雨やどり


管理人室 -- 日記 -- 2020/04
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2020/04/30 贈り物をしたい
2020/04/29 魔女修行
2020/04/28 手・決意
2020/04/27 引き継ぎ書
2020/04/25 窓をあけて
2020/04/24 選ばない選択2
2020/04/22 甜麺醤
2020/04/20 緑の魔女
2020/04/19 冷たくて甘い・そのうちに家に着く
2020/04/17 休会・休講
2020/04/16 カラスの巣
2020/04/15 選ばない選択
2020/04/14 ビョ~イン譚
2020/04/13 おなじ場所にいる
2020/04/12 こころからのラブレター
2020/04/11 ちょっと待ってね
2020/04/10 声の大きい人
2020/04/07 「助けてくれェ~」
2020/04/06 おだやかに無表情
2020/04/02 美味しいおにぎり

2020/04/30 贈り物をしたい

なにも、好きではないのかもしれない。ほんとうには、なにも好きではないのかも。そう思った。たとえば、助けてくれる人がいること。たったそれだけのことで、助けてくれる人が救いなのではない。たとえば、手を繋いで歩くこと。その時間が愛しいのであって、その人を愛しているのではない。そうじゃなきゃ、離れている世界のことももっと大切な場所だと思えるはずだ。そう思えないのは、どうしてだろう。やっぱり、なにも好きではないのかな。
人から贈り物をいただいて、しくしく泣きそうになった。もらうこと、あげることが上手にできない。もっと心のこもった何かだと、幼い私は勘違いしている。ここでもやっぱり、贈り物それ自体が問題なのではないのだ。親友が突然、11ぴきのねこのお皿セットをかわいく包装して送ってきたことがある。後で聞いたら、私にあげたいと思ったのだそうだ。私も、誰かがそれを使う場面を想像することなく、贈り物をしたいと思った。
ひとりだ、と思う。強く生きていかなくちゃ。

2020/04/29 魔女修行

今日は、家の教室の発表会…の予定が中止になり、気が抜けている。のんびり起きてパンを焼いた。ベタベタがまとまっていく。魔法みたいじゃない?発酵させて生地が倍くらいに膨らむところも、魔法っぽい。パン作りは、魔女修行です。こね台が欲しいな。

夕方、散歩しようと思ったけど、ダラダラしているうちに今日はいいやという気分になり、ピアノを弾いた。グラナドスはここで一度それなりに仕上げなくちゃ。ほんとうは今日弾く予定だったのだしね…。気持ちを落とさないのも修行。

そうそう、わたしは修行という言葉が好きなんだけど、その理由は実は、言葉の意味がいいからとかでは全くない(そもそもちゃんとした意味など知らない)。ある人がこの言葉を使った場面をずっと覚えていて、それがすごくいいなと思った(今も思う)からだ。
わたしが選んだ明日にたまたまあるもの、反対にないもの。それらそのものを選んでいるのではないということ。みたいなことについてちょっと考えて、強く生きなくちゃと思った。かわいいワンピースでも着て、ね。

2020/04/28 手・決意

これで7枚になった。生徒や同僚の先生からの餞別、伴奏のお礼などでいただいたハンカチが、2年間で7枚。
世の中では、わたしのような人間(なんだそれ)にはハンカチを贈るのがいいということになっているんだろうな、と思う。このペースでいくと、5年後にはさらに17枚のハンカチが増えていることになる。思う存分、手を洗える。
…そんな話ではなく。この人にはハンカチを贈りたいと思われるようなわたし(と、だれか)でありたい。もっと正確に言うと、このハンカチをあの人に贈りたいと思ってくれるだれか(と、わたし)がいたらいい。(誤解されそうなので言っておくと、いただいたものにケチをつけているとか、ハンカチでなければ正しいとかいう話では、決してない。ハンカチの正体、おくる、あげる、もらう、ほんの気持ち…。そういう話。このあたりの話はまたどこかで。括弧が長くなる癖、なんとかしたいネ…。外します)

手が冷たい。人から驚かれるほど、手が冷たい。お菓子作りには向いている。日に日にこの家系にしばられていくのを感じる。眩暈といい、この冷え性といい…。自分の力で温まれるのは、ピアノを弾いているときだけになってしまった。だれも温めてはくれないのだから、もう、ピアノを弾き続けるしかない。大学生のいちばん弾いていたときくらい、また弾こうと思う。ついでに、そのときと同じくらい、ひとりだ、と強く感じてもいる。

お菓子作りを久々にしてみたら、とっても楽しいウフフ。実稼働時間(と収入)がすこし減ったくらいで、やることは山ほどあるんだけど、お菓子は時間がなくても作れるんだった。休ませたり焼いたりするのに時間がかかるだけなのよね。そのことを思い出した。
パンも焼きたい。枝豆とチーズの白いパンがいい。最初はべたべたと手にくっつくだけの生地が、しばらくして不思議ときれいにまとまってくる。あの時間が、魔法みたいで好き。
天の恵み、手の力!(何かの宗教)

2020/04/27 引き継ぎ書

ようやく引き継ぎ書を書いた。この子はこんな子ですよとか、なにが得意ですよとか、勝手なことを。
2年前から今にかけて、わたしが引き継ぐ時にもらった引き継ぎ書を思い出す。全然その通りじゃなかったなぁ。いま思うと、ちゃんと反応しているのはわたしよりも子どもたちだった気がする。
先生が代われば子どもたちも同じでないのは当然で、こんな子ですよなんてのはほんとうに当てにならないのだけど、決まりなので(!)書いた。わたしと関わるときのことだという前提は、読むときだけでなく書くときも意識する。すこしでも伝わるといい。

結局、急に休講になってそのまま引き継ぐことになってしまった。…あのね、置いていくのは思っていたより苦しいかもしれない。置いていくことはもちろん、この気持ちすらわたしの勝手でしかないんだけど。

2020/04/25 窓をあけて

曖昧なスカートをはいてゴキゲンの日だった。なんとなく似合わなくなっていたのが、去年の秋頃からいくらか痩せて、華奢にはけたのが嬉しい。曖昧なのは、膝が出るくらいの微妙な丈、タイトとは呼べないくらいの四角い形、それから、ポケットのところからちらっと見える控えめなレース。曖昧でかわいい。
春の陽ざしは、幸せな気持ちになる。でも、それ以上に、夜の匂いが好きだ。休日、まだ明るい夕方にゆっくりお風呂に入る。それから、窓をあけて涼む。暗くなっていく。匂い。春の夜の匂い。あの日の匂いがする。
誰に相談することもなく生きていこうと思った。相談してねの言葉は、信じられなかった。それなのに、いま、遠く離れた場所でそう言ってくれる人がいることに、急に安心して泣きたい気持ちになった。もう、相談しなくてもいいと思った。相談などしなくても相談できる人がいれば、それでいい。
愛しい何もかもがすべて近くにあるわけではないけれど、その強さ、かわいさ、寂しさ…、どれも比べることはない。愛しいものたちをこの先もずっと思っていられたらいいけれど、どれもを、そしていつまでも、同じように思うこともない。夜が更けてきた。電気を消して、毛布にくるまり、窓をあけて、深呼吸をする。

2020/04/24 選ばない選択2

munya munya... クマのぬいぐるみを押しつぶしながら、こたつでうたた寝してた。日記(にき)だけ簡単に書いて寝る。

隣街の教室で仕事があり、16時過ぎに家を出る。Yのレッスンは休講なので、通常より2時間遅い。ホールに寄る用事があったので、いつもは川沿いのところ、今日は国道を行く。古民家を改装した店には「冷やし中華、始めました」の看板。もうそんな季節?夕方のこの時間とは思えない、道の空きよう。20時過ぎにまた同じ道を通って帰る。おぉ…暗い。と思ったが、それはいつもそうだった。ドミンゴ(街の洋食屋さん)はもう閉まっていた。短縮だね。そのくらいで、あとはふだん通り。

木曜日は、今日で4月のレッスンを終えた。来週はおやすみ。このタイミングで、ひとりの生徒さんから、5月は休会したいとお申し出があった。「受付の人(楽器店の人)に相談したら、オンラインレッスンを勧められたけど、とりあえず5月はおやすみします」とのこと。自宅なら「遠慮せずに」と言うところなんだけど、ここでは慎重に「わかりました」としか言えない。
受付の人がオンラインレッスンを勧めているところがありありと浮かんで、現場にいないのに引いてしまった。オンラインでもレッスンすればお金が入ってくるから、楽器店としては必死なのもわかる。が、生徒の気持ちは無視って感じになってきた。
「来るかオンラインか選んでください」というのは、眼科の「赤と緑どちらがよく見えますか」という質問とまったく同じだと思った。赤か緑、どちらかを必ず選ばなくてはいけない(二色ともなきゃクリスマスにもさわやかにもなれない!)。
聞くほうは、選ばせたい気持ちが強い。聞かれるほうは、選ばない選択に気づかない。こういう風景を見ると不安になる。最近のもやもやした気持ちは、その不安かもしれない。こういう状況に引いている。聞くほうも聞かれるほうも、じぶんの気持ちだけで(もしくは考えずに)動いている人が多すぎる気がする。こわい…。

冷えてきた。明日は雪の予報も出ている。不安な夜や寒い夜は、ぬいぐるみを首に巻いて寝るのがいい。gyu...

関連日記:2020/04/15 選ばない選択

2020/04/22 甜麺醤

甜麺醤(テンメンジャン)という名前をどうしても覚えられなくて、「てめーじゃん」と覚えればいいという話になった。おめーじゃんだかなんだか分からなくなっちゃうんじゃない?と思ったけど、ぶじに覚えました。オンメンジャン。(?)

自宅の生徒は、4分の3弱は来ている状況。まあ今のところはそんなもんだろうな。「先生も大変ですね」とたくさんの人から言われてはじめて、大変なのかも?と思う。大変でなくはないと思うが、これまでと比べて大変に「なった」という感覚は(または誰かと比べて「わたしは」大変だという気持ちも)、ない。いつだって、わたしなりに、できることをするしかない(できないことはしない、ということでもある)。それを今さら特別に大変だと思わないだけだ。
それとももしかして、大変っていうのはお金の話とかかな?だとしたら、これまでに比べたら減ってはいるが、大丈夫の範囲内。
いずれにせよ、みなさんがこうして心配したり気遣ってくれたりすること自体は、とても励みになる。ありがたいです。

今朝、テンメンジャン(!)などを買いにスーパーまで歩くついでに、城南や上川あたりをぐるっと散歩&調査。
東京ベーカリー(名前がいい)、お城の近くのクロワッサン屋さん、それから、スーパーの向かいのシフォンケーキのあるパン屋さん、すべて営業している。閉まってるのは、線路の向こうの太養パンだけみたいだ。線路の向こうとこちらとでは、全体的にやはり雰囲気が違う。
このあたりはラーメン屋さんが多い(むしろほぼラーメン屋さんしかない。高校生のころはラーメンばかり食べていた)のだけど、今日通ったところは、どこも元気に準備中(朝9時過ぎ)。貼り紙などはない。テンホウのうしろに見えているのは、文学の道公園(端から端まで歩くと550メートルくらい)。むかしはここでよく、テンホウのソフトクリームを食べた。桜は、咲いているものもあれば、ようやく膨らんできた蕾もある。
駅からこのくらい離れていると、カフェ(そんなにない)も通常通り営業している。あ、るぱんはどうかな。ちょっと遠いから、自転車のときに通りかかろう。チーズケーキ屋さんも変わらずやってるっぽい(開店前だったので、たぶんだけど)。持って帰れるものを売る店は、ほとんど開いている。

予想通り、県内でも休業要請が出されることになり、また変わっていきそう。これもまた予想通り、音楽教室は対象ではなかったので、楽器店はほんとうにつぶれるかもしれない。ついにオンラインレッスンでの対応ができますと言いだした。が、やるならば環境は講師がととのえてくださいとのこと。
そもそも、オンラインレッスン(それ自体というよりはその周辺)については、もやもやもやもやもゃ…としている。このことは、また。

道で、高校の頃の同級生と、卒業以来6年ぶりにばったり出くわした。わたしの生徒の、学校の担任の先生だというのは、生徒から聞いていた。家庭訪問中とのこと。わたしは、散歩中と言っておいた。6年ぶりに会って「いま何してる?」ってそういう話?(とてもよい)

2020/04/20 緑の魔女

朝方、怖い夢をみた。え~ん、こわかったよ~…と言える人もおらず、起きて、森永のチョコチップクッキーを食べる。あ。森永のチョコチップクッキー。下の句。
外の教室から、このあいだの見舞金以上はもう出せないとメールが来た。まあそうだろうなと思う。ヤメドキも近い。それより、楽器店がほんとうにつぶれるんじゃないかしらと心配している。長野県でも休業要請が出される方向らしい。対象になって補償があるといいけど。仮につぶれたとしても、この状況のせいだとは言い切れないところもある。
ツイッターは最近ほとんどTLみてないし、呟いても消しがちで、なんだか面倒なだけだ。もうなるべくほんとうのことしか言わない。緑の魔女は、ほんとうにいた。メールやライン、わたし、ちゃんと返してるかな?無自覚に返していないことが増えてきた、かも。まだ誰にも怒られていない。怒られていないから、返してるんだろうと思っている(思い込み…サイアク)。…ごめんなさい。
秋頃に1000字程度の日記を毎日書きつけていた時と、わたし自身の感じが似ている。妙に浮かれている…。

2020/04/19 冷たくて甘い・そのうちに家に着く

昼寝から目覚めてツイッターを眺めたら、東京の街は夏みたいな格好の人もいて驚いた。私はこたつに入り毛布までかけて昼寝していたというのに。午後、15分のつもりが1時間の昼寝から起きて、目薬を差す。調査もかねてぐるぐると散歩。外は日差しもあって暖かい。

小学生までは一緒に登校していたKすけくんちの斜め向かいの田んぼが耕されていた。去年は水が入らず(こんなことは初めてだった)寂しい気持ちになったから、今年は水が入るといい。桜が満開の公園は、覗くと人が多かったので、横の道を通った。
公園の裏門には、宴会の自粛と感染拡大防止の協力を要請する紙が貼られていた。例年は屋台が出ているが、その匂いがない。公園内を覗くと人が多かったので、すぐ横の道を歩く。ここはむかしから怖いなと思っている入口。あと、のぼりやすい石垣。のぼりやすいが、のぼってはいけない。のぼると怒られる。あと凍ってスケートリンクのようになったお堀にも入ると怒られる。どちらも当たり前だ。危ないもの…。それでも、いつの時代の小学生もだいたいやる。公園の横のリンゴ農家のカフェは営業中だった。テイクアウトできますという貼り紙がある。そのまま駅のほうまで歩く。

創業100年を超えるパン屋は、5/6まで休業。ここのおばあちゃんの佇まいがとてもいい…。トトロのパンとかはここで買ってます。あともうひとつ、少し離れたところにある、チョコクリームのアンパンマンがあるパン屋も好き。その方面には今日は行かなかった。
トミー。先月あたまくらいに友だちと行ったばかり。高校生が帰り道に行く店。もちろん高校生以外もいる。そのときのわたしたち然り。老舗喫茶店だが、夜はお酒も提供していて、この界隈ではここのマスターには頭があがらないそう。というのは、前にバーのママさんが言っていたこと。けっこうおちゃめな雰囲気のマスターだと思う。夜にはまだ行ったことがない。ここは開いてればみんな来ちゃうと思うから、このままいつまでたっても再開しないなんてことだけはないように祈りつつ、そうするのがいいだろうなと思う。
最近できたコーヒー屋(まだ行ってないのでよく分からない)は、テイクアウト待ちっぽいお客さんが店の前に数人いた。3月にオープンしたカフェ(いちど行ったがそれきり)は、当面休業。

駅西口方面に向かう。シャルマン。3月末に行ったとき、すでにマスクもして、営業していることを不安に思っているようなことも言っていたから、やってないかな?と思いつつ前を通ると、営業中の看板(けっこう大きい)が起きている。あれが横に倒れているときは閉まっている。おなじ曜日のおなじ時間に行っても開いているときと開いていないときとがある。春になり緑が茂ってきて、看板も隠れがちだが、あのサイズなら大丈夫だ。緊急事態宣言が全国に拡大されたいま、開いていればいるで迷うけど、店の外をしばらくうろうろしながらいろいろ考え、結局、(一瞬!)と思い、階段を上って扉を開けた。ぽかぽか太陽のもとで1時間以上歩き続けていたので、冷たくて甘いこれが沁みた。マスクをしてお金を払う。入って出るまで、10分強。次通りかかったとき、やっていたとしても、入るという判断ができる保証はない。これから、どう変わっていくかなと思う。
変わっていくのは当たり前なのに、変わらないでほしいと願う人がいる。私にはその気持ちがいまだによく分からない。懐かしいと思う気持ちに似ているのだろうか。変わっていくこと自体がとても楽しく、だからこそ変わらないものがあることを心強くも思う。変わっていくか変わらないかを人間が無理やりに決めなくても、ありのままに受け止めていくしかないと、今は思っている。
ケーキ屋はやっている。奥にショーケースがあり、向かって左側にクッキーなどのお菓子がすこし。店の真ん中にイートイン用の大きな丸い机があり、コーヒーか紅茶も提供しているはず。今日は入らなかったけど、イートインはどうしてるのかしら。当分やめますって言わなくても、する人はいなそうだけど。

夜の店は、貼り紙(休業、時間短縮、テイクアウトなど)をしているところもあれば、何もないところもあり、そこは営業時間に行ってみないと分からないなと思う。隣国でも休業要請が出てきた。これからここもどうなるかしらね。1時間半ちょっとのあいだに道ですれ違った人は両手に入るくらいだったけど、それはいつも通りです。

雲が出はじめ、少し寒くなってきた。散歩をつづける。そのうちに家に着く。同じ道を一度も通らなかった。散歩するのに、当然、行くも帰るもないのである。

2020/04/17 休会・休講

そうそう、弟はこの春から東京の大学に入ったけど、こんな状況で、友達が一人もいなくて(同じ高校からはほかにいない)心配そうだった。この間、クラスラインに入れた、と嬉しそうにしてたよ。20時からずぅむ座談会があるとかで、いまもまだやっているみたい(23:21)。音楽室でやってるから、ピアノも弾けない。

今朝起きて、昨日打ったメールを一斉送信した。反応はさまざま。そとでのレッスンを終えて帰宅(今日は、曜日感覚がなくなっている子ひとりにすっぽかされた。しょうがない)。21時前に再度メールを送る。今朝のメールの時点で、それぞれのご家庭ごとによ~く考えてもらえていたので、いざこのメールを送っても、みなさん慌てたり過度に心配したりせずに、適切に反応してくださっていて(まだ送ってから2時間半くらいなので、今のところは、ということだけれど)、ほんとうに助かる。

結局、「休業要請がないから、教室としては対策をしつつ運営しますが、少しでも不安があれば休会を勧めます」ということにした。全員休会してもいいくらいの気持ちで送った。
ならばなぜ休講にしないのかというと、全員休会と休講は、実態こそ同じだが、ぜんぜん違うものだから。想像してもらえば分かると思いますが、どうでしょう(わたしがうまく言葉にできないのを、読者の想像力に丸投げしています…。近いうちにちゃんと考えてみたい)。具体的には、再び始まるときのことを考えてみると分かりやすいけど、もちろんほかの観点もたくさんあるはず。また別の物語で。
とか言っておいて、来ると言っている人も一定数いるんだけど…。心配はある。状況によっては、何かしなければいけないなと思う。

ところで、声の大きい人が大きい声で何を言っているか、わたしにも見えてきた。「私たちはもっと自由なはずでしょう?」ということだと思う。ふだんそういうことを考えていないせいで、今さらそれに気づいている。いや、ほんとうに気づいているのかは分からない。流されているだけかも。いざという時に大きい声を出さなくていいように、普段からちゃんと考えていなくちゃなと改めて思った。

大きい声コワいヨ~と言って耳を塞いでしまいがちなんだけど、実態をきちんと把握することは大事。

雨の音…。わたしの判断が間違っているかもしれないことを言ってくれる人は、たぶんもうあんまりいないんだろうなと思います。不安になりすぎるのはよくないけど、意思とは関係なく、けっこう不安には思っていて、つよく生きたいな、と思う。相談できる人いないし…。さみし…。

2020/04/16 カラスの巣

とりあえずメールを作成した。明日の朝もう一度校正して、送る。政府の要請、県の対応待ちという名目の、わたし自身に対する猶予でしかない…。
事業者に休業要請がされるとしても、おそらくその中にピアノ教室は入っていない。だからやっていいということにもならなければ、ならばやらなければいいかというとそうでもない。要請がなければもちろん補償もないということはわかるが、ま、お金は何とでもなる(と思う)。
もしものことがあれば大変なことになる。それだけを考えるなら、しばらく休講にするのがただしいのだろう。もしものことがあれば、もうこの先も、ここでは教室をつづけられなくなることは確か。わが県では、感染者が出ればたちまちどこの誰だという噂が立つ。これまでの感じからすると、少なくとも3時間以内くらいには立っている(すごい)。という状況なので。
ご家庭によって考え方はさまざまだが、それぞれに対応すればいいということでもない。つまり、お金がどうとか、感染リスクがどうとかいうより、もっと、わたしという人間が審査されているということだ。だけど、それは普段と変わらないので、別段、悲しくなったりすることはない。
うちの教室の話はこのくらいにしておく。そうするしかないと思う方向に舵を取ります。「どーしよー」と100回くらい口の中でつぶやく間に「ど~しよ~」になる程度には冷静(2020/4/16夜現在)なので、大丈夫です。

そうそう、いま大きい声出してる人たちが、いつ自分たちが大きい声を出していることに気づいて、いつまでそれを忘れずにいるか、経過観察中です。(ふと思い出したけど、少し前まであの電柱に巻かれていた「カラスの巣 経過観察中」の標識、なくなっていた。…括弧を外して、話を戻す。)いまはまだ大きい声を出している段階。
なんで声が大きいかってこと、最近少し考えたのは、すぐ目の前に人がいると思ってないからじゃないかしら。こんなに目の前にいたら、そんなに大きな声で話さないら?目の前に人がいると認識することができない人は、けっこう多い気がする。でもこれは、特殊な能力じゃなく、普段からどれだけやってるかというだけの問題。さらに、意識的にやるようなことでもなく、どちらかというと意識的にやらないことだと思う。
そのくらいのことなのにできない人が多いのは、そういう世の中が積極的につくられた時(時空?)があるのではないか。今は、どうかなぁ。わたしは、ある素敵な物語(あるいはファンタジー)が現実にあることを、ちょっとずつこの目で見ています。みんなもそうだといいなと思う。

2020/04/15 選ばない選択

なぜこんなふうにしか選べないのだろう。緑が好きで、緑を選び、緑とあとちょっとだけ赤も似合う、愛しい人。黄色が好きで、緑を選び、青が似合う私。これらはすべて、私が勝手に選んだ色にすぎない。同じように思える色が、いくつあってもいいはずなのに、そのことになかなか気づけずにいる。
黒い車に乗る人の気持ちは、分からないままだった。ちょっと鋭い目つきで乗ってみた。そういえば、静岡で借りたレンタカーが名古屋ナンバーだったときは、強気で乗り回した。もちろん、どちらもただの気分で、いつも安全運転&エコドライブを心がけております。

何人かの人がいる時、その中での私の立ち位置はどこなのだろう。そもそも「中」と言ったのがすでに違う気がする。だからと言って、外でも前でも、その他のどこでも、それはそれでまた違っていると思う。ひとりひとりを見たくなる時、必ずしもひとりひとりに向かうのが良いとは限らない。みんながいるところで言葉を選ぶのは、果てしない作業だと思う。それでも、普段の生活の中で、その作業をできるだけまじめにする。
恋のキューピット然り、仲裁者然り、誰かと誰かの関係を良好にしようとすることが、こんなにもすんなり受け入れられているのが不思議だ。いま口を開きかけた人へ。もちろん分かっているから、大きい声で説得力のあるお話をしてくれる必要はない。それでも、やっぱり不思議なのだ。だから私自身は、やっぱり口を出さずに(あるいは出せずに)眺めている。あるときはただ眺めていることが、いいほうに導いているのだと信じて。眺めるといっても、どこでどんな目つきで、とか考えることはいろいろある。
つまりね、選ぶときに、選ばなくてもいいという選択肢を、忘れがちなのだと思う。

関連日記:2020/04/24 選ばない選択2

2020/04/14 ビョ~イン譚

眼科は、本当に必要な人しかいないので、早く終わって助かる。ちょっと前に行った(田舎の)内科はすごかった…。診療開始時刻に行くとすでに22番目くらいだし、待合室で知らないおばさんに話しかけられ続けるし、テレビがついててちょうどゲストできてた内藤さんが「内藤さ~ん」と呼ばれるたびに(ん?)と反応しちゃうし。
「赤と緑どちらがはっきり見えますか?」という質問に、とても困る。むかしは、絶対にどちらかを選ばなくちゃいけないと思っていたから「赤…いや、緑…かな?」などと答えていたが、「おなじです」と答えていいと知ってからはそうしている。はじめから「赤と緑、どちらかがはっきり見えますか?それともおなじ?」というふうに聞いてくれたらよかったのに。そのあとで、これ入れてみてと先に渡されたのが右目で、いつも左目を先に入れるわたしはちょっと心配になったが、問題なく済んだ。
そんなわけで、コンタクトの度を上げて、目がよくなった!うれしい!(実際は悪くなったのだけど。)

2020/04/13 同じ場所にいる

今朝ようやく、生徒のおうちに連絡しまして。土日の昼間にすることもできたのに、わざわざ月曜の朝に、ね。
まず何がしんどいかと言うと。ラインだったりメールだったり、ショートメールだったり、電話だったり…。ご家庭によってそれぞれいろんなツールで連絡を取っていること。この人数だからギリギリセーーフだけど、もっと多ければ何時間もかかりそう。生徒情報として電話番号だけ控えている。こちらのアドレスは教えてあるが、向こうのはあんまり積極的に聞けずにいる。それでこういう時に困るのだから、やっぱり今後はメールに絞ろうかな。自宅はほぼそうしてるし。
むずかしい。一人ひとりの顔を思い浮かべると、どうしてもそれぞれに伝えたくなる。だけど今回は、みんなが同じ場所にいると想定して、そのつもりで文章にして送った。それでよかったかなあ?
ふぅ~~~。ひさびさに眩暈がしている。悪くなってきたのでおしまい。寝る…

2020/04/12 こころからのラブレター

この扉から入って、あの扉から出たふたりは、違う世界に来た。最初に一緒の世界にいたのではないふたりは、だから、一緒の世界に来ることはなかった。それでも、ふたりは手をつないで歩く。そこに道はなかった。
知らない人の家の石塀を、猫になって、通りたかった。回り道をしてようやく辿りつく頃に、そこがゴールではないと気づく。それでも、ふたりはそこまで歩き、通り過ぎて、まだ歩いていく。
世界は、ふたりは、あるとき突然、遠く離れてしまう。遠くから言う。ありがとう、ありがとうね。こころからのラブレターを書いて、出さないまましまっておいた。そうして溜まったラブレターがいま、147通になった。
春の夜の匂い、舞茸の天ぷらよりもおいしい。

2020/04/11 ちょっと待ってね

いやもう、本当の私はもっと過激なんだけど、その姿を見せられるなと思いつくのは2人くらいだし、それも実際に会うときだけだろうと思う。控えめなんです…。(?) その私みたいな人が声を大きくしたら、ついてくる人がいくらかいるだろう、というところが怖いところ。もっと、かわいくいようね。
頭のいい人でも咄嗟に大きい声を出すことしかできなかったのは、自分の声が大きくなったときへの配慮が足りなかったということだろうか。そもそも、多くの人にとって、大きい声は悪ではないのかもしれない。個人的に、大きい声はびっくりするし不安になるので苦手だということもあるが、「大きい声を出すしか能がないヤツ…」と思ってしまう。ヤツなんて言っちゃだめですね。
「頭がいい」と「かしこい」は、やはりちょっと違うところにある。かしこい人たちは、待つことや待ってもらうことが得意なのだと思う。咄嗟に声を出したくなるのを自然と待つことができる。自分にも他人にも「ちょっと待ってね」とかわいく言うことができる。と、社会の中でちゃんと生きている人を見て思いました。
どこでも同じ私でいることはできない。しかし、どこでもその場所なりのかしこさがあるはずだ。まず、どこにいるかってのが問題になってくるのだが、それはまた、具体的な話からもっと広がって(まとまって、ではなく)きたところで話す。

2020/04/10 声の大きい人

最近の動きについて、整理。

前提として、まずわたしのこと詳しめに。ながのけん在住。ピアノの先生。自宅の教室と、楽器店の教室でレッスンしている(楽器店では、某音楽教室のコースと自店のコース、双方で稼働)。そのほか、仕事としては、定期的に2つの合唱団でピアニスト、ときどき学校での伴奏など。
次にこのあたりの感染状況について。4月10日までに県内で感染が分かっているのは26名。うち25名が首都圏や関西を訪問していたか、その濃厚接触者。楽器店の教室のある地域では、計8名(いずれも4月に入ってから)確認されている。

わたしの周りの動向を(じぶんのためにも)ザックリまとめておきます。お金の話もしてます、すみません。
某音楽教室:2月末から3月末までレッスン休講。4月以降は地域ごとに対応(楽器店に判断をゆだねる)。その際、学校の休校情報に沿う方針で、との通達あり。自店でも4月末まで休講延長を決定。5月以降については未定。3月分については、給料の2割ぶんが財団から見舞い金としてもらえるとのこと。4月以降分は不明。
自店:2月末から2週間レッスン休講。それ以降は再開し、現在も継続。休講ぶんはすべて振替レッスンを行うため、減給などはない。講師へは「経営状況がひっ迫している」との説明がされた(そもそも数年前からすでに経営はアブナイ)。
自宅:教室としては、現在まで休講の措置なし。レッスン継続。生徒さんから休会(特別措置…)のお申し出があれば、お月謝はいただかない。今のところはいない。
合唱団:当面すべての練習中止。ひとつの団からは、謝礼は保証しますとのこと。もうひとつの団からは特に何も言われていないが、実稼働だけでなく準備も含めの仕事なので、どうかよろしくおねがいいたします…と思っている。まぁ支払いが半年分まとめてなので、大丈夫だろうと思っている。Nコンは、どうなるかしら。

ここから、わたしの実感など。
まず、自宅について。教室としては、個人対応で30分程度のレッスン時間であることや、県内の感染状況をふまえ、消毒や換気、マスク着用などの対策をしっかりしたうえでレッスンは実施している。ただ、生徒(とその家庭)により考え方や事情はさまざまなので、休会の措置もとれますよとご案内している。 と方針を打ち出すところまでですでにものすごい勇気を使っているのに、さらに伝え方(ニュアンスや方法)もとても難しい。本音を言えば、休会になればそのぶん収入が減るわけで…。すぐに困るということはないにしろ、見通しが立たない状況で、正直な気持ちとしては、休会を積極的に勧めたいとはどうがんばっても思えない。レッスン棟建設の予定もあるし。しかし、ここは、これから長く続いていく教室であるために、冷静になるしかない。丁寧に話すこと。この状況のなかで休講にしない判断も、迷いながらも今のところ続けています。もちろん、休みたい人は休めばいいという認識ではなく、いろんな可能性やリスクも考えつつ今はできると判断している。できないという判断になれば、休講なりなんなりの対応をする。この規模の教室のいいところは、生徒ひとりひとりの様子がよく見えること。それでも、実際のところ、どう感じているかは見たままではないかもしれない。そのことを分かりつつ、レッスンしています。(何を分かっていて、何を分かっていないか、という話!)
次に、楽器店について。(まだ読みつづけているみなさま、なんと、ここからが本題です。)事件(?)が起きたのは昨日。楽器店から講師に「Yが休講中のあいだ、自店コース(個人レッスン)で対応ができることを、ぜひとも勧めてください」とのお達しがくる。これにより、講師のグループラインにおいて「正気か?!」というムードに。具体的には…「経営状況ひっ迫」の事情もあるのだろうが、3月の休講とはわけが違う。この地域でも、県外からの往来状況や、感染が確認された人の行動歴の調査などから、まだしばらくは新たな感染者が確認されるだろうことは、明白。長期欠席の申し出も多くある。その状況下でこの提案を生徒にすることについて、講師としてはどうすべきか(足並みをそろえましょう)。…という議論になったというわけ。社会の中にいるという感じがした。ここでようやくその社会の生きづらさに気づいた(流された)人たちが、とっさに頭をフル回転させてとる行動とは、やっぱり「声を大きくする」だったのでした…。

以下、わたしの思う社会の生きづらさ。
生きづらさその一「社会では、まだ、大きい声の人の意見が通る」これが、みなさんがいまようやく感じていることだと思う。大きい声の人たちが決めたことのもとでしか動けない。そのことにわたしはずっと限界を感じている。最初の頃はいろいろ言ってみたりもしたんだけれど、今は、どのくらいの塩梅で動くのがちょうどいいか見極めるのに少しずつ慣れてきた。もちろんこれは「諦め」ではないとわかってほしい。これがわたしの2年間の社会人生活(…!)の成果です。で、わたしが2年間かかってちょっとずつやってきたことを、たったいまはじめて気づいた人が一晩でやろうとすると、またそこに「声の大きい人」が生まれて、「声の大きい人vs声の大きい人」という最悪の試合を観戦する羽目になる(今回はそのような事態はなんとか免れました)。まだ、としたその言葉に一筋の光を見ています。
生きづらさその二「思い込みは敵!」大きい声の人は、気づかないのである。このことに早く気づいてほしい。思い込みがちな人が何を思い込むかと言えば、つきつめていくと結局「わたしはただしい」なのである。ヨクナイに遭遇した時にとっさに(しかも無意識に)そう思い込む癖は、気をつけていないと、簡単についてしまう。わたしなりの対策は「ちょっと待ってね」と(できるだけかわいく)言うことです。
生きづらさその三「圧倒的な(!)想像力の欠如」事情があると言われたら、もうどうすることもできない。事情があると言われずに済むように、考えなければいけない。最悪の事態を想定しろとか、相手の気持ちをくみ取れとか、そういうことではない(それが足りてない人は、そのへんもなんとかしといてください、という感じだが)。これは、これまでの積み重ねが大きく影響すると思う。何かが起きてからどうにかしようとしても手遅れになっている。ふだんから、想像力をはたらかせておきたいところ。
生きづらさ(社会編)、まだまだ挙げられるけど、とにかく、昨夜はみなさんの声が大きくてびっくりした。これこそがわたしの感じる生きづらさなのに、そういう考え方はまだあんまり流行らないみたいだ。大きい声は、いいとか悪いとか以前に、単純にこわいので苦手。幸い、頭のいい人が多くて(頭がよくても頭がいいいだけでは大きい声を出してしまう…!)、中でもかしこい人がいたおかげで(これについてはまた別の物語で?)、今朝にはラインは落ち着いた。

ひとまずこんなところにしておきます。控えめな態度で書いた。どこかでまた、もう少し正直に話したい。読まれると思ったら思ったより長くなってしまいました(もっと読者を信用すべき。蛇足が多い)。

2020/04/07 「助けてくれェ~」

黙っている?あるいは、陽気に振る舞う?インターネット(と言ってもいろいろある)はむずかしい。インターネットで遠くの人を上手に思えていない気がする。
ここにはここでいろいろあって、大変と言えば大変だ(個人的にも、仕事がいろいろなくなっており、それがこれからどうなっていくのか見えない、など)。だけど、ここで何が起きているか、目で見て耳で聞いて、肌で感じることができる。良いことも良くないことも。それより、遠くにいるみんなのほうが心配だ。情報はこんなにも入ってくるのに、その空気感はいまいちわからないでいる。誰かが何かを思っているのも結局は私の想像でしかないのかもしれない(、たぶんそうなのだろう)。
助けたいと思う。助けてくれェ~と言ってほしい。みんな大変だろうから、ではなく。私は私なりの大変さの中で、しかし今のところ私なりになんとかなっている。できる範囲で大好きなみんな(括弧内省略)を助けたい。助けるのに、自分よりも大変な人を助けるという発想はなくていいはずだ。そもそもどちらが大変かと比べるのも変だ。
私はここでしかこの関連の話をしないようにしている(正しくは、他ではできないでいる)。みんな、どこで何を言っているの?みんなーーーー…!

2020/04/06 おだやかに無表情

こちらもちょっとゴタゴタしてきましたが、できることを判断して静かにやっていくしかないなという感じです。それは、できないことはやらないということでもあるんだけれど、やらない判断に対する同情や称賛はまったくもって見当違いだと思う。どんな判断にも、ただしい勇気は必要。
こういう私はよく、冷たいと言われた。だけど、同情や称賛からは、その人が思っていることが見える。それならば私にはとるべき態度があるはずだ。そのことがちゃんとわかった今は、だから、冷たいと言われることが減ったのかもしれない。

懐かしい気持ちになった。冷たいなといま思い返すのは、横が多い人の話。この話はある夜にこっそり喋ったので、もう言わない。
ただ、あのとき、私は何かと何かを天秤にかけるような気持ちは一切なかった。私が選んだ明日にたまたま君がいなかったというだけで、君のいない明日を選んだわけではないのです。

そう、何かを判断するとき、私はけっこう冷たい。冷たい、というのは、他人から言われる言葉をそのまま使っただけなのだけれど、それがどんな時なのか考えてみた。
たどり着いたのが「おだやかに無感情」。今もそうだけど、かなしいとかうれしいとかが少し減ってくる(数日前の日記でめちゃくちゃかなしくなっているが)。そのぶん良いとか嫌だとか思うようになる。そうすると、良いと思えることを粛々とこなしていくしかなくなる(粛々とこなすって表現はうまく伝わらなそう。うまく伝わっていないだろうと思った途端、まわりくどく説明したくなるが、喋りすぎは良くない。今日はやめておこう。いつかまた別の物語で。ひとまず、結局喋りすぎて長くなった括弧をはずす)。
この「おだやかに無感情」の状態が良いのか、肝心なところは分からない。が、おだやかであることは確かだし、無感情と言っても感情の存在は把握している。感情にかけるぶんのエネルギーを、勇気にかけている気もする。

春だからいくらでも寝られる。もう少し起きていて、本を読んだりしたい。2回目が楽しい本は、本当にいい本だなと思う。

2020/04/02 美味しいおにぎり

アイス食べてたら急にめちゃくちゃかなしくなった。(ツイッターみたいな言葉遣いだ。)お風呂掃除を念入りにすると、何でもできる気がする。台所のシンクを磨き、コタツの上を片付ける。クッションをきれいに置いてクマのぬいぐるみもちゃんと座らせる。ようやく一息ついて、昨日はんぶん残したアイスを食べることにした。
で、アイス食べ(ながら色んなことを考え)てたら急にめちゃくちゃかなしくなった、というところにたどり着く。

すごくすごく美味しいおにぎりを作りたいと思った。炊きたてのごはん。米にもこだわる。その米を作る土や水、空気も気になるところ。こうやって考えていって、広すぎる宇宙まで思った。そこには誰がいて、どう暮らしている?広すぎて、良い米が見つかる前に、私が死ぬか世界が終わるか、どちらかかもしれない。ここでいちど途方に暮れた。

そういえば今日、手芸屋さんに行くと、Wガーゼは「ひと家族ひとつまで」ということになっていた。老夫婦らしき二人組が、マスクを作りたいらしく店員さんにあれこれ尋ねている。少しして、レジのほうから「申し訳ありませんがひと家族おひとつで…」と聞こえてきた。そのあとに大きい声で「家族じゃない」と聞こえた。そうだったのか…(?)。仕事で使う布を買おうとしていた私に、知らないおばさんが「どこどこの薬局で(たぶんガーゼが)5枚600円で売ってた。私も今買ってきたけど」と声をかけてきた。だれ?殺伐とした雰囲気の店から、涙目で退散。
……。あーあ、思い出してしまった。今日は良いこともたくさんあったのに。前の段落、私の日記(にき)史上最悪の段落だ。こういうことを思い出しては、手がスッと冷たくなって、もう自分の力だけでは温まれない。
すごくすごく美味しいおにぎりを作りたかっただけなのに、たとえ良い米を見つけたとしても、こんなに冷たい手では美味しく握れるわけがない。かなしい。

これを読む人(いつかの私自身も含め)は、バカらしいと思うだろうと思う。が、想像以上に深いかなしみにいるわけで、それは伝わらなくても分かってもらえなくてもいい。ただ、私はほんとうに、すごくすごく美味しいおにぎりを作りたかっただけなんだ!今はもう、誰かの手のぬくもり、その手で握られたおにぎりを夢のなかで味わうしかない。

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