雨やどり


管理人室 -- 日記 -- 2021/08
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2021/08/29 目標
2021/08/26 今日の散歩でわかったこと
2021/08/25 普通
2021/08/22 1000年後
2021/08/15 夏休み三日目
2021/08/14 夏休み二日目
2021/08/13 夏休み一日目
2021/08/12 夏休み
2021/08/09 上履き・写真
2021/08/08 walking world
2021/08/06 西向きの部屋
2021/08/04 雑草の花束
2021/08/03 美しい虫を眺める
2021/08/02 諭・謝

2021/08/29 目標

おととい写真屋さんで写真を撮ってもらい、さっき髪を切りました。あぁそうか、私には目標がない、と思った。
写真屋さんでヘアメイクをしてもらっている間じゅう話しかけられて(質問攻め)つらかったのだけれど、それはすべて私のせいである。スタイリストさんはきっととてもいい人だった。でもその人は、私がしたい話をする相手ではない。そのことを突きつけられているようでつらかった。私がしたい話を聞いてくれる人はまだいるだろうか。いるのなら、その人の話も聞きたいと思う。仕事の話になったとき、これからの目標はあるんですかと聞かれて、とても困った。ない。とりあえず、広くやっていけたらいいですねと思ってもいないことを答えたけれど、目標という言葉が頭にこびりついて離れない。こういうことをしてみたいとかこういう方法があるかもしれないとか細かいことはいくつかあるけれど、それで最終的にこういうふうになりたいというものがない。最終的な姿について、例えばこういうことかしらと思いつくもの、私自身はそのどれも望んではいないなと思う。広くとか長くとか言ってごまかしてしまうのは、あまりに盛大な嘘でよくない。世間から理解不能とか変だとか思われず、私自身も心苦しくならないような言い方を考えちゅう。
髪を切った。いつもゴムでいくつかに分けて縛ってジャキッと切っていくのだけれど、今回はクリップではさんでザクザク切る方法をやってみた。こんな感じにしよういうことを考えず完成像も思い浮かべずに、なんとなく切り始めた。終えて、今回はこのくらいの長さになったか、いい感じだ、などと思った。思っていたのと違った、ということが起き得ない。その安心感を、頭でわかっている。ずるいのよ、私は。
みな、安直に目標を定めたりなんかして、それが達成できなかったとき自分を許せるのだろうか。目標を達成するためならどんな手段も選ばない人間になるかもしれないことが怖くはないのだろうか。私は恐れている。何かよい考えに基づいて目標を持たないわけではない。ただ、怖いのだ。せめて、何かになりたいとは思わず、よくなりたいと思い続けている。これでいいのだろうか。よくなりたいという言葉がごまかしになっていないだろうか。
私自身のことでなく、私が関わっている人たちのことも考える。目標に他人を出すことほど傲慢なことはないから、決して目標ということではなく、彼(女)らに対して願うことを考えた。これから彼(女)らに味方がいてくれたらいいなと思う。人でなくても、物でも、時間でも。それは、私でも、私たちがしていることでも、私といた時間でもないかもしれない(それを望むことは間違っている)。私は、彼(女)らを見て、今そうであるか、これからそうなっていくだろうかと考えることならできる。教育とは、教えることや導くことではなく、見ることじゃないだろうかと、最近よく考えている。
そうこう考えていくと、私はやっぱり明日や10年後を楽しみにはできないのだ。明日や10年後は、まだ怖い。

2021/08/26 今日の散歩でわかったこと

夜、公園を散歩したら、とても美しくて、もうこれで死んでもいいと思った。さして広くない公園をしばらくフラフラしていると、誰もいなかった公園に人影が見えたので、逃げるようにして公園を出た。たまたま同じ方向に行く人だったのだろうか。少し離れてわたしと同じ道を歩いてくる。足早に橋を渡って左に曲がり、川に沿って歩く。その人も同じように橋を渡って左に曲がる。たまたまだろう。次の橋でまた左に曲がって、大きくコの字を書くように道を選んだ。明るい道に来た。振り返らずにコンビニに入る。たまたまだったのだろう。ハーゲンダッツのアイスを買った。318円もした。323円を出したあとで5円玉があることに気づいたが、もう遅い。わたしの財布には今、5円玉が2枚入っている。さっきの公園に戻ってそこでアイスを食べようと思ったのだが、あんなに美しかった公園は気味が悪くなっていて、家に戻った。たまたまだったのだろう。どんなに怖くても苦しくても人は死ねず、死ねるのは美しいときなのだとわかった。

2021/08/25 普通

「こんなことくらい普通に考えればわかるはずだ」というようなことを言ったのに対し、「あなたが思っているほど、みんなはわからないし、それが普通なのだ」と返された言葉の本当の意味を、ようやく実感し、そうなのだろうと思いつつある。わたしの普通はみんなの普通ではない。わたしがこれまで共に考えたり話したりした人はみな、普通ではなかった。自分で決めて逃げたから、そんな人たちも、わたしにはもういない。
普通ではないということは、少数ということなのだ。普通か普通じゃないかは、思想によってではなく、数で決まる。そもそも、何を考えるかではなく、考えるか考えないかで、その数の差は明らかだ。みんなに1000年後を楽しみに生きることを求めるなど、思い上がりもいいところであった。
誰のことも信じられる心地がしない。ならば、自分がどれだけ正しく生きているのかを考え、いつか今日のことを思い出した時にそれが正しくなかったとしても、許していかなければいけない。いつかのわたしに許されるように、どんなに絶望的な気持ちになろうとも、1000年後を夢に見て、さいごのときまで考え抜かなければならない。さいごに地球に救いの船が来るとして、わたしはその船には乗れない。そのことはちゃんとわかっています。

2021/08/22 1000年後

みんなは明日が楽しみですか。わたしはあんまり楽しみじゃない。10年後はもっと楽しみじゃない。100年後はどうかな。1000年後だったら楽しみかもしれない。こんな戯れ言を言ったのは、決してただ暗い気持ちからではない(そう言ったそのときは確かに暗い気持ちでしたが)。明日を楽しみに生きる理由はもうないと思うのだ。わたしだけの話ではない。みんなで1000年後を楽しみに待てたらいいと、心の底から思う。
明日ばかり見ていると、何かをしたくなったり何かをしたいという気持ちが良いことだと思い込んだりしてしまう。わたしは何かをしたかったわけでも何かをしたわけでもない。それなのに、何かをできるような気になったり、もう何もしたくないと思い上がったりすることがある。

2021/08/15 夏休み三日目

夏休み三日目。ながい生理前がようやく終わった。そろそろだろうと思ってから一週間過ぎていた。前にもこの話したかしら。余裕の顔で生理の話を聞いたりしたりする男のひとが嫌です。生理のときに気を遣われるのも嫌。気まずい顔をしてほしい。どうしたらいいか分からないのならそう振る舞えばいい。こういうことを言うと、どこかから怒られそう。「男のひと」いう言葉を使うだけでも、じゅうぶん攻撃の対象になる。こわいね(でも言う)。女のひとが大きい声(比喩)で生理の話をするのも嫌です。わたしも日記(ここと紙)でしか生理の話はしない。必要のない話。でも話す必要があると思っている人ももちろんいる。そういう人から怒られそうだから、そういう人もいると分かっていますよと言っておく。話す必要があるなら私も話すけれど、世間で生理について良い話し方をしている人を見たことがない。ちなみに、医療面からということになれば話はまた全く違う。一応補足しておかないと、どこかから怒られちゃうからね。怒られ耐性が無い(むかしからいい子というものを理解し演じていたので怒られ慣れていない)ので、なるべく怒られたくない。それなら言わなければいいのにね(でも言う)。
やること38個くらい、一昨日5個くらいやって、昨日は11個くらいやって、今日3個くらいやった。残り5個くらいになった。計算が合わない。やることは(やっぱり)終わらなかったので、引き続きがんばります。そして、新たなやるべきことも増えていく…。いつかやるべきことがすべて終わったら、私はどうなるかなぁ。だれも知らない国へ行けるかしら。
今回の雨は県内でもだいぶ大変なことになっており、ニュースを見たという人たちから、大丈夫?という連絡が来た。私がここにいると知っている人たち。いつかだれも知らない国へ行ったら、誰からもこういう連絡が来なくなるのか。川が増水して避難指示が出たり地面の低いところは水がついたりしていたけれど、午後になって雨が弱まって浸水や洪水はもう大丈夫そう。山のほうの土砂災害が心配。最近、全国的に土砂災害が前より多い気がする。地球、大丈夫だろうか。ここにいる私を心配してくれる人がいるから、私も地球にいる人々を心配する。

2021/08/14 夏休み二日目

夏休み二日目。ながい昼寝から起きてすぐ、会いたい人に会いたくなってちょっと泣いた。普段はこんなことに泣いたりしないのに。会えないことが寂しいわけではなく、ただ会いたくなって泣いた。特に最近は「できない」と人々が言う世の中になった。本当にその言葉の意味で言うのならいいけれど、それを理由にすることには違和感を覚える。昼寝のあとの一瞬は正直か、ただのセンチメンタルか。雨でも空は明るくて、とてもよく似た空を思い出した。眠っていた時になにか夢を見ていて、その続きのような気もした。わたしたちはこれから死ぬまで会えないかもしれない。会う約束をしていないから。もう会えなくても、それはそれでしょうがないね。会う約束をしたのに会えなかったときのほうがわたしは困る。どうしていいかわからなくなる。
やること38個くらい、昨日5個くらいやって、今日は11個くらいできた。あと22個くらい。ブラームスを弾いた。いつかそばで聴いてほしい。

2021/08/13 夏休み一日目

夏休み一日目でした。秋うららの布でスカートとブラウスを作った。セットアップにして着てもよい。やりきらないと気が済まなく、ここまでにしておこうということができない。やめる時は、時間がなくなったとき。他のこともそうかな。ピアノ、読書、散歩のことを考えて、時間がなくなるという感覚があまりわからないなと思った。ピアノはぎりぎりまで良くしつづける。一冊の本を最後まで読んでも考えることは尽きない。途中で立ち止まったり話したり笑ったり眠ったりしながらずっと歩く。どれも完成しない。完成しないことに関して、私はあまり時間を感じないのかもしれない。だからこれらは、時間がなければできないことではない。いつでもどこでもやっていい。服を作ることは完成することだから、時間がなければできないことだと思う。時間。もしかして、これが休み?休みとは、時間?(休みというものが分からないでいる。)その休みの間に、1mくらいずつ余っているピーター・パンの布と葉っぱの布をうまく合わせてブラウスにしたい。
やること38個くらいも順調(?)にこなしています。今日5個くらいやった。あと33個くらい。何だ、くらいって。さらわなければいけない曲も山ほどあり、ようやく手をつけ始めた。サン=サーンスがめちゃくちゃかっこいい。さすが、ピアノだけでなくオルガンも弾く人だ。ドイツ音楽が大好きですが、弾くのはフランスものが合っている。大学生の頃、卒試の曲決めでも、師匠と「ブラームスのピアノソナタ…」「…ブラームスかぁ。試験ではやめといたら?これからいつでも好きなときに弾いたらいいよ」「それなら、フォーレのワルツカプリスがいいです」「合っていると思うわよ(即答)」というやりとりがあった。サン=サーンス、楽しみです。

2021/08/12 夏休み

明日から3日間の夏休みです。みんなが夏休みに入って私も夏休み気分だったけれど、実際は全く夏休みではなかった。夏休み中にやろうと積み重ねてきたものが38個くらいある。明日からがんばります。
今日の仕事の前に手芸屋さんでライラックの布を買い、ついさっきブラウスが完成した(これは38個に含まれていません。やるべきことは明日から…)。前身頃をギャザーの切り替えにした。初挑戦。こんなもんかなと思って作ったら、ギャザーの量、袖や丈、すべてうまくいった。去年から何パターンかつくるうちに、自分に合うサイズや形が分かってきた気がする。いいと思うものだけを選んでいく。邪悪なものが混じったら微調整すればよい。服を作ることはかなり自由度が高い。それから、服を作るようになってから、買った服のアイロンがけが楽になった。どこがどう縫い合わされているのか分かるからだろうか。こういうパターンもありか、と勉強にもなる。今、インターネットで、シチュー(の具)の布とジャムの布と生成りのリネンを買った。お盆明けにならないと届かない。以前買った秋うららの布と、今日手芸屋さんでライラックの布と一緒に買った星の布を近いうちになんとかする。特に秋うららは秋になる前に。
お盆を過ぎれば秋、とこのあたりでは言うが、すでに朝晩などけっこう寒い。8月頭に2日ほど夜も暑い日があって部屋を涼しくしたけれど、暑かったのはほんの一瞬だけで、今となっては寒い。ふわっふわの毛布をひっぱり出してきてかけて寝ている。寒い部屋でもふもふしたものと共に眠るのが好き。暑かった夏は私がここに戻ってきた3年前の夏だけで、2年前からは私の知っている夏だ。3年前の夏はたしか、日本中が暑かった。一番暑いときを過ぎたころに東京に行って、暑い!暑い!と言っていたら、今日なんかいいほうだよと言われたのを思い出す。
明日から38個がんばります。私にとって休みとは、たまった仕事をやる日々…。休みとは一体。

2021/08/09 上履き・写真

Nコン県大会まで無事終了。演奏が終わってホールの外で「ありがとうございました」「「ありがとうございました」」と挨拶をしてくれた。日々の部活の最後にも「今日はありがとうございました」「「ありがとうございました」」と挨拶をしてくれる。いつもと同じ言葉にいつもと同じ気分で「ありがとうございました。おつかれさまでした」と返すと、3年生たちが「わ~~~~、また来てほしい~~~~」と寂しがってくれて(次の大会を目指すほどの力はないことは誰も口にしないがみなわきまえている)、そうかこの子たちは来年はいないし、私たちが会う約束はもうないのだな、と思った。でもまたどこかで会えたらいいね。文化祭来てくださいと言われたので、行けたら行くねと言っておいた。断り文句としてではなく、言葉の通りの意味で言った。2年生の二人組がちょこちょこっと近寄ってきて「来年もまた来てください」と恥ずかしそうに言ってさささっとどこかへ行ったのがかわいかった。1年生は「先生も入って」と傘に入れてくれた。私はいつも、他人より傘をささない。このくらいの雨ならいいやと思ってしまうのだけれど、そういう時大抵みんなはさしている。入れてくれる人がいることは嬉しい。気を遣わせちゃいけないと思って慌てて自分の傘を広げることが多い(ささないわりに晴れ予報でもほとんどいつも持ち歩いてはいる)のだけれど、いつか上手に傘に入れてもらえるようになりたい。今日は短いあいだだったので、入れてもらったままだった。
はじめの頃は上履きの色で学年を見分けていた。いつの間にか、ローファーでも何年生か分かるようになっていた。彼女たちをよく見ることが、この夏の私の役目だったと思う。本当は指揮者の先生がそうであるべきなのだけれど、そうでなかったので、私がそれをするしかなかった。おかげで(過信)、みんな、自分で聴いたり考えたりすることをサボらずにやるようになってきて、よかったと思う。そして、先生が自分たちを見ていなかったことをはっきり分かったと思う。先生にとっては余計なことをした。よし。

演奏順が早いほうだったので、家に帰ってまだ14時。レッスンは休みにしてあった。切らしていたコーヒー豆を買いに行くことにする。ここ数日、コーヒーを飲まないでいたら、連日21時くらいになると全く動けなくなって気絶(うたた寝)していた。依存症になっている可能性がある。気をつけよう。…と言っても、コーヒーは一日に1杯にしているし、どう気をつけていいか分からない。コーヒー豆を買うついでに、宇宙一おいしいアイスクリーム屋さんに寄る。スイカソルベと夏いちご&ブルーベリー(ソルベ)。宇宙一おいしかった。家族連れと母娘、中年の夫婦がいて、ひとりなのは私だけだった。途中、工事で片側通行になっているところでとめられて、横を見たらキャベツ畑と案山子がいい雰囲気だったので写真を撮った。
16時過ぎに家に戻って、さっき撮った写真を見た。SNSのように誰かに見てもらいたくはないけれど、どこかで誰かが顕微鏡を覗くように見ていたら面白いなと思った。顕微鏡で覗く世界は、同じ世界なのに異次元を見ているような気分になる。私は多分、なにかを見る時、なにか自体よりも、なにかを見ている気分を味わおうとする。私が撮った写真を誰かがなにかの気分をもって見ていたらいいなと思って、写真のページを作って放ることにした。スマホの写真をさかのぼって、今年の1月分から34枚放ってみました。やる気があれば続けます。Penguinsの感想文も全然書いていないので、そろそろ着手したい。Nコンも終わったことだし。お盆、山に登ろうかと思っていたけれど、このあたりもまた際どいところを進んでいるしどうやら山も人が多そうなのでやめにした。富士見台の研究も忘れていません。

2021/08/08 walking world

マラソンのキプチョゲ選手の夢は「世界をrunning worldにする」ことらしい。走る世界は、健康で平和だと言う。この人は走る人だ、と思った。たくさんの人が走っていたけれど、キプチョゲ選手が一番、走っていた。走る人が世界を走る世界にしたいと言うことには、人や世界を動かす力が確かにある。彼がrunning worldを夢みれば必ずそこに近づくような気がする。
このことは歩く私たちにも勇気をくれる。私たちは、walking worldを夢にみてもいいし、歩く人が世界を歩く世界にしたいと思えば、その世界はいつか来るように思える。歩くことは素晴らしい。ダンスははじめ歩くことから始まった(だから今でもステップという言葉を使うのだろう)。そして、歩くための音楽ができた。むかしから音楽は宗教と結びつきが深く、今でも何らかの主張やメッセージを持った音楽が多いけれど、そうではない、ただ歩く(踊る)だけのために音楽が生まれたことは、世界にとって大きい。キプチョゲ選手の言葉をかりるなら、人々が歩きそのための音楽が生まれたことは、「健康で平和」な世界に貢献している。きっとそれだけではない。歩くことはこれまでさまざまに世界を良くしてきた。そもそも、歩くこと自体が良いということは言うまでもない。
思いつきで適当なことを言っていますが、とにかく歩こうね。私たちはむかし、どこへ行くにも歩いていた。

2021/08/06 西向きの部屋

西日で部屋が暑くなるから、午後になって仕事で出る前にカーテンを閉めておく。仕事から戻り、日も沈み涼しくなっている。扇風機を窓に向けて、こもった空気を外に出す。今日の昼間に、部屋のじゅうたんをい草ラグに変えた。今は23時過ぎで、外はかなり涼しいし、部屋もだいぶ涼しくなった。今夜は東風が強く吹いているけれど、西からもいい風が柔らかく入ってくる。部屋にエアコンはついていない。ここ数日、日中の気温は33度くらいまで上がっている。眠るときに部屋が涼しいこと。今日の最大の関心事はそれだった。そのことを考える間、他のことはほとんど考えなかった。そして、今夜、それがうまくいった。もしも今この部屋が暑かったら、今夜、暑いせいではなく私は眠れなかっただろう。おとといの夜は湿度が高く風もなくて暑い夜だったけれど、気にならなかった。まだ、部屋を涼しくしようと思っていなかったから。
なにかがうまくいかなかったとき、とにかくすぐにでもなんとかしたいと焦ってしまう。次のチャンスが訪れるまでずっと、はやくうまくやりたいという気持ちがある。それは明日のこともあるし、来週のこともあるし、1年後のこともある。いつかわからないこともある。この「うまくやりたいという気持ち」が、私の「不安」なのかもしれない。みんなが「不安」という言葉を使うとき、私にはそれがどんなものなのか分からない。人々がその言葉を使うとき、それぞれ全く違うもののように私には見えるのに、みんなは「不安」という一言ですべてを理解し(たように振る舞っ)ている。私の「不安」に話を戻す。うまくいかなかったことがまくいったときの解放されたような気分に依存しているような気がする。実際は、解放などされていないのに。なぜなら、別に縛られていないから。本当は、はじめからずっと自由に飛び回っているのである。縛られていると自分で強く思いこんでいるだけなのだ。だから、解放されたようでいて解放されていない(され得ない)ことも感じている。そこまでが私の「不安」。
私はこれまでたぶん、私の「不安」の正体が分からず、困り果てていた。どうにもしようがなかった。違うかもしれないけれど、こうじゃないかと考えることで、何とかできたらいいなと思う。しかしもしかして、今も、「不安に対する不安」をやっているだけだったりして。そんな気がしてきた。……とにかく、あんまりひとつのものばかり見つめずに、もっといろんなところに意識を散らしていったほうがいいのだろう。分かっていても難しいのだけれど。
そういえば、東京(正確には神奈川)にいた頃の部屋も、西向きだった。東京の暑さを忘れつつある。

2021/08/04 雑草の花束

わたしほど雑草の花束をよくもらう人もいないのではなかろうか。今日も、30分の間どこかへ出かけていた女の子が、摘んできたムラサキツメクサとイトバハルシャギクのほんの小さな花束を渡して帰って行った。正確には雑草ではなく野花なのだが、以前「雑草の花束」と言った人がおり、その表現をとても気に入ったので、以来わたしもそう呼ぶことにしている。野花が好きだ。わたしの好きなものはみな、よく歩く。花も歩く。日当たりのいいほうに勝手に歩いて移る。川も歩く。蛇行してみたり真っすぐになってみたりする。愛しい人も歩く。きっと今も、わたしの知らないところを歩いている。みんなが歩ける「野」が、これからもなくならずにあり続けますように。わたしが雑草の花束をもらっているうちは、安心していられる。どこかに野があるということだから。

2021/08/03 美しい虫を眺める

羽が透明の、美しい虫。外に出たとき玄関の扉にとまっていたその虫を、しばらく眺めた。美しかった。眺めていると、わたしの体がわたしの体ではないような感覚になった。腕や耳が、なんだかずっしり重いような気がした。体がこんなふうではなかったら楽なのに、と思う。腕の代わりに透明の羽が欲しかった。いや、わかっているのよ。透明の羽があっても、わたしは思うようには変われなかった。しかし、今のわたしにとっては、体を脱ぎ捨てる準備ができているということが、重要なのです。

2021/08/02 諭・謝

どう考えてもおかしいことがあり、それはおかしいですよということをライン(長文)で丁寧に伝えたところ、「申し訳ございません。(弁解)」シュッ。「本当に申し訳ございませんでした。」シュッ。3分後。「不快な思いをさせてしまったことお詫びいたします。」シュッ。という、絶望的な返信があった。たしかに私に関することだけれど、私個人が不快に思うとかいう問題ではない。不快だとは一言も言っていないし、思ってもいない。そういう問題だと思っているから、これまたどう考えてもおかしい弁解をする。
おそらく、普通は、不快に思う場面なのだ。私は、他人の私に向けた態度によって不快になることは、ほとんどないと思う。他人の私に向けていない態度を不快に(というかよくないと)思うことはあっても、何かをされて不快だとか嫌だとかはあんまりない気がする。悲しかったり寂しかったりすることはあるから、他人の行動になんの影響も受けていないわけではない。私が関わっていようがいまいが、よくないことやおかしいことに対して「よくない」「おかしい」と言うのは、私自身のためでは決してないのに、そういうことを言う度に「あなたの気持ちもわかるけれど」と諭されたり、「不快な思いをさせて」と謝られたりする。よくないことがあるとき、「嫌な思いをしました」「ごめんなさい」「いいよ」で成り立っているのが社会なので、そこに「間違っていると思います」などと切り込んでいく私のような人間は、社会ではマークされる。
でも、今はそうやって何とかやっている。1~2年くらい前、それがあまりに上手にできなくて、今は黙っているのがいいと思い至って(諦めではなく)黙っていた時期もあったけれど、また、小さな声を出し始めています。あとは、いちいち絶望的にならず、すぐには伝わらなくても、地道に続けていくしかないのでしょう…。

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