雨やどり


岡田淳さんの本を読む -- ムンジャクンジュは毛虫じゃない

仲良くなる

良枝とのないしょの約束を破った克彦と稔。仲直りの儀式(ごめんねといいよ)ではなくムンジャクンジュを介して、仲良くなる。3人が仲良くなったのは、会話のテンポ感の違いでよく分かる。自然なボケとツッコミがとても面白い。彼らの関係の良さを強く思う。
仲良くなるには、いろいろな方法があると思う。時間をかけて仲良くなっていったり、ある出来事がきっかけで突然意気投合したり。彼らの場合は、ムンジャクンジュに名まえがついたときに決定的に彼らの間の雰囲気は変わった。“ないしょ”あるいは“ひみつ”があり、それを共有することで“仲間”という空気は一層高まる。岡田淳さんの物語では、それが不安の種になるものではなくわくわくするものなのだ。

倉庫

クラスのみんなが倉庫に集まった7月14日の夜。みんなは信じられない話と目の前にいるムンジャクンジュを見比べ、ひみつでそだてるのはおもしろそうだ、ということになる。このクラスのいい雰囲気が分かるシーンだ。「おとながわるい」という話になったときの貴男の演説はとてもカッコよかった。想像力があり、みんなをまとめる力もあった。意見がまとまるということは、同じ意見になるということでも妥協するということでもない。話し合った時間があるということなのだ。読者は、顔を見あったみんなの気持ちや、意見がまとまるまでに話し合った時間を想像する。文章にはなっていないひとりひとりの顔が、あまりによく思い浮かぶ。「みんな」の中に何人も別の人間がいるという当たり前のことに気づかされる。倉庫の中の熱を強く感じるシーンだと。
ムンジャクンジュが64本食べた7月16日の会話は、上に書いたシーンとはまた違って、しかしやっぱりいい。克彦と貴男が話し出す。克彦が良枝に声をかけて、うしろにいた稔も聞きつける。いつのまにか何人かが集まっている。最後に貴男がまとめるように言うと「みんな」賛成した。それぞれが誰かに話しかけ誰かが聞く。話す役と聞く役ははじめから決まっているわけではない。そういう「お喋り」が無数に存在して、広がってできた会話には、その中でしか生まれない独特の思いやり(これもまた想像力と言えるだろう)がある。そして、その日に良枝が言えずに思っていたことはほんとうになるのだが、それは事が起こってから説得力を持って言われることになる。

川村先生

ついに、大人の味方ができる。川村先生だ。川村先生のことはみんなも好きで、いい先生だということが文章からも伝わってくる。大人が、それも、すてきな大人が仲間になることに、子どもたちはかなり勇気づけられたに違いない。

時間の流れ

大人たちのワナに気がついた子どもたちは、必死の抗議をする。みんなで声を上げる。ムンジャクンジュがムーンと鳴く。警官たちが銃をかまえる。子どもたちはとびだす。ここまでのスピード感がすごい。花屋が隠していた花をのみこむ。一瞬時間が止まったように思える。さいごにムンジャクンジュは良枝に甘える。一瞬の出来事がゆったりとした時間の中で起きる。この時間の流れの操り方、岡田淳さんにしかできないだろうと思う。

演劇的

他の作品にも言えるが、会話が多くそのテンポもいい。演劇的なライブのスピード感。これが一気読みしてしまう所以でもある。口にすることとしないことがある。その書き分けも繊細かつ絶妙だ。

考える

この物語はもちろん、自然を大切にという教訓の本ではない。“ムンジャクンジュは何だったのか”。読み終えた人は考える。教訓を得ようとするより先に、自然と考えてしまうと思う。考えさせられるというか、考えずにはいられないというか。とにかく、読んでしまったからには、考えるしかない。ちなみに、この作品のタイトルは「毛虫じゃない」と言っている。読者同士でこの物語について話す時には、ムンジャクンジュは何を伝える存在かなどということよりも、“ムンジャクンジュは何だったのか”を話したい。「毛虫じゃない」。あとは、読者の想像力次第で何にでもなりうる。
この作品に登場する子どもたちも考えるしかなかった。そして、考えることをちゃんとやり遂げた。だから彼らはいい仲間になれたのだと思う。ムンジャクンジュの存在が彼らを繋いだというより、ムンジャクンジュはきっかけだった。考えることは、想像力がなくてはできない。想像力とは、自分が思いもしないことを、誰かは考えていること。そして、たとえそれが何なのかを思いつけなくても、在ることだけは分かっていること、だと思う。“考える”“想像力”“みんな”というのは通じ合っているなと思う。


2019/10/23

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