雨やどり


岡田淳さんの本を読む -- ふしぎの時間割

前ならえの絵

もくじを1枚めくったページ。前ならえをしている絵がとても好きだ。一番前の男の子が先生を見上げる表情とか、しゃがみこんで何やらしている子を見る周りの子たちとか。
 

朝『五つめのおはようとはじめてのおはよう』

二年二組と二年三組の壁をはさんで起こるとてもかわいらしいお話だ。最後まで読むと、あ、そういうことかと分かって、すっきりとした心地になる。“分かる”の体験としてすごく清々しいサイズ感だ。“分からない”ことは今もこれからもたくさんある。分からないことは、もう、本当に、分からない。その“分からない”を肯定できるのは、こういうサイズ感の“分かる”の体験があったからだと思う。
“分かる”の体験をして、それから、金魚やセキセイインコが本当にしゃべったのかもしれない、とこのお話を初めて読んだ時の小学生の私は想像してみたりもした。
 

一時間目『ピータイルねこ』

こんなふうにしゃべるねこが、本当にいるだろうか。しかも、ぱちんとつめを鳴らすようなねこが。私は、どうしてもいると思ってしまう。たぶん岡田淳さんの読者はみんな思ってしまうのではないだろうか。それは読者が、この世界観を心に持っているからだと思う。そんなねこを、いつも心に飼っているからだと思う。
物語の中で人が翼を生やして飛ぶのは、現実にはできないことの裏返しだ。そういうような物語が多い中で、この作品は現実に近い夢(夢のような現実と言うほうが良いかもしれない)を、クロというねこの姿で引き出してくれる。みどりがクロと関わる姿勢も、自然だ。こんなふうに自分の中にある世界と関わっていけたら素敵だと思う。
 

二時間目『消しゴムころりん』

出ました! ヤモリ! 岡田淳さんの描くヤモリはいつもかわいくて、愛しい。このヤモリは器用にジェスチャーまでする。
もし、間違っているところだけが消える消しゴムを手にしたら、何を書いてみるだろうか。さおりはさすがだ。未来のことを書かなかったから。分からないことは未来のことだと思っている人が圧倒的に多いような気がする。そもそも未来のことは分からない上に正しいも間違いも無いのだから、この消しゴムは使えないのかもしれない。
今の自分のことをもっと分かってみたい。だけど読者にはヤモリのくれた消しゴムはないのだから、自分で考えるしかない。物語の中でも、消しゴムはふたたび穴の中にころがっていってしまう。この消しゴムは、自分で考えることのきっかけを、さおりにも読者にもくれたのだろう。
 

三時間目『三時間目の魔法使い』

「おじいさんは三時間目になにをしていたんだろう」これがとしおの、そして読者の永遠の謎だ。そして、おじいさんは何者だったのかという問いにもなる。「おじいさん」でしかなかったのか、「魔法使い」だったのか、いやもしかして「ボール」がおじいさんに化けたのか。何もかもが永遠の謎だ。分からない。分からないがしかし、考えてみることはできる。
 

四時間目『カレーライス三ばい』

このコミカルな話を、こんなに緊迫感を持って描けるのは、やはりさすがだ。そしてこのお話の「めでたしめでたし」は、ひさしがカレーライスを三ばい食べられるかどうかにかかっている。
 

五時間目『石ころ』

「この石、訓平なんだ」良太のこのセリフは、むかし読んだ時からずっと覚えていた。良太は、心の底からこう言ったのだと感じた。心の底から何かを言えるなんてことは、滅多にない。その滅多にないときですら、本当に心の底にあるものかどうかも自信がない。大抵は、思い込みを本当の気持ちだと勘違いしてしまうからだ。
訓平は本当に石になっただろうし、この日の良太にはたしかにパワーがあった。何も根拠はないけれど、そう思う。良太もそうだったと思う。そしてこれは、きっと心の底から思っていることだ。
 

 六時間目『〈夢みる力〉』

真一とともに、読者もまた「胸のどきどきする音に気持ちを集中し」ていることだろう。そして「真一の胸にほんのすこしだけ勇気のようなものがうまれた」とき、読者の胸にも「勇気みたいなもの」があるはずだ。
夢という言葉は不思議で、みんなよく使うのに、なぜかあまり本当にあるとは思われていない。真一が救ってくれたから、今みんなは「夢」(それは将来の夢も、眠って見る夢も、空想する夢も、すべて)という言葉を使えるのだ。私たち読者は、「ほんのすこしの勇気みたいなもの」で、これからもそれを守っていけたらいい。
 

 放課後『もういちど走ってみたい』

「どうして宏は、ありえないようなことをすぐに信じたのか」なんて野暮なことは、ここまで読んできた読者はもう思わないはずだ。それよりもっと現実的(もちろん一般的な意味で)に、タバセンはなぜもういちど走ったのか、と思う。先生をやめるから? 「トシ」だから? そうだとしたら、にっと笑うだろうか。いや、笑わないはずだ、少なくとも「にっ」とは。懐かしむということはとても難しい。どれだけ正直に思い出せるかがカギだ。
 

暗くなりかけて『だれがチーズを食べたのか』

こんなに楽しい電話をしてみたいと思った。「なんだ、先生か。あ、すみません。はい、まさおです」このセリフだけで、まさおは嘘をつかないと分かる。
 

夜『掃除用具戸棚』

かくれんぼのわくわく。あのむずがゆい感じは、やったことのある人にしか分からない。スキッパーが眉をしかめる顔が思い浮かぶ。
「ほかにどうしようがあるだろうか。」雅子先生は両手でVサインをする、ほんとうにそうするしかなかったのだろうな。「そうしたい」のでも「そうするのが良い」でもなく「そうするしかない」という気持ちがいちばん自然なのだと思う。
 

どの学校

これらは、「いくつかの小学校」の物語だ。そのいくつかの中には、私の通う学校も入っているかもしれない。きっと入っているだろうな。と、読者はみんなそう思っているんだろうな。と、ここまで想像して、たくさんの同窓生がいるような嬉しくて心強い気持ちになる。
 

2019/10/24

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