雨やどり


岡田淳さんの本を読む -- 二分間の冒険

時間

悟の言う通り、黒ネコのダレカははじめから“時間”をやると決めていたのだろう。そう、この物語のキーワードは“時間”だ。“若さ”ではない。それを胸に置きながら読み進めていくことにする。

ダレカ

ダレカとのかくれんぼが始まる。かくれんぼと言っても、何を探せばよいのかわからない。降参もできない。「ダレカ」とは、「いちばんたしかなもの」とは、何なのだろうか。悟とともに読者も、知らず知らずのうちに考えてはじめているはずだ。考えなければもとの世界には戻れないのだから。
この世界で会ったみんなは、元の世界で毎日会っているみんなと見かけは同じなのに、「だれひとり、たしかなものには見えなかった」。竜がたしかなものだと考えてみたり、かおりがたしかなものかもしれないと思ってみたり、悟は「自分の感覚のふたしかさ」に、ため息をつく。こういう等身大のリアルさが、読者をひきつける。

悟とかおり

悟とかおりは、いつからかおたがいを「たしかなもの」だと思いあう。そのことが、それ以上の名前を持たなくていいと思うのだ。
かおりの手のとげを、悟が抜いてあげるシーンは、なぜ存在するんだろうか。なぜ、というのは、どういう意味を持って、ということでもある。これを読んだ小学生の私は、恋、みたいな発想は全くなかった。しかし、そうとらえる人がいることを知って、なるほどと思った。なるほどと言っても、納得したのではなく、そういう見方もあるのだということを知ったということだ。
悟がかおりに、みんなでこの世界を最初からやりなおすなんて、かっこいいことをつい言ってしまうシーンが好きだ。いや、シーンではなくて、悟が好きだ。こういうシーンが、演劇っぽいと思う。この文章で、悟がどんな言い方で喋ったのかが、ありありと思い浮かぶ。
それでいて、悟はかおりのまえではずいぶん弱いところも見せている。みんなに話した後、「いっちゃった」とかおりに言う悟はかわいい。かおりは強い。「話せばわかる」ということを信じているし、実際にみんなもそうなった。

歴史のない古さ…

老人の村の老人たちは恐ろしい。彼らが、それまで生きるはずだった人生、つまり“時間”を奪われてしまったからだ。ほんとうはなかった“時間”が、存在したことになっているのだ。これは普段からも時折見る。たとえば、「レトロ」と銘打って歴史のない古さを作りだす。

秘密

“秘密”が仲間を増やしていくことも多いが、今回の“秘密”はそこに集まったみんなを結びつけなかった。反対に、自分たちがえらばれた者だという“秘密”こそが、みんなの想像力やほんとうの思いやりを奪ってしまった。だから当然、仲間になることもない。彼らのせいではない。こんなによくものを考える悟ですら、みんなのことを「いたましく思」うのだから。そしてこれは、悟が特別な存在ではなく、みんなと同じ、みんなの中のひとりなのだと分かるシーンでもある。
想像力が足りなくても、悟とかおりには勇気があった。だから、「竜をたおす剣」を使って、すぐにでも竜をたおそうとしたのだ。そして、勇気あるふたりに、太郎は話す。「秘密」という名の思い込みがやぶられたことで、想像力を取り戻すことができた。だから、ふたりは「みんなで力をあわせればいい」と言うことができたのだ。

名まえ

力をあわせようとようやくみんなが「いっしょ」になったとき、自分の名をつぎつぎに言っていく。ここが、みんなが“みんな”から“ひとりたち”になる瞬間だ。名まえは、呼ばれるためにあるのだ。
みんなの力、つまりひとりひとりの力はすごい。ついに竜をたおすシーン。館長は最後まで悪役だ。実はいい人でした、などとならないのがいい。そして、竜は死ぬ。館長に殺されるのだ。「王よ、のぞみのくらしは、たのしくなかったのか」と何度も言いながら死んでいく。かなり残酷だ。しかしベストなラストだと、私は思う。

ふたしか

竜をたおしても、悟の感覚の「ふたしかさ」は続く。はじめはふたしかだとおもったみんなを、今度は「たしかなもの」だと言う。しかし、そう簡単にはいかない。かおりが「ここにいてもらいたいって思っているのよ」と言ってもなお、悟は「きみがダレカだったんだな」と言う。
自分自身をたしかなものだと「思えない」のではなく「思いたくない」。この言い方にはやられた! 自分がいちばんたしかだなんてあっさり言い切れる人は、実が伴わない優越感みたいなものを勘違いしているんじゃないだろうか(そうじゃない人ももちろんいるだろうけれど)。

もう、ない

あまりにたしかなものになった世界から戻った悟は、ダレカに尋ねる。「あの世界は、どうなったんだ。」するとダレカはこういうのである。「もう、ないよ。」このシーンこそが、この物語のクライマックスだ。「もう、ない」のである。悟がぼんやりつったっている姿が目に浮かぶ。
このあっさりしたおわかれと、物語のスケールのギャップが何ともいい。

自分の時間

“時間”(本文では「わかさ」とも言っていたが、私の言う“若さ”とは違う)を奪われることは、自分自身を奪われることと同じだ。積み重ねていくはずだった時間が失われれば、老人の村の老人のようになるのは当たり前だ。自分の時間を積み重ねた、たしかな“ひとりたち”が集まってできた世界は、どこにあっても、あるいはもうなくても、たのしいはずだ。

あの世界とこの世界

ところで、あの世界のかおりとこの世界のかおりは別人だ、と言い切ってしまうとしたら、作者が悲しむと思う。読者のみなさんは、このことについて(まったくの別人かどうかということについて、そう言い切ってしまうことについて、その他私が思いついていないことについて)どう思う? いつか話しましょう。


2019/10/27

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