雨やどり


岡田淳さんの本を読む -- 水の精とふしぎなカヌー
こそあどの森の物語シリーズ第11巻。前巻『霧の森となぞの声』で足をくじいたトワイエさんがガラスびんの家に住んでいるあいだのお話。
 

かぎ

お見舞いに来たスキッパーに、トワイエさんがノートや本をとってきてもらうようにスキッパーに頼む。「ドアにかぎなんて、かかっていません」と、トワイエさんが言う。すごくいい。こういう森なのだ、こそあどの森は。これが当たり前で自然なことになっている。犯罪のない平和な森だとかではなく、ただ純粋に、こういう森なのだ、と思える。そういう世界観が、私たちから見ても何の違和感もなく描かれているのが、さすが岡田淳さんだと思う。
 

つめたい胸

何度かトワイエさんの家に足を運ぶスキッパーは、アサヒの泉の水の精にしめだされそうになる。「つめたい胸」になったスキッパーの気持ちがよくわかる。そんな気持ちが初めてだったスキッパーの戸惑いもよく分かる。
そこでスキッパーは森に住む人たちを心に思い浮かべる。みんなだったらどうするだろう、と。まさにこういうことを「想像力」というのだと思う。自分には考えつかないような考えを思いつく人がいると、わかっているということ。そうしているうちに、スキッパーは結局、自分の力で「相手が自分のことを知らない」という答えを導き出している。そしてそれはまた、自分ひとりの力だけでなく、これまでに起きた出来事やみんなとの会話ををちゃんと覚えていたからでもある。 世界や生命が巡りまわっているのを感じる。
つぎの日、勇気を出してしっかりと声を上げる。スキッパーは賢くて勇敢だ。第1巻の冒頭では考えられなかったシーンだけれど、きっとはじめからこういう力は持っていたのだろうと思うし、それがいろいろな物語を積み重ねていく中で、スキッパー自身にとっても読者にとっても自然なことになってきている。
 

お茶をのむ

お見舞いが退屈なものだと気づいてしまったふたごは、トワイエさんを驚かせる(それを見て楽しむ)ことにする。「大成功、うたがいなし!」というセリフが良かった。
川で見つけたカヌーをくわしく調べるため、家に帰ったふたりがまず「お茶をいれ、クッキーを用意」する。川で足をすべらせて帰ったあとも、ジンジャーティーをのんだりしている。「お茶をのむ」ことを、それ自体を目的にせずに自然にできるところが、ふたごのいいところだ。
 

カヌーを返す

ふたごがスキッパーを調査隊にさそう。そこで、小さい人たちをみつけて、それからどうするのか、という話になる。スキッパーの考え方は、自分勝手でもひとりよがりでもなく、想像力がある。「カヌーを返す」私はそんなふうに思いつけるかなぁ。
 

かもしれない

池にたどり着いた3人。スキッパーはここでも「相手が自分のことを知らない」ということを考える。水の精の物話のときに考えたことをまたここでも思えるのは、賢くてすてきだ。日々がちゃんと積み重なっていく感じがする。
ふたごの想像のお話に出てくるセバスチャンは、すごいやつだ。かっこいい。ちいさなヒトたちに失礼にならないように呼びかけているとき、セバスチャンのことを説明するスキッパーがいい。
スキッパーはさいごに小さな声を聞く。ほんとうなのかしら。ほんとうだったらいいな。いろいろ思う。だけどやっぱり「かもしれない」という言い方がいちばん合っている。岡田淳さんのお話はいつも、ふしぎがただひたすらにふしぎではなく、納得できる部分がある。だから、余計にすてきなふしぎになっている。
 
 
2019/12/29

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