雨やどり


管理人室 -- 日記 -- 2021/01
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2021/01/31 窓からの眺め
2021/01/30 用意
2021/01/27 みどり
2021/01/25 天窓は光っている
2021/01/22 元気
2021/01/19 かわいがる
2021/01/17 犬・M・地震
2021/01/14 嘘つき
2021/01/13 雪かき
2021/01/11 春の準備
2021/01/10 したくない話
2021/01/07 思い思いに
2021/01/05 冬の海
2021/01/02 あなたしかいない
2021/01/01 いつも

2021/01/31 窓からの眺め

大丈夫です。まともに生きています。この日記でしかわたしに会わない人は、とうとう頭がおかしくなったとお思いかもしれませんけど、いまのわたしは、外に出ればもう、たぶんこれまででいちばんまともに生きています。最近の日記のようなことは、おそとでは一切しゃべっていないので、大丈夫。
しかしここだって、よく考えたら、いやよく考えなくても、おそとなのだ。もうちょっとまともでいるべきなのかしらね。それで、わたしの内面の話をひとつ、ここでするのは今日でおしまいにしようと思い立ちました。
まともっていうのはもちろん世間から見てということ。最近のここでのわたしが、わたしにとってはとてもまじめなことだと、わかってくれる人はわかってくれるはず。そう信じてもいるのですが。

翠(あきら)さんというのは、よくわからないけれど、むかしからずっとわたしの中だか隣だかにいる人で、それ以外の何でもないのです。むかしの日記(ここに書き始める以前の紙の日記)にも、翠さんと思われる人物はたびたび登場している。最近のわたし(ここ1年くらい?もうちょっと前から?)は忘れてしまっていたようなのです。
言葉遣いが変だな…いろいろな時のわたしがごちゃ混ぜだ。まぁいいや、気にせず続けよう…
2021年の1月は長かった。わたし、もう3月くらいの気分。きっかけは、そうだなぁたぶん、冬の海。冬の海を、思い出したこと。わたしの海への憧れは尋常ではなく、それはエビが好きとかとは全く違う次元で、本当にもう、憧れとか思い出とかいうしかない。でね、冬の海、という憧れ・思い出がありまして。それが、水平線を歩いて褒めてもらう、ということ(ちょっと前の日記に書いてある)。
たぶん忘れてしまったこともあるのだけれど、思い出したこともたくさんある。だから1月は長かったのね。その思い出の冬の海に、翠さんはいたのです。

結婚しようと言われてうんと答えたのには、わたし自身も驚いている。わたしは翠さんのことがすごく好きで、翠さんもわたしのことが好きで(このあたりはまたちゃんと思い出さなきゃいけない)、近くにいるとか遠くにいたとか、最初のうちはそう思っていた。でも、別々だったんだ、と気づいた。さっき「わたしの中だか隣だかにいる」と書いて、それも間違ってはいないのだけれど、本当の意味では、わたしと翠さんは別々。
別々というのは、それぞれが違うというより、ばらばらという感じ。散らばっているという感じ。

よし。もう翠さんという人の話はこれ以降ここではしないことにする。全体的に不明な内容だと思いますが…でも、どうなんでしょう。
わたしこれまで誰にもこういう話をしなかった。そして、これまで誰もわたしにこういう話をしなかった。だから、こういう話って普通はあるいはまともにはしないのだろうと思っている。けれど、どうなんでしょう。みんなはみんなで、こういう話を誰かとしているものなのかしら。

さて、ここまで書いてこの日記を公開するか迷っている。なぜなら、わたしのこういう感覚のようなものがいまの世の中にあるのかわからない。なければ受け入れられないだろう。しかし、受け入れられたいと思っているわけでなければ、受け入れられる必要があると思っているわけでもない。
でもね、共感してもらわなくてもいいのです、なんとなく共有してくれる人がいれば。立ち止まって声を上げずとも、窓から外を眺めるようにふ~んなどと思ってもらえれば、いいのです。と、話を引きのばしているのはちゃんと読んでもらわないためでした。長い話・知らない(わからない)話を好きでない人は多いようです。わたしは好きです。おしまい。

2021/01/30 用意

なんにも決めちゃいないのですよ。選んだわけでもなし。でもって、約束はあとひとつしかないのです。それも別にもう、しんどくはない。
翠さんのことは、実はずっとむかしから知っていたみたいなのに、最近のわたしが忘れていたんだって。名前を尋ねたんじゃなくって、夢から覚めたあと、まだ覚えているうちにその名前を日記に書いた。夢のわたしは、翠さんをちゃんと覚えている!
翠さんが結婚しようと言うから、うん、と言った。恐れていた日がきたのに、こんなことはなんの約束にもならなかったのでした。果たしていくためのものではないから。それに、別々、だから。あとひとつの果たしていくための約束は、果たされることも同時に約束した。(そうならば、約束はふたつということ?違うか。)用意した約束ではなくて、気がついたら用意ができていた約束なのです。そのことが分かったから、しんどくはない。
たったいまこの瞬間は名前だけがわかっているけれど(ほんとうはもっといろんなことを知っているはず)、どのシーンが重なっていたんだっけなぁ。

2021/01/27 みどり

ポヤ~ン



ポヤ~ン



その人、名前を、翠さんというのだそうです。翠と書いて、あきら、と読むのだそうです。

2021/01/25 天窓は光っている

もう布団に入っているのだけれど、目を閉じるとぐるぐるする。夜の明かりに酔いながら、スマホで日記をぽちぽちすることにします。
余談。このスマホも長く使っている。先日、「お使いの機種は2022/3で使えなくなります」というハガキが届いた。高3の秋にガラケーからiPhone5sにして、7年以上使っていることになる。2022/3までは使おう。こだわっているわけではなく、単に面倒なのです。余談おわり。

恋、かもしれない…。夢で、恋をしたかもしれない。また会えたらいいなと、目が覚めたあといつも思ってしまう。また一緒に日向のベンチを探せたらいいな。日向のベンチが日陰になったら、べつの日向のベンチを探すの。日向のベンチにくっついて座って、話したり話さなかったりする。

ベッドの対角線上に寝るのが好きだ。わたしの部屋は北向きだから、天窓がついている。夜は、本当はとても明るい。どんなに暗い夜でも、天窓は光っている。月の明るい夜は月の光が射す。月そのものが見えることもある。今日は雪が積もってきているけれど、それでもやっぱり天窓は光っている。
ベッドの対角線上に寝ると、天窓が、まっすぐな四角形からダイヤのようになる。ただそれだけのことが、とても、とてもうつくしいのですよ。

恋をしたら、このうつくしいけしきを見せたくなるものなのだろうか。見せたいと思わないということは、恋ではないのだろうか。
でも、うつくしいものはここじゃないところにもあって、わたしが見られないそれを、わたしじゃない誰かは見ているのでしょう?

ところで、夢のわたしが恋をしている夢の人は、いったい誰なのだろう。

2021/01/22 元気

元気とは、あったりなかったりするものなのだろうか。仮にあったりなかったりするものだとして、元気があるねと言われたことがあまりない。反対に、元気がないねと言われることは時々ある。そんなとき、いつも違和感がある。
例えば、体の調子がいいことを元気があると言うならば、あまり元気がない。気力とかやる気とかそういうものがみなぎっていることを元気があるというならば、これもまたあまり元気がない。しかし、別に私は元気がなくはないだろう、といま自分では思うのだ。
それはやはり、元気はあったりなかったりするものではないからなのではないか。ならばそもそも元気とは何だろう。全ての仮定は間違っていて、私の想像の中だけで正しく完結しているのだろうか。元気が何かもわからぬまま、今日も、愛しい人たちの元気を祈っています。

2021/01/19 かわいがる

私はその犬を確かにかわいがった。調べてみると、かわいがるとは「かわいいと感じて、やさしくあつかう」というようなことらしい。
かわいいと感じるのは簡単で自由だが、かわいがるのは難しい。私は犬をかわいいと思っただけでなく、かわいがってもいいのだと思った。かわいがるのが相応しいと思ったと言うほうが合っているかもしれない。犬もニコニコと笑った。

「やさしくあつかう」というのはどういうことなのだろう。私は優しいとよく言われる。実際どうかは如何とも言い難いが、よく猫をかぶっている(ニャ)のでそう言われるのはよく分かる。いずれにしても他人の言う私の優しさは、本当の優しさではなく怒らないという意味だろう。「いい子」の私は学校では怒られたことがなかったし、友達とも喧嘩と呼べるような喧嘩をしたことがない。だからだろうか、(表面的に)怒る習慣がなく、怒る必要もなく、そのせいで優しい人だと思われている。

話が逸れたが、少なくとも、かわいがるとは「怒らずに接する」ということでないことだけはわかる。ならば、どうしたらいいのだろう。犬にしたように、頭をなでる?ぎゅっとする?違う。時にはそうかもしれないけれど、いつもそうではないのだ。

かわいがるのは難しい。かわいいと感じるのは自分ひとりで勝手にすればいいけれど、かわいがるにはかわいがる相手がいる。どうしたらかわいがったことになるのかは、決まっていない。相手がいることに関しては、決まっていることがあるほうが不自然なのだ。かわいいと感じるのは自由だと先に書いたが、かわいいと感じるのは思っていたよりも不自由かもしれない。かわいがるほうが、実はもっと自由だ。なにも決まっていないんだもの。
しかし世間では、「かわいがる」ということが「かわいがる」という言葉だけで通じている。つまり、世間では「かわいがる」の意味はもうとっくに決まっているらしい。私だけがその意味を共有できていない。(甘えるなんかもそうよね、とふと思いました。)
こういうシーンに直面するたびに、とても怖くて心細い気持ちになる。そういうときに、(かわいがる側の話ばかりしていたけれど)かわいがられる側の気持ちを想像してみる。かわいがられているときに、かわいがられていると思うのだろうか、と。そうは思わなくても手が温かいとかそのくらいはわかるだろうと思い、ちょっと安心する。

2021/01/17 犬・M・地震

夢の中で、ある一匹の犬の頭をわしゃわしゃと撫でた。犬はニコニコ笑って、そのあとしばらく私と一緒にいたが、気がつくといなくなっていた。これは本当に夢の話だろうか。夢じゃなければいいな。とってもかわいい犬だったから、もう一度会いたい。
仕事で1ヵ月ぶりに山を越えてM市(ここよりずっと大きい街)に行った。せっかく来ても、用事を済ませて帰るだけで、どこにも寄らない。兄が前に住んでいた家(今はN市に住んでいる)の近くの喫茶店が閉業していた。ショック…。夢であってほしい。夢かもしれない。
私が生まれる1年以上も前、大きな地震があった。生まれていない私はそれを知らない。知らないけれど、知っている。こういうのは夢でもなければ夢じゃなくもない。強いて言うなら、ありきたりだが、歴史とか呼ぶのだろう。もちろんこれは、私にとっての話だ。ほかの誰かにとっては、夢じゃないもの・夢であってほしいもの・夢…だったりする。

2021/01/14 嘘つき

この1月もあまりよくない予感がする。ここに日記を書きすぎているときはだいたいあまりよくない時なのである。月別で見ると2019年10月がもっともよくなかったと思われる。2020年4月~10月も書きすぎている。
そう考えるといいときなんてそんなになかったし、いいときがないということは悪いときもないということになる。ずっと、ただ同じままなのだろう。たしかに変わったことももちろんあるのだろうけれど(たとえばさっき言ったような心持ちとか)、それはいいとか悪いとかとはきっと違う話だ。そもそも、いいと悪いがあるとしても、よくなるとか悪くなるとかいう発想は、考えれば考えるほど違和感がある。

髪を乾かしながら鏡に映る自分の目を見ていたら、怖すぎた。同じ時間にはいなくなるつもりの人とすごく先の話をして、信頼されてしまった。いつか私が裏切るのに(私が乗り越えなければいけないことについて、「裏切る」としか今は思えないのです。どうしたらいい?)、平気で嘘をついて笑っている。
いつもニコニコしているとよく言われると最近の日記にも書いたけれど、間違っていないじゃん。みんな別に、この人は許してくれると思ったのではなく、嘘つきだと見抜いたのかもしれない。私、そんなに嘘をついてきたかなぁ。どくどく。血がどくどく流れていくのを感じる。
私は悪い人間だし、それは目を見ればわかる。悪くなったということではなく(悪くなるとはどういうことかを見失いつつありますが、それはまた別の物語)、もとから悪い人間なのだと思う。それならば、悪いものが怖くて泣いたのは誰だろう。 

怖い。怖いから、よしよししてほしい。むかし、私の前で猫になつかれた人がいた。その人は猫をよしよししたっけ。

2021/01/13 雪かき

「おーけーぐーぐる、いま何時?」「時刻は7時17分です」「おーけーぐーぐる、今日の天気は?」「今日の○○は晴れるでしょう」喋ると起きる気になる。
12日の朝。アラームで目を覚ましてから30分。ようやく起き出してカーテンを開けると、ちらちらと雪が舞っている。降り出したところだった。離れのオレンジ色の屋根にうっすらと雪が積もり、とてもきれいだ。晴れる予報だし積もりはしないだろうと思っていたが、ハズレのようだ。午前中の仕事に出かけるあたりで、昼にいちど雪かきだなと覚悟した。

12時過ぎに仕事から戻り、昼食を食べ、よし!と言って(本当に言った)雪かきを始める。近所じゅうをかいた。ここくらいの田舎では、どこかの家が雪かきを始めたら他の家も出て行かなければいけないという暗黙のルールがある。しかし、うちのあたりはみな昼間に仕事や学校に出ているので、平日のこの時間は私ひとりだ。そういう場合、自分の家の前だけではなく両隣の家の前まではかく。これも暗黙のルール。いつのまにやら二軒隣の老夫婦もかき始めたのでそこも手伝い、一時間半ほどかかってようやく一区切りつけた。
まだ降っているが弱くなってきている。これから仕事になってかけなくなるからこのままやめばいいなと思っていたら、すぐにやんだ。おかげで夜もかかずに済んだ。

この日やって来た小さい人たちは雪で遊んだことを報告していった。一方の親たちは雪かきが大変!と言う。もちろん子どもだってするのだけれどね。昼間は職場や学校の雪かき、帰れば家の雪かきがある。私は職場と家が一緒だから、そのぶんいいのかもしれない。近所じゅうをやるくらいなんてことはない。
山のほうの学校なんて、それだけじゃ終わらず、夜に招集がかかって校庭のスケートリンクを21時半くらいまで雪かきしたそうなので、すごい。山のほうはそういうことが当たり前の土地柄(!)なのですよ。ここも山だけど山の中では街のほう(ややこしい)なので、そこまでではない。

13日の朝。久しぶりの肉体労働に覚悟はできていたが、思っていたより体の調子がいい。思っていたよりいいが決していいというわけでもなく、チョコチクを3袋(6枚)食べた。…ただの言い訳。

今日の日記は、ザ・日記だなぁ。本当は、書いたこととは別にずっと違うことを考えていた。この日記を書きながら、雪かきをしながら、雪道を歩きながら、都会の人たちの雪道の歩き方を思い出していたのである。そのシーンを思い出して、いつのことだったかを考えていた。手はもっと近くのことを書いていたみたいね。
もうそろそろ、近くとか遠くとかいう区別が、私の中でなくなればいい。私の知っているの素敵な人たちは、近く・遠くということを知りつつ、そんなことだけで分類せずに生きている。

2021/01/11 春の準備

クリスマスはもう終わっちゃったんだと唐突に改めて思い、同時に、またピアノを弾けたらいいなとも思った。クリスマスにピアノを弾いたのは、自分のためにとてもよいことだった。次のクリスマスにもかならず弾こう。それより前、桜の頃にも弾けたらいいなぁ。春の準備だ。
今年、いつものように提灯は出るだろうか。私にとっての春は、どちらかと言うと桜より提灯なのだけれど、桜のつぼみが膨らんでいくのは提灯のように見えなくもない(こじつけ)。それに、提灯が出されなかったとしても桜はかならず咲く。それを上手に待ってみたい。

花見と言えば、桜もいいけれどやっぱり梅だ。(さっきから桜をないがしろにしているようでごめんね。)梅は、花が咲く前に品種名を眺めておくといい。小石川植物園の「思いのまま」という品種の梅が満開のところを未だ見たことがない。つぼみと咲き始めの頃にしか行ったことがないのだ。私の誕生日頃がちょうどいいかしら。
ところで、「思いのまま」がどのような花をつけるかは知っている。小石川植物園のそれがどんなふうかだけを何年も想像し続けているわけである。知らないのとも分からないのとも違う。この曖昧こそが幸福な時間なのですよ。こういう時間を守るには、変えないことではなく、覚えていること。だから、いつか咲いている花を見ることもとても楽しみにしている。

こちらは春が遅く、4月に入ってからようやく梅が見頃を迎える。私はここにいるのだからその春をちゃんと待つべきなのだけれど、やっぱり2月終わり~3月上旬に見る梅が好きなのだ。ここではない場所の梅を想う。
ここではないどこか、か。みんなは元気だろうか。…みんな?「みんな」とは誰のことだろう。どうやら「みんな元気かな」と心の中で呟くのが癖になっていたようだ。今日もまたこのセリフを唱えて、その「みんな」が思い浮かばないことに気がついた。あの夜に忘れたことがこれでないといいなと願う。

忘れる癖は病気みたいなもので、役に立ったときもあるけれどほとんどの場合よくない方に動いているので、なおしたい。そのために日記をつけているのかも…。去年の夏頃から紙の日記も2年弱ぶりに再開して毎日つけている。しかし読み返したくないなぁ。何を言ってるか分からないんだもの。元気のある時にがんばって読み返してみよう。

2021/01/10 したくない話

11・23の日記に書いたのが前回で、ということは48日目。学生の頃は、安定はしていないもののだいたい許容範囲内だったけれど、学生でなくなってから(社会人という言い方を避けた。…と言ってしまったので同じこと)は、かなり不安定。確実に重くなってきているし。 病院嫌い、なんとかせねば…。私の場合、横になるとダメなので、眠くなるまで体操座りしていることにした。そういうわけで暇なので、体操座りで日記を書いています。
こういう話は誰ともしないことにしている。好きじゃないから。ほんとうはここでもあんまりしたくない。だから具体的な話はもうしないことにします。考えていたのは、生理の話に限らず「したくない話」のこと。

誰かにとってどの話が「したくない話」なのかは、いつも想像するように心がけているけれど、やっぱり難しい。初めて会う人の事情なんて何も知らないし、とても仲の良い人にだって私の知らない友達がいる。それでも、心がけている。
私にはたぶん、「したくない話」とか「聞かれたくないこと」がけっこういっぱいある、と最近気がついた。むかしから「いつもニコニコしている」というようなことをよく言われてきたけれど、それが相手にとっては「嫌だと思っていない」ということになっていたらしい。自分でも「嫌じゃない」ということにしていた時もあったかもしれない。
でももう、「嫌です!」と叫びたい気持ちだ。叫ぶと言っても、決して大きな声ではなく。そろそろ、そうすることを許してもらってもいいと思う。いいかや?

「したくない話」をしないために、もっと正直でいたい。嫌だって叫ぶためじゃなく、ニコニコするだけでいないために。「したくない話」というのは大抵、その話自体が嫌なのではなく、その話がされるシチュエーションや空気が嫌なのですよ。ひとりだと素敵なのに、大勢になって騒いでいると途端に興ざめするようなのと似ている。ハート柄でも花柄でもそうでなくても何でもいいし、柄の話は本当にどうでもいいなといつも思っています。

ところで、小石川植物園の梅が咲き始めていますね!(HPの開花状況で見た。)誰か、私の目で見てきてほしい。こういう話をしていたいです。

2021/01/07 思い思いに

2日前、ひとつ前の日記を書いた後で、この感じは前にもあったなと思った。めそめそしてそのまま眠った。朝になって目が覚めた時にはもうすでに何かを忘れていたのだけれど、それが何なのかは忘れてしまったので思い出せない。
何かを忘れてしまったかわり(?)に、ある日のことを思い出した。2019年のクリスマスの頃。コンサートが終わったあとで、みんながピアノの近くに集まって思い思いに音を鳴らしている。ある子は高いところ、またある子は低いところ。しばらく弾いていたかと思えばいつのまにかいなくなっていたり、ちょっとだけ触ってすぐに離れて行ったりする。少し離れたところではその子らの親たちが話している。私はどちらにも顔を出して適当に空気をまわす。そのうち、みんな帰って行った。

いよいよ身近になってきたという感じがする。時間にしても物事にしても、迫ってくると人間は「やらなくてはいけない」と思うらしい。しかし、それよりもすこし前に「やるしかない」とは気づけない。なぜ気づけないのかというと、自分以外のみんなも気づかないから。そして、やるしかないのにやらないでいると、今みたいなことになるのです。もう「やらなくてはいけない」ということだけが自明(この言葉、使いたくないのにわざと使っているのです…。皮肉?)だ。
あのとき、あとは帰るだけだったみんなが、ぽろぽろとピアノを弾いて行ったのは「やるしかない」ことだったのだろうと、今ふと思う。それは、彼(女)らにとってかもしれないし、私にとってだったのかもしれない。いや、人間ではない何かや、いつかにある時間、まだ知らない場所のためかもしれない。もしかしたら、そのすべてかも。

私の思う「やるしかない」は「やらなくても済む」といつも共にある。私にもいつかやるしかないと思っていることがいくつかある。さっさとやらずに待つのは、てきぱきするのには子どもの頃からの付き合いでいい加減疲れたし、「満を持して」って言いたいのだと思う(急に雑)。そういう意味でも、何かを途中で忘れてしまうのは悲しく苦しいです。思い出したシーンと忘れた何かとが、いつか結びつきますように。

2021/01/05 冬の海

海、冬の海。さいごはかならずそこに行こう。水平線のうえを上手に歩いて褒めてもらおう。にこにこ。冬の海、わたしの憧れ。

2021/01/02 あなたしかいない

「あなたしかいない」と人が言うとき、それはどういう意味なのだろう。私が好きなのはあなたしかいない?私が仲良くできるのはあなたしかいない?
私がそのセリフを頭のなかで言ったときには、私を忘れないでいてくれる人はあなたしかいないのだと強く信じていた。信じている…ではなく、信じていた。

そう、心から信じていた。そもそも信じるとはどういうことなのだろう。疑わないということ?思い込み(は敵!)と何が違うのだろう。違うことだけは分かるが、何が違うのか分からない。むかしは確かに信じていたことを、いま信じているのか分からない。だってそもそも、信じるということが分からなくなってしまったから。
私はいつも焦りすぎる。いまだって信じているのかもしれない。でも、そうでないことが怖くて、なんとか抑え込もうとする。どんな些細なことでも何かを心に決めてやり出すと、ものすごく凝ってしまう。疲れていることや偏っていることに気づかず、何としてでもそれを成し遂げようとする。

時間が過ぎるのを静かに待つこと。そういう修行なのかもしれない。だとしたら、ちょっと意地悪な修行だけれど。忘れられていることも、そうなのだと確かめることも怖い。そういうことを胸に思いながら、やっぱり信じているかもしれない、などと思ってしまうのである。そうやって静かに待つしかない。
静かにと言っても、歩きまわったり喋ってみたり、またそういうことをたくさんできたらいいと思う。いまはたったそれくらいの勇気すらないのですけれど。
ふと思った。もしかすると、私が忘れないでいるしかない人はあなたしかいない、のかもしれない。

2021/01/01 いつも

年が明けたのね。「いつも」と何も変わらない気がする。クリスマスまでの期間、私はフワフワと嬉しい気持ちで過ごしていた。電気を消した部屋でツリーに巻きついた光る電球たちを眺める時間は永遠だと信じていたし、イブには無事ピアノを弾くこともできた。あの日は本当に、「特別」だった。それに比べたら今夜はなんてことない。年が明けて3:30を過ぎたところだけれど、よくある夜更かしに過ぎない。
年末2日間は仕事がなく、「いつも」と違うと言えば違うが、大した差はない。「いつも」にあるもののことを考える。クリスマスが過ぎてからぼんやりしている。「特別」なことがない日にだって、何もないはずはないのに、何もないような気がする。

「いつも」にあるものは「覚えていること」だろうか。覚えていればそれはあるし、忘れてしまえばない。とすると、あの春の散歩は今ここにはないけれど、私の「いつも」にはあるはずだ。イブのピアノも、あの夜にとっては「特別」だったけれど「いつも」きちんとあるということになる。不思議なのは、「いつも」あるのに毎日はないかもしれないところだ。そう考えると、「いつも」になるための「特別」は素敵なのだなぁ。
もはや、覚えているそれらは、過去のことに限らず未来のことでもいいのではないかと思えてくる。覚えておきたい未来がたくさんある。

遺書にはそういう未来を書き残しておきたいものだと思う。死にたいとかいうことではなく、死ぬしかないと思うときが必ず来ると信じている。何事もそうするしかないと思ったときが潮時だ。とうとう約束事がなくなる日のことを、今の私はたぶん覚えている。

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