雨やどり


岡田淳さんの本を読む -- 放課後の時間割

語る

「おもしろかっただろうねえ。」「そう、おもしろかった。」二学期の終業式の日、お話の会について話して聞かせた学校ネズミ(「かれ」)と「ぼく」の会話だ。つくったお話を語る。書くのではなく語る。それだけでもう魅力的だ。
『放課後の時間割』という物話の中に、学校ネズミが語る物話がある。いくつ物話を経由していようとそのどれもがとても近く感じるのは、なぜだろうか。その理由はやはり、“語る”ことにあるだろう。好きなペースで読むのとは違う。声が聞こえる。もちろん読者は“読んで”いるはずなのだが、なぜか聞こえる。「かれ」の声が聞こえてくる。間合いとか声の抑揚とか、そういったものが聞こえる。しゃっくりのウィッて音なんかはもう、「かれ」の声を飛び越えて、その物語のままの音を聞いているように感じる。

かれ

「かれ」が、とてもいいやつなのだ。はたしてネズミが「ニヤリとわら」うことがあるのか分からないが、このネズミは「ニヤリとわら」った。こういうシーンを自然に描けるところがいい。「はんぶんのこしたチーズをていねいに銀紙でつつみ、そっとよこにおいた。そして、用意してあったカップの水をごくりとのむと、両手で口のまわりをぬぐった。」愛すべきネズミ。

二年生ネズミ

二年生ネズミの話のラストシーンは少し意外なものだった。岡田淳さんの作品の中では珍しく、胸の締め付けられるような読後感だ。「りくっつぽい」らしい二年生ネズミの性格が、とてもよく分かる。他の物語同様、読後の充実感がすさまじいことに変わりはない。ひとつひとつのシーンが積み上げられてきたうえでの最後のシーンは、ぐっと胸にくる。

プラタナス

プラタナスは、私の住む地域にはあまり植わっていない。それでもケヤキと同じくらいよく知っているのは、私が岡田淳さんの作品の読者だからだ。木のはだに地図を持っている。初めて実物を見たとき、まさにその通りだと思ったのを覚えている。プラタナスにはいろいろな物語が詰まっていることを、私たち読者は本当によく知っている。そのことは私たちの生活をより良くしてくれている。

ふるさ

「そうだ。しかたがない。だから腹がたつっていうのさ。」五年生ネズミの話をする前に、かれが言ったセリフだ。変わっていくことは当然だけれど、その時に、なくならないでほしかった良さが失われていくことはよくある。「ふるさ」のなかには、ある一点ではなく、それまでに積み上げられてきたさまざまなシーン(大げさに言うと歴史)がある。そのことは忘れられがちである。この五年生ネズミの話は、たのしさとさみしさと不思議が同時に存在しているのが良い。
六年生ネズミの話でも、机が「むかしはあたらしかったのだろう」とキヨシは考える。むかしはあたらしかった、つまりいまはふるいと気づくこと。そして「ふるい」ということは、物語(シーン・歴史)をたくさん秘めているということだ。当たり前のことかもしれないが、改めてそう思うと感動する。

このみ

六年生ネズミの話のまえに、ふたり(一人と一匹)は机について話す。木の机のほうがいい。「こういうこのみがあうのはたのしいことだ。」同じものを好きな者同士の間にあるあの独特の空気感。うまく言葉にはできないのだが、この数行のシーンがその空気感を作ってくれている。こうしてこのみがあうのは「たのしい」。心強く、すこしくすぐったい。

ヤモリ!

出ました! ヤモリ! 岡田淳さんの描くヤモリがとても好きだ。職員室ネズミの「もとのすがた」は初めて読んだ時からなぜかとても印象に残っている。ヤモリが出てくるからだろうか…。今回は、その姿すら現さずに登場するのだが、声だけはずっと聞いていたことが最後に分かる。これが、ネコでもカメレオンでもモグラでもなく、ヤモリなのが、なんだか嬉しい。(もしネコやカメレオンやモグラでも、嬉しいと言っているに違いないのだけれど。)

おわかれ

お話を終えた後に「ぼく」と「かれ」の会話が描かれているのは、「かれ」のお父さん、保健室ネズミの話と、「かれ」自身、図工準備室ネズミの話のときだけだ。「せんべつ」にとお話をプレゼントしてくれた。そう、おわかれなのだ。
おわかれは、こういうものでありたい。おたがいの顔を見あうだけでいいのだ。そして、「またいつかあうことを約束」する。「いつか」という曖昧な言葉。しかし、かならずまた会うのだろうと思える。


2019/10/26

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