とは何なのか。そのことを考えてみても、茨は「みんなに巻きついていたもの」でしかないのだ。現代の子どもを取り巻く問題、などと現実の問題と重ね合わせる人もいる。しかし、岡田淳さんはその象徴として書いたのでないと分かる(ご本人も度々そのようなことを仰っているし、何より物語を読めば分かる)。そして、みんなは「巻きついていた茨を取り除く」。それだけのお話なのだ。茨は茨でしかない。だから、とてもおもしろい。
「きみたち、このあとどうなると思う?」圭一の一言に、茨をひっこぬいたあとのことを想像した読者は私だけではないはずだ。実際は「このあと」はそのときのことではなかった。こういうシーンがあまりに巧みだ。ひっこぬいた茨はファイヤーストームになる。むかしから、炎をかこむのは、そこで会話をするためなんじゃないだろうか。

かわる

この物語のはじめとおわりで、みんなは「かわった」らしい。賢は「みんなが仲のいい友だちになった」と思う。だれかがかわったのではなく「みんながかわった」。その通りだと思う。夢の世界と現実の世界とで「ちがって」いたみんなは「おなじ」になったのではない。だって、ちがうもおなじもなにも、夢の世界は、今はもう、ないのである。


2019/10/25

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