雨やどり


岡田淳さんの本を読む -- きかせたがりやの魔女

独得

「はじめにいっておきたいこと」の章の「ふつうの小学五年生なんてどこにもいない。だれだって独得の生きかたをしている」という言葉が印象的だ。「そういうことをいったひと」というのが誰なのかも、あとで分かる。はじめのこの部分が印象的だったから、あとで分かったときの嬉しさも大きい。
“独得”は普段、“独特”と書くことが多いと思う。物語の中で、普段私たちが使うように“独特”という言葉が使われている箇所もある。「独得の生きかた」はあえてこの字を使っているのだろう。だから余計に印象に残る。“生きかた”に対して“得”の字を使うニュアンスは、納得できる気がする。
 

なめらかな金属の音

小学校五年生の七月、「ぼく」がはじめて魔女に出会ったとき、「なめらかな金属の音をたてて」扉がひらく。なめらかな金属の音。すごくいい表現だと思った。聞こえてくるような気がする。これから何かが始まる期待とそこへ踏み出していく勇気の音。
 

挿絵

『はずかしがりやの魔女』のお話がかわいくて好きだ。「ひみつ基地」という言葉だけで、もう、わくわくする。「うん、みつからなかった」というひと声は、シュウによって特別なものになったが、魔女にとっても特別になった。みつからなかったのは、きっと、魔女の魔法だろう。
そして、はたこうしろうさんの絵もかわいい。岡田淳さんご自身が挿絵もされることが多いが、もしそうならどんな絵になっていたのだろう、と思う。物語自体もまた少し違うふうに読むのかもしれない。
 

本当にあるかもしれない

「しおりの魔法使い」がはさまっていた〈秘密の……〉の本を、実際に図書館で探してみたくなる。岡田淳さんの物語に出てくるものは、自分のいる世界にもあるかもしれないと思う。図書館や本があるなら、その中にはその本があるかもしれない。小学校があるなら、そこには魔女や魔法使いがいるかもしれない。本の帯にも「小学校には、魔女か魔法使いがすんでいる!」とある。
物語に出てくるものに対する気持ちは、それが普段の私たちにとって身近でも身近でなくても、すべて同じなのである。小学校も、本も、魔女や魔法使いも。そういう気持ちにさせる力が、岡田淳さんの物語にはある。それは、物語の舞台が読者にとって身近な場所だということだけが理由ではないはずだ。すてきなふしぎの数々、登場人物たちの心、そういうものが読者に寄り添ってくれているような感じがする。
「しおりの魔法使い」は雑誌『飛ぶ教室』第26号(2011年7月25日発行)で初出しているが、そのときは「ぼく」という一人称で語られる。また雰囲気が変わって、いい。ちなみに、上に書いた〈秘密の……〉の部分はこのときにはなく、加筆されたようだ。細かいところを見比べてみるのも楽しい。

またね

チヨジョさんがあらわれてお話を聞かせてくれるのは、夢なのだろうか。はじめて会った日から、「ぼく」はクロツグミが肩にとまるたしかな気配を感じる。それでもまだ疑う気持ちもある。疑う、ということは、疑うようなできごとが(夢だとしても)あったということなのだ。
そして、チヨジョさんは「ぼく」とおなじ世界にいた。5つのお話も、そういえば(たぶん)「ぼく」がいる世界と同じ世界で起きていたのだから、「ぼく」が出会った魔女が同じ世界にいても不思議ではないのだ。また会えたこと、そして同じ世界にいるのだからまたいつでも会えることが、嬉しい。チヨジョさんの言う「またね」が、いつのことかわからずとも、本当にまたあると思えることが、嬉しい。
最後の6つ目のお話を聞いて、どうしてこの本ができたのかがわかると、はじめから読み返したくなる。きかせたがりやの魔女の語るお話を、また違う気持ちで読める(聞ける)だろう。
 
 
2020/01/01

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