雨やどり


管理人室 -- 日記 -- 2021/02
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2021/02/26 助けてほしい
2021/02/25 こたつでうたた寝1:58
2021/02/21 散歩癖
2021/02/20 イヤイヤ期
2021/02/18 おうち
2021/02/17 こたつで丸くなる
2021/02/12 窓を開ける

2021/02/26 助けてほしい

でも、誰もわたしのこと助けられない…。わたしが、あなたを救いだと思わないかぎり。もういちど海を見たかったなぁ。

2021/02/25 こたつでうたた寝1:58

馴れ馴れしく「かわいい」と言われ過ぎた一日でした。嬉しくないし(若干気持ち悪いし)疲れた。「やったー」と返せる人にしか「かわいい」と言われたくない。「かわいい」と言われて嬉しくないという状況が癖にならないように、ほどよく逃げておきたい。「やったー」と返してくれる人に対してはわたしも「かわいいね~(ニコッ)」と言う。

今日買ったもの:木の棒(2本)、毛糸、金の鈴、銀の鈴、コースター(2個)、ウッドクリップ、瞬間接着剤、木工用ボンド、クッキングスケール、アンパンマンの柔らかいボール、紙やすり、シール、iPad Air
明日買うもの:コースター(今日と同じの)、プラスチッククリップ、木製トング、木の板、楽譜

2021/02/21 散歩癖

すれ違うたくさんの車が、窓を開けていた。私は、真冬でも気分がいいときは窓を開けて走る。窓を開けて車を走らせるのは、それくらい気持ちがいいのだ。冬の終わり、陽ざしが春に近づいてきて気温が10℃前後の日には、半開くらいにしている人がちらほらいる。今日みたいに15℃近くなると、半分くらいの人は窓を開けていて、その中には全開にしている人も少なくない。私はもちろん全開だ。
常々思っているのだけれど、私は車の運転には向いていない。もちろん、車を運転することに集中すれば、ちゃんとできる。教習所ではどちらかというと褒められるほうだった。ならばなぜ向いていないか。それは、散歩癖があるからだ。いつのときも散歩をするように歩く。仲の良い人たちとの会話は、散歩のような心持ちですることが多い。だから車も散歩のように運転する。癖、なのだ。

ところで、散歩のように、とは一体何なのか。私と散歩の関係(?)を思い出してみることにする。
むかしから歩くことが好きだった。ただテクテクしているのが楽しかった。そうして歩き続けているうちに、坂に魅力を感じることに気づいた。Y字路にも。それから川にも。『ドリトル先生のサーカス』で、ドリトル先生は言う。「あそこに、たぶん、川があるだろう。」このシーン、大好き。ただぶらぶらと歩いているシーンでは(たしか)ないのだけれど、ドリトル先生は川を見つけて歩く。
中学や高校の頃、まっすぐ帰れば2kmくらいの道のりを、よく2時間くらいかけて帰った。まっすぐ帰れば、と書いたのは、私たちはまっすぐ歩かなかったということだ。いろんなことを話すのに、道はいくらあってもよかった。話し足りないから道を伸ばすのではなく、道があるから私たちは歩き続けたくさん話をした。
知らない世界を見つけようとするとき、私の場合、まずはキーワードを見つけることが多い。「くじら」がタイトルに入っている本ばかり選んで読むとか。線路や川に沿って歩くとか。線路に沿って歩くと、特に都会は、地形を感じやすい。電車は急坂は苦手だから、地上を走っていた電車が突然地下に入ったり、崖沿いを進んだりする。それを眺めるだけで感動する。駅周辺の知らない街には、知らない店があり、知らない人がいる。私が今日だけここにいて、ここに住む人やここで働く人の生活を眺める。もしかしたら、私が眺めている人も今日だけここにいる人なのかもしれない。ここに住む人は私のことをここに住む人だと思って眺めているのかもしれない。歩くたびに、人間みんな、本当はほとんどのことは分かっていないのだと思う。だから(本来は)考えやめない生き物なのだ。

他にも違った歩き方をしているときもあろうが、ぱっと思い浮かんだのはこのあたりだ。方向音痴のわりに、一度歩いた道はよく覚えていることが多い。ひとりで歩くときは特に、かなりキョロキョロしているはずだ。車の運転も、ついそんなふうにしてしまう。もどかしいのは、止まれない、戻れないことだ。止まって景色をしばらく眺めるのを、過ぎていった道を振り返りたくなるのを、何度こらえていることか…。その度に、やっぱり私に車の運転は向いていないと思うのだ。

2021/02/20 イヤイヤ期

起きられないことは特別なことではないと知った。目が覚めて3秒後には起きあがっていた以前の私と比べたら、いまの私はたしかに違う。変わったのか、少しの間だけこうなっているのかは、まだ分からない。待ってみるしかない。
起きられないことがすごく嫌だったのだけれど、そうではなかったのかもしれない。嫌だったのは、起きられないことではなく以前と違うということだったのだろう。しかし、別件で嫌だなと思っていることは、変えられないというところに原因がある。何もかも嫌になりそう(すでになりかけている)。

私の部屋の窓から外を眺めると、あぁ、あそこに友達がいる。元気だろうか、と思うのである。そして、その友達がその人の部屋から見る窓の景色に、私はいない。だって、外を歩いていないから。探してもいませんよ。でも、いちばん私を見つけられずにいるのは私自身なのだ。私がいちばん私を忘れている。
私が何かを忘れる理由は大抵、嫌だから、なのである。嫌なことが起きて、私自身のことも忘れた私が、勝手に振る舞っている。そういう時の私のことが大嫌いだ。もしいま近くに人がいたら、その人のことを大嫌いになっているかもしれない。誰もいないから、私は私のことが大嫌いだ!それでまた私のことを忘れて勝手に振る舞う、という悪循環。

何も考えずに書き始めたところ、思わぬ方向に流れつく日記となった。こういう内容は、書いていると嫌な気持ちが増幅するだけだ。苦しくなってきた。でもわかった。人生初(たぶん)のイヤイヤ期である…。寝よう。今日も何もできなかった。明日はがんばりたい。がんばらなきゃ。

追記:さっきこれ書いた時わりとキーッてなってたんだけど、布団でじっとしてたら、そろそろもういいかなという気分になってきた。妙に落ち着いている。

2021/02/18 おうち

ここ数日、寝すぎている。昨夜は0時半くらいから2時くらいまでこたつでうたた寝をし、そのまま電気を消して布団に入った。ぼんやりと目が覚めると7時40分で、それを確認して3秒後にはまた眠ってしまった。次に目が覚めたのが9時半で、20分くらい壁を見つめてから起きあがる。
お茶をいれてチョコチクを食べ、よし着替えるぞと思ってパジャマを脱いだところで、猛烈に眠くなった。このまま外用の服になればもう戻れないのだと考え、その時点でさっと目の前の服を着てしまえばよかったものを、なぜか着ることができず、下着のまま布団に戻った。次に意識を取り戻したのは、正午の鐘が鳴っている最中だった。

昨夜から今日にかけてだけでなく、ここ数日こんな調子で、暇さえあれば眠ってしまう。いや、暇さえないのに、だ。おかげで今日の午前中やるつもりだった仕事が何もできていない。いまもすでに眠い。明日は早く起きたいし、もう寝るつもりだ。ここ数日ぶんのやることが溜まってきていて、そろそろ池ができそう。
と、ここで、池を眺める想像をする。池ができるには凹地(おうち)が必要で、凹地があるということは高低差があるということで、高低差があるということは坂もしくは崖があるということである。うれしい。

ふぅ。ちょっとした嫌なことの積み重なりは、日々考えたり書いたりすることでなんとか向き合っているはずだった。だけど、いよいよどうしようも我慢できなくなってしまった。
わたしとうとう猫になれた!って思ったけれど、猫になったのはわたしじゃなくて、みんなのほうですね。ニャーって言ったのはみんなだから。わたしもただニャーって言いたい!ニャーだけを言いたい!

2021/02/17 こたつで丸くなる

眠いニャ。朝は起きられんし、お昼食べたら眠くなるし、嫌なことはちょっとずつあって、悲しい。この時間帯は安心する。ニャー。こたつで丸くなって、うとうとしながら小さな声で歌を歌っている。
ニャニャニャニャニャニャーンニャニャーー ニャニャニャニャニャニャーンニャニャー ノー、ノー、ニャニャーンニャニャーーニャーニャーニャニャーン ニャーニャーンニャニャー ニャーニャー・・・・・ニャニャーーー
なんの歌かわかったらすごい。わたしは、朝日を待ってはいないけれど。

2021/02/12 窓を開ける

今日はたまの一日休みだった。6時半くらいに目を覚ましたが、起き上がるのに3時間くらいかかり、9時半に宅配便が来たところでようやく起きた。顔を洗ってお茶をいれて、チョコチクを食べる。これがいつもの朝ごはんだ。

午前中。昨日から取りかかっている「富士見台の研究」の続きをする。「防災無線チャイムの研究」以来の遊びの研究である。実は去年の初夏くらいに一度手をつけたのだが、あまりに範囲が莫大でどこからどう視ようかと迷っているうちに今日に至ってしまったというわけだ。最近、坂道や地形の本を夢中で読んで、ようやく道筋が見えてきたので本腰を入れることにした。さらにいろいろ調べているうちに田中千尋先生という方の「日々の理科」という(人の名前のような)すばらしーーーーーいサイトを見つけて、夢中で(それはもう涙目で)読んで、(小石川植物園に行きたくなり、)いよいよ士気も高まってきた。
少し時間がかかりそうなので、気長に待っていてください。実際に行ってみるのが一番なのだが、時勢もあり距離もあり、なかなか出向けない。なにか情報があったらください。どこそこの富士見台からは富士山が見えたよとか。現地の写真とか。

研究と言えば、岡田淳さんの本を読んで感想を書く、というのも一昨年の秋~冬にやったのだが、あれはただの感想で止まっている。もうちょっとふみこんで研究してみたい。ヤモリが出てくるお話についての研究とか、そういう絞った形でいくつかやってみたい。しかし分類みたいな方法にならず、散らばるような感じで。
「岡田淳さんの描く物語はなぜこんなにすてきなのか。わたしたち(たち?)は何をそんなに好きなのか」という問いはずっとある。その時々で、こうじゃないかなぁと思ったり誰かとそういう話をしたりしてきたけれど、まだまだ見つけきれていないと思うのだ。そういうことを改めてじっくり考えてみたい。
作家さんで言うと、森絵都さんもむかしからたくさん読んできたのだが、「リズム」「ゴールド・フィッシュ」「つきのふね」あたりを読み返した。2月に入ってから、(むかしのように)ものすごく本を読んでいる。「つきのふね」はちょっともう…すごすぎて泣きながら読んだ。何度も読んでいるけれど、泣いたのは初めてだ。物語が変わったのだろうか(反語)。いま、わたしは智さんと同い年なのだ、と気づいた。
こうして夢中から覚めないようにしなければいけない。いつも夢中でいなくてはいけない。昨夜ふと、何をすればいいんだろうと思った。やりたいこともやらなくてはいけないことも山ほどあるのに、時々わからなくなるのだ。わたしは何をすればいいのか。その瞬間は、わたしにとってはすごく怖い。夢中になっているときは楽しい。しかしそういうときは極端な態度になりがちなので気をつけたい。そうならないために途中で歩いたりする。夢中で歩く。

今日も気がつくと13時だったので、お昼ごはんにして、いちばん暖かい時間に自転車で出かけることにする。家の近くの川を上流に向かって辿る。よく車で通る道を過ぎ、一般車両立ち入り禁止の砂利道をガタガタしながら通り抜ける。湖に近いこのあたりは勾配もかなり緩やかで、カモやバンなどの野鳥も川の流れと反対方向に向かって進んでいる。マガモのおしりを見た。さらにその先でカルガモが3羽そろっておしりを見せていた。カメラを構えてしばらく待ったが、再び3羽そろっておしりを見せることはなく、散り散りになっていった。
途中、別の川と交差する。川と川の交差点。ここは中学生のころ毎日通っていたのに、今になってようやくまじまじとその様子を見た。感激した。一度まじりあって再び別の方向に進んでいく。
線路橋を越える。このあたりから川は名前を変える。線路を越えるとすぐ、温泉管橋なるものが架かっている。人間は通行できない。写真を撮っていたら、越えたばかりの線路をちょうど電車が走って行った。この先は、山間部に向かって坂の勾配もきつくなってくる。川も勢いよく流れ出す。自転車をせっせと漕ぐ。さらにその先の国道を越えるといよいよ街から山へと突入していくことになる。が、今日は自転車なのでやめにして、この先は春になったら歩いて辿ることにする。かわりにさきほど交差しているのを見た「別の川」のほうを下流方面へ辿って戻る。
線路より山側の街並みは、歩くだけで温泉の匂いがプンプンする。件の「別の川」に注いでいるいくつもの水路に沿って、温泉管もめぐっている。このあたりは、道端にいくつも温泉の出る水道があり(勝手に使っていいのかは知らない)、一般の家庭でも蛇口をひねれば温泉が出てくるのである(権利を買う必要があるが)。同級生には、家にお風呂がなく共同温泉を使っている子が何人もいた。
川を辿って家の近くまで来ると、対岸の民家の庭にたくさんのフクジュソウが咲いているのが見えた。風や空気はまだ冷たい日が多い(今日はとても暖かかった)が、陽射しは春である。

家に着いて、暖かいので窓を開けて、コーヒーを淹れてぼーっとしながら飲んだ。格好つけてコーヒーを飲む人が格好つけてコーヒーを飲むのをまた眺めたいなと思う。ピアノの練習をして、明日の仕事の準備をした。溜まっていた積み楽譜(本と一緒で買ったきり未弾のものが多くあるのだ…)を減らした。いいメロディー、いい和音、いい曲がたくさんある。だけどやっぱり、もう誰にもブラームスみたいなことはできないのだ。できないし、しなくていい。好きなら真似して、それでもやっぱり違うものができれば、それはだからこそいいものになるのだろう。それから、最近、仕事で「あしたははれる」を歌う機会があった。けんたろうお兄さんとあゆみお姉さんの最後の曲だ。幼い頃いちばん好きな歌だったので、歌いながら泣きそうになった。だから、それを泣かないで歌う練習をした。
夜ごはんを食べ、いつもなら仕事から帰る時間にはすでにお風呂を済ませた。お風呂でふと、死んだ友達にはもう会えないのだなと思った。同時に、もう会わないだろう人達がたくさんいることにも気がついた。何が違うのだろう。みんな、どこに行ったのだろう。
お風呂から上がって、クリスマスのスウィーティーを食べる。12月に買ったのをもったいなくてとっておいて(腐らせないように見張っていた)、満を持して食べた。スウィーティーは、クリスマスの時期にしか売られない。ちなみに季節の果実と言って思い浮かぶ柿は、10~11月頃出回り、12月にいちど姿を消して、お正月に再びわずかに出てくることに近年気がついた。少なくともこのあたりではそうである。お正月の柿は大ぶりで種がある。

そうだ。わたしは窓を開けるのが好きなのだ。冬のあいだ眺めていた景色には、音がなかった。今日、窓を開けたときは、音があった。鳥の声、人の足音、車が走る音。風や匂いにも音がある。そういう音の中にいる時間が、窓から入ってくる。窓から、入ってくるのだ。泣きそう。そういえば、むかし、窓という漢字をなぜだかすっと覚えられずに「潤む心」と何度も唱えていた。

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