雨やどり


管理人室 -- 日記 -- 2020/06
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2020/06/26 いちご味
2020/06/25 うつくしい
2020/06/23 一緒に世界に
2020/06/22 幸福
2020/06/21 夏至の花見
2020/06/19 てんし
2020/06/17 ドの音がドの音
2020/06/15 たいちょ
2020/06/14 続・日向のベンチで
2020/06/10 元気ですか?
2020/06/07 sampist
2020/06/06 髪をまとめる
2020/06/01 しばらく

2020/06/26 いちご味

実のところ、ずっと、あんまりたいちょがよくない 疲れやすいのにとくにここ数日は動きまわりすぎた びょいんでまた、いちご味のフエラムネみたいなおくすりもらおかな やっぱりそれもめんどうだな くちの中があれて、耳の奥がいたい まえといっしょだ くわえて今回は、くちびるのしびれとほっぺの凝り(?)がある うにうに~ 両手でおおうようにしてほっぺマッサーージ 顔のかたちがすこし変わったかも もうちょっとまるっこいほうがかわいい

2020/06/25 うつくしい

てんし: この世界にすでにこういう歌がある(ここまでのことをやられてしまっている)ことは、わたしがもうなにをやっても意味がないという絶望だね 歌だけじゃなく本や人にたいしても感じるこの絶望を、これまで「好き」と呼んでいたのだなと、ふとおもう もうなにも好きじゃないという気ぶんもわかってくれるでしょう? だけど、その絶望といっしょに心の底から願っている これがいまのわたしの気持ちだよ そうやってまた、うつくしい景色をみていけたらいいね

今日の花見: ユキノシタ(葉を天ぷらにして食べてもいいんだって)、ビオラ、ハゼラン(?)、ムラサキツユクサ(ほとんど白にちかい薄紫色のものをみつけた)、ハイビスカス、カタバミ、ユリ(白)、ノコギリソウ、ヤグルマギク(ブルー!透きとおるブルー!)、オオキンケイギク、サクラソウ、バラ(と川)、クサキョウチクトウ、タツナミソウ、バイモ、ヒルザキツキミソウ、クサノオウ、コオニタビラコ(ヤブタビラコ?)、ノビル、ツルマンネングサ

めも: 足の写真は恥ずかしい クリスマスに浮かれてつぶやいちゃったけど、こんどツイッタひらいたら消そ それまでみんなあんまり見ないでね あとほかにへんなことつぶやいてないかな

2020/06/23 一緒に世界に

たぶん、あなたのこと、むかしはもっと好きだった。わたしは惚れやすいほうだと思う。笑顔がすてきなら好きになるし、声がきれいでも好きになる。「好き」と言いきれるような気持ちをたくさん持っている。それなのに、あなたのことは好きだと言えない。
遠くてもいいから一緒に世界に生きていたい。「遠くてもいい」と言ったのは、いま遠くにいるからで、べつに近くがいいとかいうことではない。近くにいるときには、このまま近くにいたいと思う。一緒に生きていたいわけでも、一緒の世界に生きていたいわけでもなく、「一緒に世界に生きていたい」というのがいちばん当たっている気がする。手を繋ぎたいとは思わないけれど、手を繋いで歩いた時間は、初夏の朝風よりもここちよくて楽しかった。これからも思わず手を握ってしまうかもしれない。そして、うつくしい景色をみるのだと思う。
まえは、好きだと言いきれた。いつのまにかわからなくなって、顔や声を思い出せない時間があったりして、それでも、心の底から願う。わたしの幸福のためでも、あなたの孤独のためでもなく、ただ願った。何をということもなく、ただ願う。しばらくこのまま、このわからない気持ちを大切に抱えていよう。

2020/06/22 幸福

6・7月は、Nコンの伴奏合わせのために、週に1回ずつ曜日をずらしてレッスンをおやすみにしてあった。今週は月、来週は火、再来週は水。Nコンがなくなってしまったから、ただのおやすみに。

雨ニモマケズ風ニモマケズ、本日の花見。イトバハルシャギク、ヤマボウシ、ソバナ(きのうツリガネニンジンかなと思ったのもたぶんソバナだ)、ナガミヒナゲシ、ナツツバキ、ムラサキツユクサ、ビロードモウズイカ、コマツヨイグサ(?…もっとオレンジにちかい色)、ヒルガオ、ヤマゴボウ、ナナカマド(!!!)、ユリ、ホタルブクロ、ハルシャギク、ヒペリカムカリシナム(3回つづけて言える?わたしは2回めからもうむり)、シロタエギク。
そうそう、昨日わからなかったの、スイカズラっぽい。草花じゃなくて草木のほうの図鑑をみたら載ってた。「花は開花後しばらくたつと黄色くなる」だって。おわりかけのような感じで、ほとんど黄色かったね。
散歩のとちゅう、喫茶店でゆっくりかっこつけてコーヒーを飲んだ。ふぅと息を吐いて幸福ぶっていたら、幸福な気分になった。幸福?

この地域には、年齢が下のひとが率先して動くのがあたりまえというような空気がまだかなり強くあって、きつい。と言っても、わたしはぜんぜん率先して動いてない。わたしのつぎに年齢が低い(30代後半くらい?)のひとが「やります!」と言うのを見てようやく、わたしがやるべきだとみんな思ってるのかもしれないナと思い至る。きかれたことに素直に答えすぎています。この2年ちょっと、職場でむじゃきに振る舞いすぎて、あんまり仕事をまわされないひとということでおちついた(わーい!)。
それで直接(あるいは間接的に)何かを言われたことはないのだから何も気にする必要はないんだけど、ここに書くということは気にしているということで。気にしてしまうのが、ほんとうにいや…。もっと広がっていたいな(?)と思います。

夢かとおもっていたことが夢じゃなくて、夢じゃなかったのかとおもった。ぐすん。

2020/06/21 夏至の花見

夏至ですね。クリスマスのつぎに好き。風がウォンウォンいって、魔女でも現れそうな予感。夕方、草花の図鑑をぱらぱら見ていたら散歩しようという気になって、外に出た。
見かけた花たちの写真を撮りながら歩いた。オダマキ(人の名前みたい)、ヒメジョオン、マツバギク、ケキツネノボタン(青い蝶がとまった!)、ノボロギク、カンパニュラ(おわりかけ)、ツリガネニンジン(たぶん)、アジサイ、リクニス・コロナリア、ツユクサ(つぼみ)、オニユリ(花はまだ。茎にむかごがいっぱい)、フランスギク、タチアオイ、オオキンケイギク、ドクダミ、バラ(オレンジ色)、サツキ、ガーベラ(野花として咲くの?どこかから飛んできたのかもしれないね)、チャイブ。 これらのほかに、彼岸花みたいな黄色い花が土手に咲いていた。なんだろう。キツネノカミソリにしては時期がはやいし。調べてもわからなかった。
桜の木には色づいた実があった。サクランボだ~。そんな季節。このあいだ食べました(食べたのはもちろんスーパーで買ってきたやつ)。サンシュユは秋に赤くなる実をもうつけていてすごい。今日は見かけなかったけれど、柿の木あたりもそろそろ小さい実がなっているかもしれない。
今日歩かなかったところにある草花たちも、ちかいうちに様子をみにいこう。そういえば、大学生のころ住んでいたあたりは川沿いにランタナがたくさんあったけど、ここではあんまり見かけない。見逃しているだけかしら。気をつけてみよう。ねむの木の花がそろそろかな。見ていると気がぬけてきていい。それから、もう少し暑くなると咲くノウゼンカズラは、この世界のオレンジ色のなかでいちばん好きなオレンジ色をしている。検索してでてくる写真ではどれもわりと濃い色をしているのだけど、実際に見るともっと透き通ったオレンジ色。
図鑑を眺めていたら、サンダーソニアという花がとてもかわいくて、育ててみたくなった。ドライフラワーっていうのは、どうもあんまり好きじゃない。芍薬やアジサイみたい大きな花を、切り花で飾りたい。どちらも枯れてもきれいだ。さいご茎がいたんだ花は花首だけを水に浮かべてもいいと図鑑に書いてあって、それなら、ダリアとかガーベラでやってみたいと思った。
ちょっと先のことを楽しみに生きていくのはけっこうむずかしいけど、たとえばお花とかなら上手にできそう!

2020/06/19 てんし

県の方針として、6・19からは県外との往来は原則として自由ということだったのだけれど、昨日あたりに「東京都については引きつづき慎重に」という文言が足された。これがまた、いろんな理由としてついてまわるようになるだろな。

ところで、この腰痛はおなかのほうからきている気がする。子宮のあたり?病院行ったほうがいいかやと思いつつ、必要性を感じないまま、ピアノひいたりうたったりしながらごまかしている。どうせ夏くらいに健康診断うけることになっているし。
みなさんが病院に行くのは、分類されることで安心するためなんじゃないかと思っている。治してもらう/よくしてもらうことよりまえに、不調の原因がわかり、それにちゃんと名前がついていること。それこそを求めているのでしょう?じぶんではぐあいがわるいとおもっていても、特に何もないと言われれば、病気だったときより不安になったりして。かりに治らない病気だったとしても、からだのよくわからない不調に対する不安はそのときに消えてしまうわけなのである。
わたしの場合、その「わかる」をしたせいで余計に気持ちがわるくなることがイヤ(必ずしもそうなるとは限らないのだけれど)で、つい何かに没頭してフワフワになることをえらんでしまう…。

「治らない病気」という言葉をつかうといつも思い出すエピソードがある。おばあちゃんは、わたしが小4のときに癌で他界した。わかった時はもうかなりすすんでいたらしい。おかあさんがわたしたちきょうだいに「おばあちゃんは治らない病気なんだよ。どういうことかわかる?」と言い、わたしは「うん」と答えた。「おばあちゃんは、これから死ぬまでその病気なのだ」と思った。おばあちゃんが亡くなったときにようやく、そうではなく「もうすぐ死ぬ、ということだったのだ」と気づいた。
さいごに会ったときのことをよくおぼえている。映画をみに行くまえに「行ってきます」と言った。おばあちゃんは、おじいちゃんが早くに亡くなって(おかあさんが大学生のころ)から会社を引き継いで社長として働いた。背の高い人で、背筋はしゃんとしていて、お化粧もしっかりしていた。だけどその時はお化粧もしないで、だいぶ小さく見えて、わたしはベッドに寝ているその人のことを「おばあちゃんではない」とつよく思ったのだった。わたしはかなり人見知りをする子だった(もちろん今もそう)ので、知らない人とうまく話せるわけもなく、おかあさんに言いなさいと言われた「行ってきます」をかろうじて言えただけだった。
「ほんとうのおばあちゃんと入れ替わった人のことを、みんなはほんとうのおばあちゃんだと思っている」わたしだけが、ひとりでそう思っていた。亡くなってからもそう。以来、そうじゃなかったんだと思うタイミングは訪れていないので、たぶんいまもわたしは「ほんとうのおばあちゃんがどこかに生きている」と信じている。だから、おばあちゃんの死に対して泣いたことがない。
「人は何かをわかったときにようやく悲しくなる」というのは、友達が死んだときに思ったこと。だから友達が死んで友達が死んだとわかったとき、とても悲しかったし、いまも友達は死んだとわかっているので、友達が死んだことが悲しくて泣くこともある。わたしの「わかるアレルギー」(?)は、もしかしてこのことがきっかけかもしれない。

ぽろっと「治らない病気」という言葉を使ったせいで、しゃべるつもりのなかったことをながながと書いてしまった…。おばあちゃんがまだ生きている(と思っている)話は、そういえば誰にもしたことがない。
というのも、当時わたしがあまりにふだんどおりに振る舞っていたところ、「悲しくないの?」と同級生に聞かれたのだった。もちろんその子に攻めるような気持ちは一切なく、ただひたすらに気づかってくれたのだし、そのこともじゅうぶんに感じたのだけれど、悲しめないこと(だってまだ生きていると思っている)への罪の意識みたいなものは、そんなわけで芽生えてしまった。
ただ、悲しむことに関して、当然とか義務のような決めつけがあるのはきつい。おばあちゃんが死んだことがわかった状態になったとしても、悲しむかどうかはわからない。悲しむべきだというプレッシャー(勝手に感じている?)がまた、悲しめないかもしれない可能性を思って、「わかる」を遠ざけているのかもしれない。

おしごとまじめにやって、こんなはなしは日常のどこでもする必要がないまいにちだよ。夜になるととくに、まじめなじかんの反動で、てんしのしゃべりかた(?)になる。フワフワにうもれていく心地。

2020/06/17 ドの音がドの音

まいにち大事に磨いていたものが、ある朝起きるとなくなっているとしても、そのことに気づかない。そうやって、上手に忘れていきたい。

思い込みは敵。…なのだが、私の人生で一番どうしようもない思い込みは、ドの音がドの音であるということかもしれない。今日初めて、ドの音がドの音であることに疑問を持つ。
共通の認識としていつか誰かが定めたものなのだが、ドの音を鳴らされて「この音がドですよ」「へぇそうですか」となるのと、ドの音を鳴らされてドと聞こえてくるのでは、まったくちがう。絶対音感なんてものは刷り込みでしかなく、むかしからまじめだった私は、ドが鳴ればドと、教えられたとおりに変換してきた。
ドの音が「ポーン」とか「スン」とか(なんでもいいのだけれど)、いつも違って聞こえたらよかった。音の高さで無意識に分類してしまう耳、これこそ思い込み中の思い込みではないか。

やりなおすことも、ぶちっと切ることもできないから、すこしずつおしまいに向かっていくように進むしかないなと思う。会いたくないと思った夜の夢に出てきてさっさと帰ろうとするその人に、もうすこしここにいてほしいと強く思うあたり、まだまだである。変えられないなら、忘れてしまいましょう。

2020/06/15 たいちょ

明日ひさしぶりに合唱団の練習がある 朝はやめに起きてピアノ練習していこう ここのところ、体調はいいんだけど、yo-tsu-とhakike… もしかしてこういうの、体調がいいって言わないのかや いや、体調はいいです! 「体調がいい」というセリフ、「体調がわるい」にくらべて聞かないので、せっきょくてきにつかっていこう 明日も明後日も、そのつぎも、生徒が来ることが決まってしまっている毎日が、救いだ

2020/06/14 続・日向のベンチで

あーあ にかげつ前の日記に「たくさんおはなししたい」と書いていた いまはそんな気持ちがさらさらおきず、できることならしばらくだれにも会いたくない むかし、もっといろんなもののことを好きだったなぁ 36くらいでおしまいにしたい ながい… いろんなもののこと遠すぎてすこしずつわすれそう なぜか今日はまるがきもちわるくてつかえないけれど、にこにこ(体調がいい)

2020/06/10 元気ですか?

みんな元気ですか?みんな元気だといいな、と心の底から願っている。ナインティーン(covid-19)のことだけじゃなくいろいろあると思うけど、元気でいてほしい。わたしもなるべく元気でいたい。元気じゃない時も、ちゃんと元気を待てるくらいの体力は維持していたい。

仕事で使わなくなった鍵を会社に返すのをずっと忘れている。週4で外の仕事をしていたのが週2になり、ようやく一週間が7日になった。しばらく車にガソリンを入れていない。オンラインの会議を控えていて、かなり気が重い。
レッスン棟が、6・25から建ちはじめる。ここまでいろいろ決めたりハンコを押したりしてきたけど、あとはほとんど眺めて待つだけになるらしい。大学時代に使っていたピアノをようやく出してあげられるのが嬉しい。

ごちゃごちゃしてきたしょうもない諸々をまとめただけの自分用のホームページを、5月に作った(諸々の管理がとても楽になった!)のだけど、人が見てもいいように調えてみた。もともと自分用なので、おもしろいコンテンツはないと思いますが。歌のページは、正気に戻ったら鍵をかけるかも。かけないかも。
わたしの正気が何なのかは分からないけど、無理に他人と同じになろうとせずにいたい。小学生のころは、他人と違うわたし自身をとても強く感じていて、それが間違っていることのような気がしてとても嫌だった。だからといって、いま、わざわざ他人と違うことをしようってわけでは全然ない。自然にしていれば、違うとか同じとかいう問題ではなくなっていくはず。
それとも、正気が分からないのなら、正気じゃないと思っているときのほうを正気にしてしまうのがいいかもしれない。ただ、惚れやすいのか何なのか、夢中になるときの幸福感、それしか見えなくなってしまうことが多い。あんまりよくないな。最近では、気がつくとあちこちから血が出ている。気をつけよう。このあたりのバランスを上手にとれたら、それがいちばんいい。

2020/06/07 sampist

分離したほうの私がシャカイであまりにマットウに生きていてすごい。恋とかしちゃいそうだ!今ここにいるわたしはと言えば、おともだちとの喋りかた(そんなものはない)を忘れてしまった、かもしれない。咄嗟に「あー」「うー」などとしか言えない。このままだと1年後にはカオナシになる…。どうにかしなくちゃ、とやっと思い至る。

どこかに行ったら2週間は控えろという空気はまだある。わたしが仕事を続けるには、いまのところ「動かない」しか方法がない。レッスンにはずっと行けないまま7月もおやすみさせてもらうことにした。東京で乗っているオケは、秋頃から練習が始まり2・11に本番がある。乗るつもりで仕事調整してあるけど、どうなるかしら。
世の中がいまだに「行って帰る」という発想をしているから、自由に動けない。わたしたちsampistはぐるぐると歩きまわっているだけで、行くも帰るもないのである。
それでも、発想だけで平らかな世界にはできないこともよく分かっている。もっといろんなもの(科学とか?魔法とか?そしてそこにはもちろん「ひと」がいる)にお世話になって生きている。だから、動けないなら動けないなりにちゃんと考えていかないと、気がついたら私が勝手に結婚とかしてるだろな(べつにすればいいけど、こうやって流れついたら悲しいね)。

動けないことが、どうしようもないことだから、怖くなったのだと思う。むかしから、どうしようもないことに対する不安感が強い。どうにかしようとして生きてきた。だけど、どうしようもないことは、どうしようもないからどうしようもないと言うのであって、どうにかできるのならどうしようもなくはない。ということに、さっきようやく気がついた。どうしようもないことは、どうしようもない(そのまま)のですね。ということは、どうしようもなくないことは、どうしようもなくない(そのまま2)ということでもある。
ところで、わたしの言う「不安」は、世の人たちの言う「不安」と同じだろうか。他人のそれがわからないし、わたしのそれも他人にはわからない。それともそういうわからないもののことを「不安」と呼ぶのだろうか。
「怖い」なんかもそう。例えば、暗い夜道をひとりで歩くのは、怖いなと思う。わたしにとって怖いのは「暗い」でも「夜」でも「ひとり」でもなく、「おばけ」なんだけど。みんなが怖いのは何?それに対する気持ちはどんなふう?わたしのおばけに対する気持ちを「怖い」と言い切るのは、なんだかもったいない気がしてきた。

2020/06/06 髪をまとめる

不安の気持ちは厄介。すぐ不安になる。少なくとも私は、この気持ちのことを「不安」と呼んでいるけれど、世の中にある「不安」もこれと同じようなものなのだろうか。最初に「不安」という言葉を使い始めたのは、いつ、誰だったのだろう。

「ひと」が関わってくると、なにかと不安になる。何も言わないのにあからさまに戦闘モードの人間がいちばんこわい。ガツンと怒ったり脅したりしてくれればいいものを、ただあのモアっとした雰囲気だけを出している人。むかしから、学校では怒られ慣れていなくて(とてもまじめに“見える”タイプだった)、ひとが怒られていると不安になった。私には何もできない。どうしようもなさ。
そう、この「どうしようもなさ」が苦手なのだと思う。言ってもらえれば、こちらも落ち込んだり違和感を感じたりできるのに、「どうしようもない」ときは不安だ。取り返しのつかないことをしたねというニュアンスの「あーあ」という言葉が、とても苦手かもしれない。
この不安を解消しようとすることは、私のエゴだと思う。でもそうしなければ、このおなかの中心がキュッとするような不安をずっと持っている羽目になる。そこまでは強くない。結局、その機会が訪れるまではこの不安を抱えているのだけど、次会う時に必ず解決すると信じ切ることが、不安を少し軽くする。

あー、私は世界をもっと平和にしたいだけなのに。いや、世界が平和になればいいと願って、なるべくすてきに生きていたいだけなのに。私の場合、「ひと」が好きすぎて、うまく付き合えないのだと思う。もっと広い場所で遠くを見ていられるはずなのに、今は目の前しか見えていない。伸びてきた髪が左右の視界を塞ぐ。ひとまず髪をまとめよう。

2020/06/01 しばらく

上り坂でも下り坂でもない坂道があるはずだと、言い出した時がある。今また、「起きているか寝ているかという生活だ」と言ったら、そんなのは当たり前だと言われた。私のこういう感覚は、誰にも分かってもらえない。
どうしてそいうことになっちゃうのかと悲しくなる時、みんなと違っているのはいつも私のほうなのかもしれない。そう思った途端に、私が分離した。いま社会生活をしているのは、この日記を書いているのではない私のほうだと思う。この日記を書いている私は、ほんとうに、起きているか寝ているかしかしていない。

しばらくオレンジ色のきれいな花を眺めたり、そこに思い出を見たりしながら、つくれるものをつくっていきたい。絵でも歌でも、なにかしら。それを誰かに見せることさえしなければ、安心してここに居られる。伝えたいことなんて、何もない。伝える相手がいさえしなければ、自由に漂っていられる。もしも誰かに伝えたいと思ったとしても、遠く離れすぎている。物理的にだけじゃなく。私が、遠く離れて行く。しばらく、ね。

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