雨やどり


管理人室 -- 日記 -- 2020/12
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2020/12/25 アドベント/ツリー
2020/12/23 朝5時
2020/12/19 2パックの苺
2020/12/16 帰る家
2020/12/13 花火
2020/12/10 リハビリ
2020/12/06 えびせん
2020/12/04 プレゼント
2020/12/02 コンタクト最終日

2020/12/25 アドベント/ツリー

12月に入ってから1月のような寒さで、雪もちらちらと舞った。1年のうちでクリスマスがいちばん好きだ。クリスマスの何が好きかと言えば、やはりその雰囲気だろうと思う。光る飾りや、あちこちから聞こえるキャロル。11月終わりか遅い年でも12月頭にはアドベントが始まる。しまい込んであった飾りを出してきて、サンタクロースには手紙を書いて、当日はどう過ごそうかを考える。そういう時間もいい。いや、“も”ではなく、そういう時間こそが、クリスマスのこのわくわくとした雰囲気をつくっているのかもしれない。つまり「準備をして待つ」ということだ。
去年は本番やら何やらでとにかくバタバタしていた。今年はそういうったものが軒並みなくなったせい(おかげ)で、アドベントらしくその期間を過ごすことができた。

ピアノを弾こうと決めて練習をして、イブに30分間、自分のために弾いた(本当は、さいごの数分だけは誰かのことを想って弾いた)。スウィーティーを食べた。果物の中でならたぶんスウィーティーがいちばん好きだと思う。時季も短く値段もするし食べられる部分は少ないのだけれど、クリスマスにはかならずいつもある果物。わたしにとってはクリスマスの象徴なのだ。自分で剥かないスウィーティーはスウィーティーではない。せっせと剥いてゆっくり食べた。決めておいた本を読んでいるうちに日が変わった。メリー・クリスマス🎄
お返事がない人からはお返事がないまま1か月以上が経ち、思い出さないようにしていたのだけれど、クリスマスに浮かれてふと思い出してメッセージを送った。ちゃんと届いているか不安だったし。しかしこれにもお返事がなければ、私はとうに忘れられてしまったということだろう。寂しいが、どうすることもできない。
夜が明けた。そんなに寒くはない朝だった。昼頃ちらちらと雪が舞い、何年ぶりのホワイトクリスマスだろうと思う。積もりはしなかったけれど。午後は冷たい風が吹いて朝より寒く感じた。ケーキを買いに行くことにする。仕事から戻って、夜ごはんのあとにそれを食べた。お風呂から出て、さらに洋梨を食べた。とても甘い洋梨だった。

クリスマスが終わったら、人々はどうするのだろう。私は、明日も明後日もまだクリスマスツリーを飾っておく。本当はこのままずっと片付けてしまいたくないのだけれど、来年また出す日のためにしまっておくのがいいだろう。だけどあともう少しだけ。そしてとうとうクリスマスツリーを片付けて、すべておしまいにしようね。

2020/12/23 朝5時

朝5時ごろ一度目が覚めてそのあと見た夢はとてもつらかった。いいこともあったが、悪いことがとてもつらかった。車をなくして探し回っている。青い車がないか見渡すが、あっても私のではない。車がないから会いに行くと言った人のところにたどり着けない。それで電話をかけるが、私がいつまでたっても行かないからその人は少し怒っている。その人と仲良くしているところを見かけた別の人からは恨みのメールが来る。
夢の最初、私たちは手を繋いで歩いていた。友達が私だけを少し離れたところに引っ張っていき、誰なのかと問いただす。好きなのか、と。誰なのかには答えず、好きだと言った。夢でなくてもその人のことを好きだと他人に言ったのははじめてで、目が覚めてからそのシーンを思い出して「好きなのか…」と呟いた。
その隙に、私の「好きな人(と自分で言ったのでそういうことにしておく)」はどこかに行ってしまった。 知らない人からの言伝で、隣町の100円ショップに行ったことを聞く。すぐに電話をかけると、そこで会うことになる。遠いと言って笑い合う。それから車がなくなったというわけ。
仕事以外でこんなに電話をかけることはない。やっぱりうまく喋れなかった。車がなくなったことを伝えられないまま「ごめんなさい…」と小さな声で言ったが、声が小さすぎて聞こえていなかっただろうと思う。そこまで行く方法は他にいくらでもあったことには、夢では気がつけない。(怒りながらも)まだ待っていてくれたことだけが最後の光だった。

常々言っておりますが、他人の夢の話ほどつまらないものはない。長くなるとなおさら。読み飛ばした人は正解です。しかし、今朝の夢はあまりに現実に近く、日記に書いておこうと思った。そうしたら、いつも日記に書いていることだって、現実だと思っているだけで本当はすべて夢なのかもしれないと思えてくる。いいことも悪いことも。

さて、いよいよ本当にもうすぐクリスマスですね。年中クリスマス気分の私ですが、アドベントの期間は「準備をして待つ」ということをしだします。今年は、イブに私自身のためにピアノを弾けたらいいなと思って、曲を決めて(プログラムまで作ってしまった!)練習してきました。いい時間になりますように。

2020/12/19 2パックの苺

いただいた2パックの苺(愛知県産)のうち、1パックがとっても甘かった。少し前に連弾の約束をしていたのは、私がピアニストをしている合唱団の指揮の先生で、ブラームスのカルテットの連弾版(ハーード!)で遊んだ。その時に手土産として苺を持ってきてくれたというわけ。
今日はその合唱団の練習だったから、苺のお礼をした。1パックは甘かったことと「もう1パックは普通でした」と伝えた。1年前なら、もう1パックが普通だったことは伝えていないだろうなと思う。

1年以上にもなると(なのか)、指揮者が心に歌っている音楽が自然とわかるようになってくる。指揮者の技術なのだろうか。慣れもあるのだろうか。とにかくわかってきて、それが私が持っている音楽と近いかもしくは通じるものであるとき、とてもうれしい気持ちになる。同じ、ということは決してないのだけれど。

そういうことが音楽ではないシーンでも起こったことがある。思い出すのはそういう日々だ。苺の話は今日のことだからこうして日記にするけれど、書かないだけでそこからほかの出来事をいろいろと思い出しているのである。そもそも日記に書くようなことは後であんまり思い出さない(私の場合)。 でもいつかは思い出すのかもしれないし、いま思い出すシーンは実はむかしの日記にあることなのかもしれない。
音は消えたし、苺はもうない。それなのにその話をした私たちだけが今日もまだ在る。いつかこのことも、ほかの出来事の最中に思い出すだろうか。

2020/12/16 帰る家

「押しボタンをおす」は気にしてみると変な気もするけれど、気にしなければ気にならない。そもそもボタンといえば、押すもの以外に服についているあれがある。押すほうのボタンは確かに「押しボタン」と言うけれど、服のほうはそういう呼び名を聞いたことがない。「掛けボタン」とか「留めボタン」とかになるのかしらね。「押しボタンをおす」と書いた人は、たぶん、ただそれらを区別するために「押しボタン」としたのだろう。それか、そんなことは考えずなんとなくそうしたのかもしれない。むかしの人が作ったものをそのまま使っているのかもしれない。「ボタンをおす」でも通じると思うけれど、まあ、なんでもいいや。
くだらないことを長々と書いてしまった。実はこんなことはどうでもいい。私が思うのは、「押さない押しボタン」はあるのだろうか、ということだ。「押さない押しボタン」は押さないのならもはや押しボタンではないのだろうけれど、そういうことではなくて、とにかく「押さない押しボタン」なのである。 押さないボタンでもなく。(わかる?)このところ、そういうことをずっと考えている。

家に帰ることが恐ろしい。いま住んでいる家は好きだ。帰るということもすてきだと思う。しかし「家に帰る」ことが恐ろしい。「帰る(べき)家がある」と言えば少しは分かりやすいだろうか、そのことが恐ろしい。だから、いま住んでいる家もすぐ近くに新しく建てた仕事用の家も、私の家ではあっても「帰る家」だとは思っていない。「居る家」でもない。強いて言うならば「行く家」あるいは「通る家」といったところか。
しかし、帰る家はきっと誰しもにある。そこで考えたのである。「帰る家に帰らない」ということができるのだろうか。というのも、帰るべき家を見つけてしまったのだ。見つけたと言っても本当はずっと前からそれはあった。最近ようやくその存在を「帰る家」として確信した。確信したというのは、分かっていたことを心に言葉として思ったということだ。私の愛すべき「帰る家」は、よく動く。明日には今日と同じ場所にないだろう。どこにあるかも分からない日もあるだろう。
手っ取り早いのは「帰る家をなくす」ことで、これまではそうしてきた。そうする以外に思いつけなかったから。これからは、「帰る家に帰らない」ことを上手にしてみたい。できるかしら。心細さもある。 しかし、それができるという想像(未だ想像であっても)は、帰る家の電球にはじめて明かりを灯してくれた。
帰る家のほうは、「帰らない私が帰る」のを待っていてくれるだろうか。

2020/12/13 花火

冬の夜に上がる花火など見る人はないだろうと思っていたら、マンションの前に二人組が寒そうに立っていた。さらに、旅館がいくつかある通りに差し掛かると、大勢が横断歩道を渡っている。歩車分離式の信号は、渡る人がいなければはやく変わるのに、余計に待つことになった。数ある花火という歌の中で、「雨は夕方やんで約束は消えなかった」と歌ったものがいちばん好きだ。夏に上がらなかった花火が、冬に上がる。今年の思い出はそんなところだろう。
信号と言えば、名前のついていない信号がある。ある信号機が新しくなった時、「押しボタンをおさなくても歩行者用信号が青になる方式に変わりました」という看板があった。前にも似たような看板を見たことがある。見つけるとつい写真を撮ってしまうので、むかしのフォルダを探せばあるだろう。新しくなったそれらの信号機には本当はもしかしたらもっと短い名前があるのかもしれないが、誰も使わないそれは、もちろん看板にも使われない。ところで、「押しボタンをおす」というのは「頭痛が痛い」みたいだ。

そうそう、クリスマスツリーが届きましたよ。うれしい。飾りつけをして、光る電球を巻きつけた。日が沈んだ後、部屋を暗くしてそれをしばらく眺める。昨日も今日もそうした。明日もそうするだろう。しかし、ここが私の帰る場所だとは思っていない。そのことはもうずっと前に分かっている。魔法があるなら、の話だけれど。

2020/12/10 リハビリ

ドアベルが鳴って扉を開けると、知らない女の人がいた。手には束ねた棒を持っていて、その一本一本に膨らます前の風船がくっつけてある。
「英会話……0歳から5……いませんか?」しまった。ぼんやりしていて聞き逃した。よっぽど間の抜けた顔をしていたのだろう。その人がもう一度言う。「英会話スクールで、このあたりをまわっているんですけど、0歳から5…のお子さまに風船をお配りしていて。お宅にいませんか?」今度は聞き取れた! しかし、一瞬ぼんやりしたせいで5歳か5年生かどちらかわからない。いずれにしてもいないので「すみません、いません…」と答える。
ほっとしたのも束の間、さらに「このあたりのおうちにお子さんていますかねぇ」と追い打ちをかけられる。0歳~5年生ならいるお宅もあるが0歳~5歳はどうだろう、などと考えている間、しばらく黙ってしまう。なんとか「えっと、すみません、わかりません…」と答えた。そのあと別れの挨拶的な何かを言われた気がするが覚えていないし、私ももう何も言わなかったと思う。

リハビリが必要。よく知った人と会うときや知らない人でも会う覚悟ができているとき、それ以外でとっさに頭が働かなくなっている。例えば、友達と電話で話す想像をしても、何を話すのか全く思い浮かばない。お店で知らない人と話す場面で、何も言えずにぼんやりする自分の姿がありありと浮かぶ。 前にもこういうことがあった。
こういうときは友達への返信も怠りがち…。メールやラインをちゃんと返しているかと心配になりチェックした。大学時代の知り合いから「結婚と出産の報告もかねて年賀状を送りたいから住所を教えてくれ」とのラインが3日前くらいにあったのを返していない。そんなに仲が良かったわけでもなく、大学を卒業してから一度も会っていない上に、年賀状など大学時代含め一度もやり取りしたことはない。 いわゆる既読無視というやつのままこれからも返す気は起きないだろう。あとは返してあった。

ラインを見返していたら楽しい約束を思い出してニコニコしている。新しい家に遊びに来てくださいと誘ったお方が「連弾の楽譜ある?ちょっと遊びで弾こうよ」と言ってくれたので、エビのスタンプを送りつけた。私は「約束」というものをとても恐れているけれど、世の中には必ず果たされなくてもいい約束があるらしい。するためだけの約束。あとになって、果たされなかったな、などと思って遠い目をするのだ。そういうのが、楽しい約束。もちろん約束は果たされてもいい(し約束が果たされてなお続くのならもっといい)のだけれど。
クリスマスツリーが近々届くことになっている。果たされないかもしれない。しかしもし約束が果たされて届いたのなら、ずっとそのクリスマスツリーを飾っておこう。まだないクリスマスツリーは、リハビリにちょうどいい。

2020/12/06 えびせん

私がエビを選ばないのは、私がエビだからだ。エビを見ると私を思い出す人がいるとして、その人が何をみても私を思い出すようになったら怖いだろうと思う。いや、誰かが私を思い出すことよりも、その反対、私が誰かひとりだけを思い出すことのほうが怖い。ある一瞬に思い出すのはひとりでいいし、また違う瞬間に思い出すのは別の人でありたい。思い出が増えていくことは怖い。本当はすてきでよいことのはずなのだけれど、それを上手にできないことが怖いのだ。
ならば私が何を選ぶかと言えば、エビ以外ということになるだろう。そして、みんなもそれぞれに何かを選んでいく。みんなの選ぶ何かに私はなろうとしているのだろうか。それとも、誰も選ばない何かを探しているのだろうか。私が緑を選んだ時に思い浮かべたのは、緑の人のことだった。緑の人は緑を選ばない。私がエビを選ばないのと同じように。つまり、みんなの選ぶ何かになることはできないし、誰も選ばない何かは見つけるのが難し(く寂し)い。
また会えたらいいな、と心の底から願う。

2020/12/04 プレゼント

昨日、小さい人間たちが「クリスマスに何を貰う?」という話をしていた。言いだした子は時計を貰うそう。ひとりはまだ決めていないとのこと。もうひとりは「ちょっとやばいものを貰う」と言う。みんなで「え~?なに~?」と言うと「お金」との答え。ほぉ…と思っていると、ほしいものが発売前らしくそのためのお金らしい。なるほど。
ある子が「先生は何を貰う?」と聞くので「貰えるかな~」と返すと「貰えるよ」と言ってくれた。その子のお母さんも貰っているんだって。そこで、かなり真剣に考え込んでしまった。クリスマスに何を貰うか…。
私自身が今より小さかった頃のことを思い出していた。クリスマスの朝、暗いうちに目が覚めてしまうのだけれど、明るくなるまでベッドの中でじっとしている。ようやく日が昇ると階段を駆け降り、プレゼントの包みを見つける。切ってお皿に置いておいたリンゴは無くなっていて、お礼の手紙がある。 包みをもってベッドに戻り、兄弟たちと包みを開ける。学校のある日は、包みを開けるのは学校から帰ってからの楽しみにとっておく。そのほうがゆっくり楽しめるから。クリスマスの気分の中にある、包みを開ける瞬間。そういう瞬間は、決して忘れることはなく、ずっと私の味方になっていると思う。
さて。何が欲しいか、まだわからない。クリスマスまでまだ少し日があるから、ゆっくり考えよう。ところで、クリスマスにプレゼントをくれるのはもちろんサンタクロースだ。そんなことは当然すぎて、誰も何も言わなかった。

2020/12/02 コンタクト最終日

やはりか。やはり、2週間のコンタクトを3週間使っていた。数日前から目がしばしばするのは、空気が乾燥しているせいだろうということにしていた。コンタクトを変える日が過ぎているのではないかと薄々勘づいてはいたのだが、コンタクト最終日に執着があるのだ。ただそれだけの理由で気づかないフリをして過ごした。ペッペッと外して捨てるだけの日は、夜更かしをしてもいい気持ちになる。火曜日の夜がよかった。本当に、ただそれだけの理由だ。
12月になった。するべくして夜更かしをし、クリスマスの映画をみた。静かな夜更けだった。幸せである。クリスマス・イブにわたしだけのためのコンサートのつもりで密やかにピアノを弾くことを決めた。曲目を決めて練習をしている。楽しい。
クリスマスの気分や雰囲気は、ずっとある。だからいい。ほんの一瞬が素晴らしいときはもちろんすてきだけれど、そういうのだってある空気の中に存在するから美しいのであって、それだけがただポツンとあるところはもしかしたら少し寂しい。冬の街を散歩すると光る飾りがある。華やかなショーウィンドウを眺めて歩く。想像する。どんな音楽を聴いて(あるいは歌って)、どの本を読むか、何をみるか。そしてもしそこに一瞬があったら、それはずっと忘れないでいたいな。

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