雨やどり


管理人室 -- 日記 -- 2019/12
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2019/12/30 そちらは寒いでしょう
2019/12/25 ほんもののサンタさん
2019/12/24 増えるエネルギーで
2019/12/18 教祖になりたくない
2019/12/09 お湯の味しかしないコーヒー
2019/12/03 社会(とかいうやつ)

2019/12/30 そちらは寒いでしょう

分かりやすい言葉でしゃべっていても素敵な人はいる。私にはそれができない。「そちらは寒いでしょう?」という人は、「ここに来たらあたたかくて驚きました」という答えを期待(想定)している。そのことを分かっていながら「ここはここで寒い」としか答えられない私は、もう少しうまい返しが見つからんかね…と自分でも思う。

さてここで、突然ですが、発表します。好きな二字熟語。第2位。「調査」。というわけで、いくつかくだらない調査をしている。
ひとつめ。夕方の鐘の音。何時に鳴るのか、なんの曲か、調性はなにか。そういえばテンポは気にして聴いていなかった。惜しいことをした。これからは気をつけて聴こう。同じ「夕焼け小焼け」でも私の住むこの街は、隣市や反対隣町より半音高い。見栄を張っている。私はよく田舎を「閉じられた恐ろしい場所」などと言うが、実はいまいちしっくりきていない。でも、いま何となく見つかった。こういうことなのだ。「めでたしめでたし」のハッピーエンドが多すぎる。もちろんそのハッピーエンドは思い込みだ。いつか、午後5時に「家路」(ローポポーと表現した漫画はすごい)が流れる街があった。あの時はいろいろがいろいろできちんと覚えていないのだが、気が抜けてしまうような調性だったと思う。そのくらいの時刻は、そもそも寂しいものなのだ。
ふたつめ。地域ごとの、方言による発声の違い。NHKで日曜のお昼にやっている『のど自慢』。あれは良い番組ですね。それを毎週欠かさずに見ている。名古屋や三重は「地声が強めの明るい響き」、東北や長野は「音程のない喋りふう」などである。そのうち、歌声を聴いて出身地を当てられるようになるはず。乞うご期待!つまり、他人の歌声を目の前でどんな顔をして聴いたらいいかわからない(だからカラオケは苦手)私が見つけた、他人の歌声の聴き方である。

そうは思わない時に、否定しないこと。寂しいときに、泣かないこと。良いと思わない時に、嫌な顔をしないこと。2番目に好きな「調査」は、そんなことのためでなくもっと純粋にしたいと思うのだが、なかなか難しい。まあ、調査自体は楽しいです。

2019/12/25 ほんもののサンタさん

メリークリスマスだね!メリークリスマスだよ!私の場合、一年中言っているから、今さら取り立てて言うことはないけれど、やっぱり、嬉しいものだ。クリスマスの何が好きなんてこともない。ただなんとなくクリスマスが好き。それだけだ。「何が」はなくても、影響を受けているものはある。
たとえば、『ホーム・アローン』は一番好きな映画と言っていいくらい好きだ。ちなみに、さっき観た。ケビンが「あなたはほんものじゃないんでしょ?…だから、ほんもののサンタさんに伝えてほしいんだ。」と言うシーンがある。ケビンが子どもだからサンタさんを信じているという話をしたいのではない。いまの私は、ケビンと同じだ。というのも、こんなことがあった。私の親友は、高校生のころ、サンタさんが親だったことを知り(親はまさか信じていると思わず、本人の前でその話をしちゃったらしい)、泣いていた。けっきょく一緒に笑い合った。それ以来、私は彼女とともに、私たちの前に現れたサンタは親かもしれないが、どこかにサンタはいる、と信じている。それから、この映画の最後に、パパが金歯が落ちているのを見つけるシーンもいい。本当にあったということが、共有される。物語の共有は、いつも必要というわけではないけれど、ふさわしいタイミングにあると、嬉しい。
あっ、もしかして、早く寝ないとサンタさんは来てくれないかしら…?!子どもの頃、プレゼントはいつ開けていたかな、と思う。休日ならばいいが、平日だと学校がある。早起きして開けた?いやそれとも、学校から帰った後で開けていた?たぶんそうだ。いまなら、一目散に開けるだろうな。その勢いでもしかしたら学校も休むかもしれない。
クリスマスは明るい気持ちで過ごす。そういう日なのだと、最近読んだディケンズの『クリスマス・キャロル』が思い出させてくれた。スクルージの改心はどうでもいいくらいで、クリスマスの描写がいい。この物語はまさに、教訓ではなく、贈り物のような一冊だ。だから、「想像力がないなぁ」と思う場面があっても、それを口にしない。それを私が口にした瞬間に、私の想像力もまた枯れていく。場面ごとで言うか言わないかはもちろん判断すべきだけれど、クリスマスくらいはもっとほかのことに思いを馳せていたい。
さて、サンタさんがもしかしたらもう煙突のあたりで待っているかもしれないから、寝ることにする。

2019/12/24 増えるエネルギーで

嫌いな言葉など、ない。その言い回しが嫌いなのだ。これはいつしかラジオで谷川俊太郎さんが言っていたことで、心の底からその通りだと思った。その気持ちは同じだと思った。だから、こうして時々おかりしている。

「成長」という言葉がうまく使えない。というより、私の言う「成長」が世間の「成長」とかみ合わないのだろう。それで私は「成長など、ない」ということにしている。しかし、ないということは、あるということだ。世間の言う「成長」なら、たしかにある。そこでなんとか、自分なりに思うニュアンスの言葉に置き換えてみる。生きづらい。
これまで、「成長」という言葉を「変わる」というような言葉に置き換えていた。いつかの日記にも書いたかもしれない。ふと、それもなんだか適当ではないような気がした。だったら何か。…「増える」。そう、これかもしれない。これだ。「増える」のだ。

考え終わるなんてこと、あるのだろうか。今の段階で思うことを言葉にしてみることや、いったん置いておくことはあっても、考え終えたことはないと思う。子どもと大人について、好きな作品について、言葉について…、その他どんな些細なことでも、考え終えたことがない。
考え終えたことがないということはつまり、そのことを思い出す時や話す場が、いつかどこかにあるはずだ。そういう相応しい場面のために、考え終えていないことたちが私の中にある。私自身が私自身の中に「増え」ていく。
私自身の中に「増える」のは、もちろん私自身だけではない。考え事だって、誰かがいるということ(あるいは、誰もいない時にも、誰かが必ずいつかどこかにいると想像すること)が、私自身の中に外の世界を「増やし」ていく。

よくなりたいと思う気持ちは、強くある。成長したいのではなく、よくなりたい。(いまここで辞書を引く人がいたら、悲しい。その人のことは嫌いにならないと思うが、私は勝手に悲しくなる。)よくなりたいなら考えるしかないと思う(とは言え、考えればよくなるということでは決してない)。そして、考えたことをいつも疑ってみること。それから、忘れたとしても増えていくから、安心して忘れていくこと。
ああ、増えていく。この増えるエネルギーでいつか「成長」という言葉をかっこよく使ってみたい。

2019/12/18 教祖になりたくない

久々に電車に乗って、歩き回って、いろんな人と話したら、こういうことが足りていなかった…と痛感した。すぐに忘れてしまう。
ポップスを聞き始めたが車のノリで歌いそうになったため、交響曲の日と勝手に定めて、長い電車移動で4曲聴いた。朝靄にかすむ山奥の工場とブラ2。師匠と会った後の電車のなかでのラフ2。明るい夜の東京を眺めながらドヴォ9。最終の特急電車とシべ2。我ながら最高の選曲だった。以上、余談。

教祖になりたくない!と強く思った。ある程度閉じられた空間では、誰でも教祖になれる。山奥の集落、学校、店…などなど、どこでも教祖は生まれ得る。しかもそれは必ずしも人ではなく、時に伝統だったり空気だったりもする。洗脳されることよりも、自分自身が教祖になってしまうことが嫌だ。
私は教える仕事をしている。「先生」という立場は、むずかしい。先生は教祖になりやすい。むずかしいが、まじめにやればおもしろいはずだ。まじめにやっていこう。
ところで、宗教とか教祖とかいうのは、敬遠されがちな話だと思う。勝手なイメージをそれぞれが持っていて、もちろんそれは私もで、それで勝手なことを言うのはあんまりよくないな、と反省。となると、学ぶしかない。

学ぶ、と言えば。教える立場でありながら、学び続けていることに対して、なぜかと問われた。「鈍らないように?それとも、よくなりたいという気持ち?」と言われて「よくなりたい、のほうかなぁ」と答えた。私が言葉にした「よくなりたい気持ち」はほんとうだろうか。「まだ学ぶことがある」というほうがしっくりくる気がする。「学べばよくなる」「よくなるために学ぶ」という思い込みには気をつけたい。(思い込みは敵!)
ただ、「よくなりたいという気持ち」は「学ぶ」ことと少し切り離して考えれば、やっぱりたしかにある。
「よくなりたい」くらいに漠然としたものはありながら、具体的に「こうなりたい」と思うことはあまりない(というより、しないようにしている)。「こうなりたい」よりも「こうするしかない」という気持ちが生まれる瞬間を見逃さないでいたい。そういう意味で、先延ばしにしてギリギリまでやらないことは、けっこういい手立てだと思う(?)。

東京のあるバーで「病み上がりなので」とか言ってオレンジジュースしか飲まなかったのに、その分の元気が余ってしまって、地元に戻ってからちらっと飲んで帰った。
バーでアルコールを飲まないこと。それに驚く人間だけじゃなく、それって普通のことじゃない?と思う人間たちが現れだしているのに、一筋の光を見ている。で、驚くほうの人間が「これからはそういうふうになっていくんだろうな」と言った時に、もう一筋の光を見た。世の中に信頼できる大人がいるっていうことは、いまの私にとっては、生きる力だ。

私の生きる力になっているうちのおひとりのある作家さんの新刊が11月に発売されて読み、思わず手紙を書いた。そのお返事の手紙がきのう届いていたのを今朝見つけて、すぐに読んだ。ああ、もう、どうしたらいいんだろう…生きていかれる…と思った。この宝物のような気持ちは、話したいが話したくない。いつか、その気になったら、話す。話すしかない時と人がいるのだろうと思う。

歩き回ること。いろんな人と話すこと。それができない時にも、そうしている時間があったこと、そしてこれからにもあることを忘れずにいる。

2019/12/09 お湯の味しかしないコーヒー

下の句です。今日の日記のタイトルね。お湯の味しかしないコーヒーは、私の人生に時々あらわれる。なんだかいつもいいタイミングであらわれて、いろいろを考えさせられる羽目になる。不思議なやつなのである。

1年ほど前、仕事を代わりに引き受けた人からお礼にお菓子とインスタントコーヒーのセットをいただいた。仕事分の報酬は会社からもらっていたから、それだけでいいのだが、「気持ち」というやつだろうか。それとも「常識」みたいなやつだろうか。インスタントコーヒーは、お湯の味しかしなくて、むなしい気持ちになった。おいしくもおいしくなくもなかった。

つい昨日(日が変わっているので正確には一昨日)の話である。えらく怖い(おもしろい)目に遭った。仕事で行った先で、いろいろと依頼を引き受けてくださった手前さっさと帰ることもできず、しばらく付き合わされて帰ってきた。宝石も扱っているらしいのだが、その勧め方が宗教じみていて、すさまじかった。「今日も一族を守ってくれてありがとう」と、毎日、石に感謝するらしい。
で、コーヒーを出してくださったのだが、明らかにインスタント。お湯の味。先方は砂糖とミルクを入れて飲んでいた。お湯に砂糖とミルク入れるとどんな味がするんだろう、とかなんとかくだらないことを考えた。それは、まずくはないがおいしくもなかった。

私はコーヒーが好きで、いつも車で片道40分くらいかかる山の珈琲豆屋さんに買いに行く。いつ飲んでもおいしい。しかし、そうだからインスタントがお湯の味しかしないのではない。お礼にものを渡す形式や、自分勝手な話、それらのお供になるコーヒーが、かわいそうなのだ。
(余談。もちろん私だってお礼にものを渡すときはあるが、形式としてではない。というか、そうありたいと思っている。親友は、誕生日でも何でもない時に「あなたが好きそうなお皿を見つけた」と言って送ってくる。最高。だから私も、とりあえず「いつもありがと」くらいの感じで、誰かの好きそうなものを誰かに送っていたい。なかなか彼女ほどはうまくできないけれど。この話はひとまずこれくらいにしておいて、長すぎる括弧をはずす…)
たとえインスタントでも、おいしいコーヒーはもちろんある。きちんとおいしくなる「時」があるということでもある。これについては、『学校ウサギをつかまえろ』という児童書を読んでほしい。20分くらいで読めちゃうと思う。私の言いたいことはこの中にある。いまここで飲むコーヒーはおいしいだろうなぁ、と思う瞬間が私にはある。そのことを忘れないでいさせてくれる一冊だ。そして、みつけたそういう瞬間たちを大切に持っていたい。

ところでこれは下の句ですから、上の句を募集します。お湯の味しかしないコーヒーが、私の人生に登場するたびに、短歌が増えていく。

2019/12/03 社会(とかいうやつ)

いい胃の日から始まったいい月も終わってしまった。柿をむいた。夜中にこっそり食べる柿がいちばんおいしい。

いらないと言っているのに、カバンに突っ込んでくる人。いるよね。なんだか可笑しい。老人の集まりのなかにいて、靴下や付録のバッグを押し付けられたことは、一度や二度ではない。終活、というやつだろうか。私だっていらないよ。自分で捨ててほしい。なぜ私が捨てているのか。しかし、ほんとうに腹が立たない。普段からそんなに怒るような場面はないが、イラのかけらもない。なんだか可笑しい、に尽きる。これは、笑えるやつ。
今日のは、笑えない(というかよくわからない)やつ。心配されているっぽかった。どうやら、社会(とかいうやつ)のなかでうまくやれと言われているらしかった。私は誰のことも敵だと思っていないし、味方もいない。私はあなたの味方だよなんて言われても、戸惑う。

そもそも私は私がいいと思うようにやっているのだ。誰に何を言われようと、いけないことは何一つしていないのだから、悩むことはない。いま私がいる社会(とかいうやつ)は、他人の事情が想像されにくい環境だと思う。「私たちみんな」がほんとうに「私たちみんな」なのだ。外部とのかかわりが絶たれた、山中の集落なので(大げさに言いすぎた)、そういうことがある。人間同士のつながりも奇妙だ。浅く強くって感じ(伝わる?)。奇妙というより恐ろしい。で、このつながりから抜ける時にいろいろ言う人が、どうやらいる。「相談もしないでいきなり何よ」みたいな感じ。知らないけど、たぶん、そんな感じだと思う。
ふしぎなんだけど、自分のことを相談するってそんなにいいものなのかしら。もちろんみんなにかかわることを相談するときもあるけど、自分の相談なんて、したいと思わないし、ほんとうに迷った時に言える人だって一人くらいしか思い浮かばない。その一人にだって相談するかわからない 「相談してね」とか「相談もしないで…」っていう人は、相談しない気持ちを想像したことがないんだろうな。
もしかして、「相談してね」と「相談もしないで…」はかならずセットなのだろうか。拝啓と敬具みたいに。もちろん、悪く言われればシュンとする。何を言われても気にしないなんてことはない。それにしても、「相談してね」と「相談もしないで…」には、決めつけや思い込みがある。思い込みは敵!

と、ここまで書いて寝落ちた昨日の日記を翌朝公開。文句しか書いてないじゃん。思いがけず寝過ごしたが、久々によく眠れた。

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