雨やどり


管理人室 -- 日記 -- 2020/09
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2020/09/30 いい日
2020/09/27 流行
2020/09/24 寂しそうな柿
2020/09/21 悪夢と午後
2020/09/20 ぐるぐる
2020/09/18 暗い階段
2020/09/16 邪悪とバランス
2020/09/13 すてきだと思う
2020/09/09 海・竜
2020/09/06② 弧を描く
2020/09/06① 黄色いバケツ
2020/09/01 ソテツの坂

2020/09/30 いい日

今日はとってもいい日だったのに、とってもいい日、だったのに、きゅうにたいちょが悪くなって、だめかもしれにゃ これでもう会わなんでもいいし 冷たい水があったかくてね 目をとじるとぐわんとするのでじっとして待つ

2020/09/27 流行

自殺は流行る。わたしが中学生くらいのころかな?子どもの自殺がたてつづけにあったことがある気がする。
生きる理由が、約束を守るためではなく、何もなくなっても生きていけたらいいなと思います。そういう場所まで広がっていく途中だといいな、今が。死にたいと思ったことがない(という話どこかで誰かにしたっけ?していたら嫌だな…)のは、わたしが死んで悲しむ人がいることが怖いから。思い上がりかも思い込みかもわからないけれど、数人は悲しむだろうな。それから、果たしていない約束がずっと変わらずそのまま在ることを想うと、恐ろしい。そういう中で勝手に死んでいくことが怖いです。
勝手に、か。「勝手に」ということをあまりにもしないのもバランスが悪いかしら。と、ふと思った。みんな(全員ではない)にはもっと、勝手に、しあわせになってほしい。以上、思いつきの段落。

果物を食べずにはいられない病気にかかった。かもしれない。
きのう:キウイと柿を食べ、梨を食べ、レモンジュースをがぶ飲みし、ぶどうジュースをごくっと飲んだ。
きょう:巨峰を剥き剥きパクパク食べ、ぶどうジュースをごくごく飲んだ。さらにぶどうニュースをがぶ飲みした。

明日は銀行3つ(か4つ)まわります。自転車で行こうかなぁ。梨を食べたいが我慢して寝る。

2020/09/24 寂しそうな柿

散歩してきました。9月に入って夜にも散歩することが増えた。街灯がなくて何も見えない。スリリング。すこしまえ、21日の昼間の話。散歩していたら名前を呼ばれた気がしたのに車が一台走り去っただけで誰もいなかったのだが、あとで中学のときの同級生から「さっき呼んだ」とLINEがきた。成人式で会ったのが最後だから、4年半ぶり。そういえば春にも、散歩途中で高校のときの同級生に名前を呼ばれた。高校卒業以来会っていなかったから、6年ぶりだった。
みんなわたしのことおぼえているんだな~と思ってうれしくなる。もしかしたら忘れていたかもしれないけれど、見かけて思い出してもらえたのならうれしい。見た目がそんなに変わっていなくてよかった。それからなにより、そういう瞬間にとっさに声をかける判断をしてもらえたことがうれしい。わたしだったら、あっ……と思っているうちにそういう瞬間が過ぎてしまうかもしれない。
こうやってどこかでかかわった人たちとふと会えるから、散歩はいい。

でもね、声をかけてくれたふたりとも、すごく仲が良かったわけでもないから、ごはんでもいこうかとか、そういうことはない。幸いいちばん仲の良いふたり(いちばんなのにふたり)は同じ県にいるけれど、8月に3人で会ったときは「みんな東京にいる」ということで意見が一致した。いつか東京で暮らしたいね、と高校生のような会話をした。もちろん、高校生の頃はそんな話しなかったけれど。3人とも、何かを置いてきたわけでもなく、選んでここにいるのにね。
これまでにいろいろなシーンでかかわってきた人たちはいるけれど、なんだかわたしには友達がいないような気がする。エビのスタンプを持ってるのですが、送れる人がこのふたりくらいしかおらず、あんまり使ってやらないのもかわいそうだからわたしひとりのグループ(?)ラインをつくって放つ始末。LINEのエビ友達がほしい。

ところで柿の話(はじめからこの話をしようと思っていたのにエビ…)。きのう、柿の箸置きが売っていてね、きゃーかわいいー!とひとつ手に取ったらとっても寂しそうに見えたから、もうひとつ買ってしまいました。おなじ日の夜に、ちょうどよく熟れている柿を食べることにしてまるっと皮をむいて(果物はやたらに小さく切ってはいけない)お皿に乗せたら、やっぱりとても寂しそうだった。もうひとつ…はさすがに食べ過ぎかしらと思い今度はやめておいた。
そうしたら、寂しそうな柿が心にひっかかって、なかなか眠れない。もしも、この世界のバランスが、片方がなくなればもう一方もなくなるようにできていたら、柿がなくなって一緒になくなるのはなんだろう、と考える。うとうとしながらしばらく考えて、明け方に、孤独だ、と思い至る。これはわたしの感性の話なので、正しいとか間違いとか良いとか悪いとかではないのですが。
でもいまわたしたちがいるこの世界は、柿がなくなっても孤独が残る。そしてそれが、ふつう、のことらしい。いつからそうでいつまでそうなのかわからないけれど、どちらかに傾いたり一方だけがなくなったりする瞬間に、何ができるかなと思う。今度こそ、あっ……と思っているうちにそういう瞬間が過ぎてしまわないようにしたい。
ちなみに、反対に、そういうふうにバランスをとらないはずのものがなぜかバランスをとっていて、それが崩れるたびにワーワー大きい声で何やら言う人が現れる、なんていうのもよく見かけますね。

10月末~11月頭、どこか行こうかな。レッスン棟のお引越しでバタバタしてるかな。

2020/09/21 悪夢と午後

昨夜の嫌な気持ちを引きずったまま眠ったら、嫌な夢を見た。泣く気にもならないほど嫌な夢。自分のきたない心が、わがままな所が、すべて詰まったような夢だった。その醜態を、一番さらしたくない人の前でさらす夢。途中から夢だと分かっていたのになかなか覚められず、9時過ぎにようやく起きた。
ホットケーキを食べて、テレビをつけてすぐ消した。マスタード寄りミモザっぽイエローの布地でスカートをつくる。今みたいな秋に着てもいいし、春にもいい色。秋より春のほうがいいかも。冬の雪の日に着るのも暖かみがあっていい。田舎の夏にも合うな。とにかく、いい色の布を見つけた。何度も作った型。だけど、今日はいつもよりひとつひとつの工程を丁寧に進めていく。お昼には完成。
昼食にエビ(大好物)を食べ、録画してあった「アンという名の少女」を観る。アンもマシューもマリラも、原作のイメージ通り。グリーンゲイブルズのある地もうつくしい。

コーヒーを淹れようと思い立つ。いや、やはり、外に飲みに行くことにする。秋晴れ。秋の風。清々しい午後3時半。まっすぐ歩けばたどり着くものを、わざといろんな道を歩く。気がつくと喫茶店の前にいる。目指してここまで来たのではない、という事実が欲しかった。コーヒーを飲みながら読書。お彼岸だから?、と笑いながら、こじつけのくるみ餅をつけてくれた。おいしくいただく。
40分くらい経った。お会計をして、駅のほうをぐるっと回って歩きながら公園まで来た。マスクをした人が多い。私はしていない。そうか、連休かと思いだす。時計台の前のベンチに座って、木を通した西陽のもと読書。17時の鐘が鳴る。20分くらいして寒くなってきたところで、また歩き出す。
夏になって家の近くに住み着いた竜は、少しずつ蒸発して消えていくように見えた。秋である。冬になればすっかり消えてしまうだろう。来年の夏、また戻ってくるかしら。
そういえば、散歩の途中、誰かに名前を呼ばれた気がした。周りを見回すが、車が一台通り過ぎただけであった。

SNSを眺めたりしながら、夕飯は軽くすませ、ピアノを練習する。ついでに何曲か歌う。のどがスッとして気持ちいい。誰に聞かせるでもない歌。お風呂に入って、少しテレビを見て、読書することにする。そして、その前にこの日記を書いているというわけ。
ところで、いま読んでいる『ファンタージエン 秘密の図書館』(ラルフ・イーザウによる児童書。この名にピンとくる方も多いと思うが、そう、『はてしない物語』の前史という体裁)に、互いに補完し合う関係の話が出てくる。善と悪、黒と白、暑さと寒さ。それらは「どちらかを取りされば、もう一方も消えてなくなる」らしい。この物語では、虚無によってそのバランスが崩れ、世界が脅かされているという。
これを読んだら、このシリーズのほかの本とともに、『はてしない物語』も読み返そう。もう何度読んだかしら。読んだことのない本を読みたいという気持ちと同じくらい、いい本は何度でも読みたい気持ちが強い。エンデはファンタジーを描きながら、リアルの世界をかなりまっすぐに見ていた人だと思う。そういう人が描くファンタジーは、だからすごい。それは、形は違えど尊敬する岡田淳さんも同じなのだけれど、これはまた別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう。

今日みたいな穏やかな午後は、あの悪夢がなければなかったかもしれないと思う。そういう意味で、今日という一日もすべてバランスでできていた。いいバランスだったと思う。バランスを崩すものに立ち向かうことが、ほんの些細な形で、自然に、かわいくできたらいい。具体的には分からないし不安だし、ずっとそんなようなことを言っているけれど、今日みたいなバランス、忘れないでおこう。

2020/09/20 ぐるぐる

なにもできない気分。いや、気分ではなく、本当にできないのです。もしかしたらずっと「そうでない自分が嫌だった」のかもしれない。「そうである自分になる」のではなく…。
学生の頃は、なんだかんだ言って、結果がどうであれ姿勢ばかりが評価されていた気がする。それなりに真面目にやっていたから結果もついてきた。そういう仕組みになっているのだと思う。(こわ…)
いま(シャカイ)は、できないことは「できない」というだけだ。…そのままのことを言っている。なにかを作り上げるのに、その中でなにかを得ていくようなやり方はしない。なにかを得たり失ったりすることもあるのかもしれないが、そういうやり方をしないということである。本当は、ずっとそれでよかった。しかし、世の中の仕組みはそう簡単には変わらないだろうし、そもそも違和感を持つ人も少ないのだろう。
そんなわけで、いま、うまくいかず、そもそもあんまりがんばってもいない自分がとても嫌になった。がんばったところでうまくいくのかもわからず、胸がキュッとする。でもやらねばならない。不安で身が入らない。

何かになりたいとか誰かのようになりたいとか思うことはないのだけれど、何かや誰かをすてきだ!と思うことはある。同じようにでなくていいから、すてきでいたい。最近の私は、しかし、それとは遠いところにいる気がする。うまくいかない。そのことも嫌だし、そもそもそうなっている原因(?)そのものも嫌だ。あぁ、こんなふうに「嫌だ」という気持ちで生きているのも嫌だ…。あぁ…。

今日は車で少し遠くまで出かけ、その道中ほとんどずっと、あるすてきな人について考えていた。すてきだと思った。そして、私はその人のことを好きなのだろうと思った。好きになるのにそのすてきさは関係があったかもしれないが、好きでいることにそれはあまり関係がないのかもしれない。だから安心して変わってほしいと思う。変わらなくてもいいけれど、変わってもいいと思う。
私は私で、変わらずにいなければいけないのだろうかと考えて、ブルーになっている。かと言って変わる気力もない。勇気も。とにかく何においても「気」が足りない。しかし、どうにかしてやる気とか覇気とかなにかしらの「気」を出せばいいという問題でもない気がする。はぁ、こんなことばかりぐるぐると考えていて埒が明かない。

2020/09/18 暗い階段

傘を持って外に出たら、雨は上がっていた。ふたたび降りそうにもなかったから、玄関に置いていけばよかったのだが、持って歩くことにした。22時。街灯がほとんどない田舎の道を歩く。鳥目の私は、暗い階段を降りられず、回り道をする。
高校生の頃からそうだった。ひとりでは暗い階段を降りられず、誰かにくっついたり誰かの手を握ったりしながら降りた。その人が今日はいないのだった。そしてまたしばらくいないままだ。

小学校の図書館。陽のあたる窓際。四角いやわらかいベンチソファ。いつもそこで本を読んだ。その頃にもどった心地がした。
高い天井のシャンデリア。見上げる私たち。夕方のタバコ屋。暗い見晴らし台。後にひとりで訪れる。ある街の思い出がまじりあう。
私にはできないことが山ほどある。だから、できることをやるしかない。それでも、もしいまここにその人がいたなら、この暗い階段を降りることだってできた。君がいるからできることもあるんだよ、と心の中で話しかけて、猛烈に寂しくなった。

猛烈に寂しくなる。そのまえの一瞬があるらしい。wafflesがそう歌っている。その一瞬を見逃さないでいようと思った。そしてそれが、小学校の図書館やある街だった。いつまでたっても寂しくならずにいられない私がこれから見る景色は、どんなふうになっていくだろう。また同じ景色を見ることもあるだろうし、まだ知らない新しい景色をいつかは見るのだろう。
サンダルの足で水たまりを踏んだ。歩きまわっているうちにいつしか家の近くにもどってきていることに気がつく。家の中は、外よりずっとずっと明るかった。

2020/09/16 邪悪とバランス

私は邪悪だ…。少し前に仕事関係で「辞めるつもりだ」と言った人は、なぜだか辞めないことになった。私以外のみんなは引き止め(それが普通ってことらしい)、その人は違うやり方で残ることを決めた。しばらくこれでやってみてうまくいかなかったらまた考える、らしい。…が、すでにうまくいっていない。引き止めたみんなは、やはり不都合が出て困っている。だからといって、引き止めなかった私がただしいかと言えばそうではない。だから言ったでしょうなどという気持ちは、みじんもない。結局、本人が自分で決めたのだ。ただ、そのバランスが悪い。
このバランスの悪さに対する私自身の気持ちが、とても嫌なもののような気がする。邪悪だ、と思う。邪悪でなくなればいいというわけでもなく、それもバランスなのだろう。

音楽はすごい。ひとつの和音のなかの縦のバランスと、それが繋がっていくときの横のバランス。呼応する旋律、必然性があり且つ自然な伸縮、しかも揺るぎないリズム。作曲者と演奏者の意思のバランス。もっともっといろんなシーンがあるけれど…。それらが調っている音楽が好きだ。だから私はブラームスが好きだし、私自身が弾くブラームスをもっと愛せるようになりたい。
世の中も、本当は同じように調っているはずだ。そうであってほしいと思う。それを無理に捻じ曲げなくていい。「学ぶことは真似ぶことだ」と尊敬する人が仰った。私はこれからも学び続けていく。これからは、同時に、ほかにも学ぶ人々が大勢いることを信じてみたい。学ぶ人々つまり真似ぶ人々がたくさんいる。私や彼(女)らがうつくしい世界を見られますよう…。

しんどい。はっきり言って、しんどい。世の中のさまざまなバランスがガタガタになっているのを感じる。むかしそうでなかったかはわからない。が、少なくとも今はそうだという気がする。調えていこうとすればするほど、自分自身の邪悪さが見えてくる。なぜ。ほんとうにしんどい。しんどいが、調えていくほかない。
調え方。たとえば、本を読んだり写真を撮ったりする。きっといつか思いだす。たとえば、人と会ったり、歩いたりする。きっといつか思いだしてもらう。たとえば、素敵なものを信じる。かならず味方でいてくれる。

追伸:サッサと幸せを見せびらかしてくれたら、何の問題(しんどさ)もなく、いまを生きているのに!どちらがよかったかしらね。こういう発想は、もっとも危険な邪悪。

2020/09/13 すてきだと思う

階段・坂・海・竜・岡田淳さん・扉・朝風・散歩・手・公園・狭間・・・私がすてきだと思うものたちはみな、ほんとうにすてきだ。目を閉じるとあの日ーーもちろんそれはある一日ではなくいくつもの時間ーーの風景が浮かぶ。
明日にある約束が怖い。とても怖い。うっかり瞬きをしていろんなものを溢すなんてことがないようにしなくちゃ。すてきだと思うものを心の底からすてきだと、また思えた。余計に明日が怖くなった。うまくやっていけるだろうか。大丈夫だろうか。
すてきだと思う、そう伝えてみたい。勇気がいる。勇気が足りない。私はそんなにすてきな人ではないのだ。そのことに気づいてもほんとうに変わらないだろうか。変わらないとして、ならばなにが変わるだろう。

2020/09/09 海・竜

ことば(とくに動詞)について考えるとき、「そうでない状態から、変わる」としか思えない。という話を昨夜しかけたのですけれど。その続き、というか周りの話。
例えば、「歩く」というのは「歩いていない状態から、変わる」ということだし、「許す」というのは「許していない状態から、変わる」ということ。そうなると、もう、もともと考えていたはずのことばは、どうでもよくなってしまう。だけど、本当はどうでもよくない。だから、その近くにあるものやないもの、変わったことや変わらなかったことをよく見ておきたいと思う。
「あるものはある、ないものはない」と思って(あるいは願って)生きてきたのだけれど、最近、少し違うかもしれないなと思った。あるものがないかもしれない、とかいうことを言いたいのではない。そういうことにとらわれずに、海を眺めるような心もちでいるのがいい、少なくとも今は。と、直感した。

海。私はひといちばい海に憧れがある。物理的に近くにないこともあるし、海を眺めることはなぜだか感性みたいなものを意識させることもある。とにかく、海への憧れは、ときどき自分でも怖くなるくらいに強い。
よく海を眺めている。見えなくとも、眺めることができる。目に見えるものばかりを見るのではなく、ないものがないことを考えるのでもなく、いつだって海を眺めていられたらいい。私が海を眺めることは、詩とか歌みたいなものだろうと思う(詩と歌は、それぞれまた違うものだからひとまとめには言えないけれど…)。

竜。みんな、竜を知らないのだろうか?私にとって、竜はおそらく、海よりも身近なものだ。小さいころから竜の出てくる本をよく読んだ。そのおかげか、いい竜も悪い竜も、美しい竜も醜い竜も、大きい竜も小さい竜も、よく知っている。
姿をこの目で見たことは残念ながらまだないけれど、竜のいる気配を感じることは、特別なことではない。最近も、うちの近くに竜が住みついた。さきほど22時頃に散歩をしたらもう眠っているようすだった。
気配を感じる。それを意識的にしているのが、海を眺めることなのだろうか。もしこれまでの人生が、海に近い生活だったのなら、私の感性は竜に委ねられていたかもしれない。

それから、「変わる」ということにも、とても興味があります。この話はまた別の物語で。もうね、あるとかないとか、信じるとか信じないとか言っている場合ではない。私にはもう少し、「ひとり」になる時間が必要なのかも。

2020/09/06② 弧を描く

東京で乗っているオケは、今日から練習が始まった。2月が本番。こういうことは直前に言うととても迷惑がかかるので早めにいうべきだったのだけれど、昨夜ようやく、今回は辞退させてくださいとの旨をメールした。さっそく返信をいただき、ほかの遠方からの参加者もおなじような感じらしい。曲目や編成も見直そうと思っているとのこと。たしかに弦楽器なら何とかなりそうでも、管楽器はいろいろ飛ぶものね。
こちらでも合唱団の本番はどうなるかというところ。2つの合唱団でそれぞれ12月と5月に予定がある。どの合唱団でも東混が使用したマスクが話題だ。しかし、みんなそれぞれほかの場所でも生きているわけで、職場などから控えろと言われればそうするしかない。演奏会をするとしても、どのくらいの人がステージに乗れるのかしら。

9月に入ってから何日か、曇って蒸し暑いような日がつづいた。今日、きゅうに涼しくなって、秋の匂いがする。それで慌てて足の爪を塗りなおした。夜みたくしよう!と思って、左右の足のそれぞれ1本ずつにマスタードイエローを塗って、あとは紺に金のラメを乗せた。それを見たおかあさんに「とうとう魔女になったか」と言われた。魔女…!うれしい。そういえばこのあいだおかあさんの夢で、わたしが「地の果てに行く」と言って旅の準備をしていたらしい。
ペディキュアを乾かしているあいだにツイッターのさかのぼりいいね(キャー)をした。9月になったころ、もう9月、とつぶやいているかたがたくさんいた。それから、9・2は満月だったことを知る。
浮かれたまま、髪を切る。髪を切るハサミが見つからなくて、紙を切るハサミでジャギジャギと髪を切った。15センチメートルくらい短くした。顔まわりは短めにして、流して後ろから見ると弧を描くようになっている。指をとおした時、すっと終わってしまうのが嬉しくて、にこにこした。

さっき黄色いバケツの日記を書いたばかりで、いまここにそれとは違う人のような日記を書き、これからきっとまた違う人になって紙の日記を書いて寝る。

2020/09/06① 黄色いバケツ

死にたいと思ったことがない。
6月、準備はできたと思った。ある夜、歌をつくって絵を描いて、浮かれて、朝になったら死のうと思った。とても楽しく穏やかな心もちで、笑いながら眠った。朝になった。何も終わっていなかったことに気づく。しばらく絶望的な気持ちで生きることになった。それでも、死にたいとは思わなかった。
7月、深い絶望のなかに、ひとつの黄色いバケツを見つける。そこに水を少しずつ溜めていって(もちろん私の中の水を)、溢れて広がっていく想像をする。それは海かもしれず、その流れが飲み込むのは東京タワーだけではない。真逆にある何かまで濡らして進む。死ねないとは思ったが、だからといって死にたいわけでもなかった。
8月、東京タワーなど本当はないのかもしれない、と疑う。遠くにあるもののことをすっかり忘れそうになる。しかしそれらは、ある、のだった…。

9月になったそうだ。寒いが、まだ窓を開けておく。あるとかないとかではないのかもしれない。ないことを、もうそんなに怖くないなと思う。やっぱりちょっとだけ泣いたけれど、その水だってあの黄色いバケツに落ちていく。
死にたいと思ったことがない。ほんとうのおしまいは死ぬことではないだろうし、ほんとうにおしまいになったら、そのときこそ死ねるのだろうなと思う。私はきっといつまでも、死にたいとは思わずに、おしまいの準備をしている。

2020/09/01 ソテツの坂

眩誰かを攻撃する代わりに、ちがう誰かをかわいそうがるというやり方が、この世には存在するらしい。そのちがう誰かになりかけているかもしれない。いやだな。気をつけよう。…こういうのは、とても近くの話をしているよう(実際そうだね)で、虚しい。

小石川植物園のHPを毎日チェックしては、ときどき更新される「開花状況」にホ~~~とかキャーーーとかワアアアアとか言っている。早くまた行きたい。ここのところ(眠いわりに)よく眠れないのは、小石川植物園が原因かもしれない。もともと、小石川植物園のことを思うと夜も眠れなくなってしまうので。ザリガニ…ホヤムルティフローラ…思いのままの梅…(寝言)
たぶんこれからさき叶うことはないけれど、近くに住んで通いつめる想像をする。それは、いまのわたしにとってなによりも幸福かもしれない。

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